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文献名1大本史料集成 3
文献名2第2章 裁判所資料 >第6節 控訴審判決書よみ(新仮名遣い)
文献名3控訴審判決書(13)よみ(新仮名遣い)
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タグ データ凡例 データ最終更新日2026-06-16 01:07:10
ページ615 目次メモ
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本文 第一 右被告人等が昭和三年三月三日頃斯る不逞の共同目的を有し居たるやに付案ずるに大本は明治二十五年旧正月頃、京都府何鹿郡綾部町本宮村に居住せる大工職出口政五郎の寡婦出口直事ナカが神懸ありたりとし艮金神を祀り祈儔、禁厭を始めたるに端を発しナカを教祖(開祖)とし被告人スミを二代教主と為すと雖其教義を確立し、宗教的形態を整備するに至らしめたるは教主(ナカ時代)教主補佐、総裁、総統を称し居たる王仁三郎の力にして大正七年十一月六日、ナカ死亡し大正十年事件に因り有力なる幹部浅野和三郎脱退したる後は、大本は王仁三郎の独裁下に在りしものなれば王仁三郎の思想、信仰は即ち教団大本の教理、教義を成し両者は表裏一体の関係に在りたるものなるのみならず、王仁三郎を除外しては所謂大本なる結社を思考すること能はざるなり、故に昭和三年三月三日当時に於ける大本の根本思想、根本目的を明にすることは即ち結社大本の組織者と目せらるる、右被告人等の当時の思想目的を明にし同人等が公訴事実の如き不逞なる意図を有したるやを闡明ならしむる所以なり、大本の根本目的が立替立直に依るみろく神政成就に在る事は右被告人等の斉しく認むる所にして所謂立替は破壊、立直は破壊後の建設を意味し現幽神三界に及ぶものなることも亦被告人等の認むる所なり、大本文献中三千世界の大洗濯、大掃除等とあるは立替を意味し神政復古、地上神国建設等とあるは立直を意味す、みろく神政とは立替立直に依り建設せられたる理想世界にして立替立直は其の手段みろく神政は其の目的なりみろくの神政とは宇宙創造神の意思に従ひたる霊主体従、至仁至愛、平和幸福、善一筋の世を云ひ神国の世、松の世、水晶の世等孰れも同意義なり、大本の根本目的たるみろく神政成就が公訴事実摘記の如き不逞の思想を包含するや否や即ちみろく神政成就の真意義を把握するには先づ大本思想の基調を為す大本の宇宙観、神霊観、人生観即ち教理を明にせざるべからず。
 ㈠ 大本の教理を説述したる文献尠からず法廷に顕はれたる文献中主なるものを挙れば、神霊界大正八年八月十五日号(被告人出口王仁三郎事件証第七二四号)第五頁皇典釈義、同大正九年九月十一日号(同証同号)第一五頁、古事記、言霊解、霊界物語第一篇(同証第三、六五八号)第五章霊界の修業、同第六篇(同証同号)第五頁、松葉の塵、同第四十八篇(同証同号)第三頁、第一章聖言、第二〇九頁、第十二章西王母、神の国大正十年八月創刊号(同証第三六三号)第六四頁、道の栞、同大正十四年七月二十五日号(同証第三七八号)第六頁、道の栞、神霊界大正七年二月号(同証第七二四号)第九頁、太古の神の因縁第三五頁、皇道大本の真相、出口王仁三郎全集第一巻(同証第一、八一〇号』第二二二頁、古事記の事ども、神霊界大正九年一月十五日号(同証第七二四号)第一九頁、随筆、霊界物語第四十七篇(同証第三、六五八号)第一頁、総説、神霊界大正七年五月一日号(同証第七二四号)第七頁、帰神に就て、霊界物語第六十三篇(同第三、六五八号)第七四頁、山上の神訓、出口王仁三郎全集第一巻(同証第一、八一〇号』第四三一頁厳霊瑞霊第五七六頁、和合の真義、同第二巻(同証同号)第八八頁、皇道大本は宇宙意志の表現、皇道大本大要(同証第四、一五一号)第五四頁、大本教旨等なり、
而して大本教旨「神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰者なり、神人合一して茲に無限の権力を発揮す」は大本の教理を端的に表明したるものにして之を解説したる人類愛善新聞昭和二年四月一日号(被告人出口伊佐男事件証第七〇号)所載神と人と題する伊佐男執筆の論説は右諸文献に現はれたる大本の教理を要約したるものにして其の全貌を窺ふに足るものなり、
其要旨は、神は万物普遍の霊、神とは宇宙活動力の本源なる活霊を言ふのである、すべて活動力はその性状を異にせる二方面のものの結合によりて発生するものであつてこの相対的のに方面のものを霊と体、陽と陰、火と水、男性と女性等種々の名を附されてゐるが陽性のものを霊と称へ陰性のものを体と称へることが最も適当であると思ふ、この霊と体とが結合して力を生じここに霊力体の一物が成り立つのである、これを霊力体の三位一体と称へ大は宇宙より小は微細なる微粒物に至るまで万物悉くこの霊力体の三元に因りて形成されざるはないのである、この霊力体の大元を宇宙の大元霊とか或は造物主、創造者等と称へられ、我が神典には古より之を天之御中主神と奉称されてゐるのである、この天之御中主大神の無限絶体無始無終の霊徳は漸次顕著となりてここに陰陽二元を発生した、この陽霊を霊素(又は神霊原子、言霊原子等)と名付け、神典にては之を高皇産霊神と称し又陰霊は之を体素と呼び、神典にては神皇産霊神と申すのである、故に高皇産霊神は陽系の祖であり神皇産霊神は陰系の祖にして共に天之御中主神の陰陽両方面に夫々神名を附したるもので天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神を造化の三神と申されてゐるが、本来この三神は一体の真神であり、これを主の神、又は主神とも称へ支那にては天帝或は上帝、天主などと云ひ易学にては大極、仏典にては真如、基教にてはゴツト、エホバ等と種々呼称は異つてゐるけれども結局同一神なのである、
真神の御霊徳は更に陰陽に霊の奇びなる相互の交はりにより、それぞれ特殊の霊性を有するたましひ即ち霊線を成して種々の妙なる活機を生じて来た、その活機の状態如何によりて是を和魂、幸魂、奇魂、荒魂の四魂と称し各魂に具有して四魂を主宰する一霊を直霊又は真霊といふのである、一霊四魂はこれより無限に分派して分れ出づると共に宇宙の大原動力となりて霊妙なる力徳を発し、かくて陰陽に霊なる体素、霊素を産霊に産霊て精気を生じ更に変化結合して科学の所謂電子が生れて原子となり、順次霊的より顕的に進みて陰陽水火の活用益々加はり遂に天地を創造して森羅万象を成就さるるに至つたのである、故に天地万有は真神の力徳即ち活動力に因り創造されしものにしてこの力徳の塩梅加減、活動力如何の結果が善悪美醜、大小強弱千種万態の万物となつて現はれ出でたのである、この広大無辺なる活動力こそ宇宙の本霊、本力、本体の合致した活霊の無限の勢力なのであつて、実に大宇宙は活霊の遍満充塞せる大活機体、大実相体の成立であるから之を真神の大精霊体とも一大神人ともいふのである、故に真神は只一柱ましますのみであつて無限絶体、無始無終の神格を持し玉ふ独一真神である、神典に八百万の神名があるのは真神の千変万化の活動に対して附されたる名称であつて、悉く真神の顕現であり分霊、分力、分体である、而して之等の諸神霊は真神の命によりて各その神務を分掌し玉ふのである、真神の活動力は悉く神の御意志より出づるのであつて、生み出だされたる諸神諸霊の万物は残らず神の御目的の下に即ち用のために造られたものばかりである、
神の御目的とは何か、それは真神の神性なる真善美の発揮即ち一大神人の完成である、この大神人の大精神界なる内面即ち霊的世界を霊界と云ひその外面即ち体的世界を現界又は物質世界等といふ、霊界は亦想念の世界とも称へられその真善美なる境域を神道家は高天原と唱へ仏者は極楽浄土又キリストは天国と称し、虚偽罪悪の至醜至穢の境域は之を地獄或は根の国、底の国等と呼びこれ等両境域の中間情態を中有界、浄罪界、精霊界、天の八衢、六道の辻等と云はれてゐる、この清浄歓楽の天国情態を現実の地上に実現し顕幽一致の天国即ち神国を開いて之を無限に繁栄せしむるのが神の永遠不易の御目的である、万物は悉く霊と体との相対的結合より成り立つて居ることは前述の通りであるが、この霊と体とをもし引分けるならば、その物其儘の存在は出来なくなつて了ふ、その如くこの世界も霊界と現界との相対的和合より成立するのであつて、之を霊と体との二様に見ることは出来るが、全然分離することは出来ない、即ち霊と体とは一体不二にして之を霊体不二、或は顕幽一致といふのである、この霊と体とを結合せしむる力はすべて真神の御意志なる神愛より出づるのであつて神は御目的実現のために相応したる霊と体とを結合さるるのであるから、天地万有一切は実に神の無限の神愛のもとに成り立つてゐるわけなのである、学者が化合の起る原動力を親和力といへるは親和即ち愛であるからまことに適当なる名称と云はねばならぬ、各原子にはそれぞれ親和力があつてその親和力にも強弱があり、又親和力の性質にも甲に対しては仲が好くて直に和合するが、乙に対しては仲が悪くどうしても一緒にならぬといふやうに各差異があるのである、学者は之を応用して種々雑多の物を化成したり又分解したりするのであるが、然し和合させることも分解することもすべて神の御心にあるのであつて、人間は只神の御許しのあつた場合に之を媒介さして頂くまでのものである、発明とか成功とかは神の御許しを得た時即ち現代的に云へば真理に当てはまつた時に限るのである、
真神は御神格中の愛の御力によつて一切のものを結合せしめらるると共に又更に御神格中の信真を以て万有を統制し玉ふのであつて万有は信愛の現はれなる、一定不変の神律のもとに活動することになつてゐるのである、而して一定不変の神律とは常に霊が主であり本であり、体が従であり末であるといふ生成化育の順序即ち神的順序をいふのであつて、之を霊主体従の原則といふ、要するに神とは宇宙に遍満充塞せる一切の活霊の総合であり、根元であつて宇宙の一大生命大本尊なのである、また宇宙なる形体は神の活顕であり真神の宿る大みからだである、換言すれば万有一切は皆真神の御子であり、御分体であり、又御顕現であつて、以上述べたる所に依り「神は万物普遍の霊」なることが稍明かになつたと思ふ、人は天地経綸の司宰者、神は無限の霊徳を以て創造されたる世界を更に修理固成し至善、至美、至安、至楽の神境となさしめ玉はん大御心より遂に分霊、分力、分体を以て人を生み、天地経綸の司宰者となし玉ふたのである、故に人は最も完備せる霊魂と最も霊妙複雑なる肉体との結合より成り立ちその能力も亦万物に秀でてゐるのである。霊魂はこれを精霊とも云ひ各精霊には内面と外面の二方面を有する、精霊の内面とは霊魂の意志及びその意志より来る想念に属する状態であつてこれ等は人の内分となり精霊の外面とは外面に現はれたる面色、語辞、動作等の外的状態をいふのであつて外的記憶なる人間の知識や学問等より来る悦楽及び快感のすべて世間的趣味を帯ぶるもの又肉体の感官に属する諸々の快感及感覚、言語、動作等合せて之を人間の外分といふのである、
霊魂は真神の一霊四魂より分派して分れ出でたる霊線のむすびかたまりたるものであつて、同じく一霊四魂より成り絶えず真神より流入し来る活霊によりて生命を保持し活動を続けることが出来るのである、真神より霊魂に内流し来るものは神善と神真である、神善とは即ち愛そのものであつて之を愛善と云ひ神真とは即ち信であつて之を信真と称ふ、この愛善と信真が神の御神格であつて我々人間の運命はこの御神格を如何に摂受するかによつて定まるものである、神格の内流を受けたる霊を直霊または大直日と云ひ流入された神力は四魂を完全に活躍せしめ荒魂は勇となりて、進、果、奮、勉、克の用をなし、和魂は親となりて平、修、斉、治、交の用を為し、幸魂は愛となり益、造、生、化、育の用をなし、奇魂は智となりて巧、感、察、覚、悟の用をなしかくて天地経綸の司宰者として人の人たる真の活動が出来るのである、かくの如く人の主体なる至真、至善、至美、至直の霊魂が主動者となり、その容器であり、機関であるところの肉体がその意志に従つて活動するを霊主体従と云ひ、又単に之を善と云ふ、然るに之に反して自己愛が主となり、体欲に駆られ至善、至美の精神二代ふるに悪欲悪念に充たさるるに至らば真神より来る御神格の内流は閉塞して真霊忽ち悪化して曲霊と変じ、荒魂は争となり、和魂は悪となり、幸魂は逆、奇魂は狂のはたらきとなつて遂には万物の霊長たる人間の精霊も邪悪と虚偽の悪霊となり神に対して反逆の行為をなすに至るのである、之を体主霊従の行動と云ひ又単に之を悪と称ふるのである、人間の肉体は自愛が主となりて其の生命を維持すると同時に悪を改めて善に遷り、諸の真理を判断し得る能力を真神より直霊に流入さるるが故に、人間は両者の中間にありて平衡の情態を保持し得ることとなり、又両者何れにも感応し得るところの性情を有するによりてここに意志の自由が生じて来るのである、この意志の自由あるがために善悪正邪の理解弁識が出来より益々向上することも又一面肉体を保育することも機に臨み折に触れて応変自在の活動することも出来得るのであつてかくてこそ神の生宮天地経綸の司宰者たる天職を果すことが出来るのである、彼の動植物の如きは意志の自由が与へられてゐないが為めに自ら進んで天律を破ることなく、一定の境涯に居りて夫々の役目を果してゐるのである、人間は精霊と肉体との結合より成るものであるがその結合の初まりは妊孕であり、結合が破れて霊肉分離したる時を死といふのである、この場合肉体は二十足らずの元素に還元し遂に人体としての姿は腐敗して無くなつて了ふのであるが、人間の本体なる精霊はやはり霊魂、霊力、霊体の合致した霊物であるから永遠に活動を継続するものである、而もこの精霊にも現身の如く五官機能があつて自在に環境を感知し得るのである然しそれは霊界事物に限り現界事物に対しては不可能である、
而して人間の死後何人も経過する状態が三途ある、其の第一は外分の状態即ち現界的知識にある状態であり、第二は内分の状態即ち霊界知識にある状態、第三は準備の状態である、精霊の面貌容姿(霊身)は霊の意志想念の如何に想応しその情動によりて変化するものにして甚だしきは全く別人のやうに変るものである、大体人間の霊魂はその自性上より見れば情動そのものに外ならないのであつて、霊身は物質より成る所の固定的躯殼と異なり自由無碍のものにして想念情動の現はれが面貌容姿となるのである故に、一切の霊魂の面貌容姿は要するに其の情動の形態であり、証像であり又索引であるから霊界に於ては情動を詐り裝ふことが絶対に出来ない、これ霊界は想念の正界と称する所以なのである、霊界は天国、地獄、中有界の三大境域に別れてゐることは前述の通りであるが、之等の境域は更に各数段に別れ各段の中にも更に多くの階級的団体があり、各階級も亦多種多様の個々団体の区分がある、現界は霊界の映象、移写であるから霊界にも現界と同じく山野、河海即ち国土があるのである、就中中有界の状態は現界国土と最も相似し天国はそれを遙に遙に真化し美化した光明世界であり、又地獄界は之に反して現界に於ける一切の醜悪汚穢なる部分を層一層醜悪汚穢にした暗黒世界である、霊界は総てが霊的の要素から成り立つてゐるので現界の事物の如く容易に変遷するものでは無い、之が現界と霊界との相違せる点である、人の世にある時その愛なるものが神より来る愛即ち愛善の至心を主としておるならば、その精霊は既に生前に於て籍を天国に置き霊肉脱離すれば真善美の和合せる愛善の国土所謂天国に復るものであり生前その主とする所の愛が地獄的愛即ち自己愛であるならば、既にその精霊は地獄界に籍を置けるものにして死後は邪悪と虚偽との合致せる愛悪の国土所謂地獄界に墜つるものである、死後精霊の天国にあるものを天人と云ひ特に使命を有する天人を天使と称し、その地獄界にあるものを邪鬼、悪魔といふのであつて天人といふも邪鬼、悪魔といふも悉く人霊の向上又は堕落したものに外ならないのである、真神を除く外一個の天人たりとも天国に生れ其の儘天国に於て成育したるものは無く、必ず一度その霊子は人間の肉体内に入り肉体の成育と共に肉体同様の霊身を造り上げて初めて天国に昇り得ることが出来るのである、
神が人間を現界へ生れしめたる目的は天国、地獄の栄えを無限に開くべく神より霊子を体に降して完全なる発達を遂げしめ、相応の神業に従事せしめんが為であつて現界人の肉体は天人養成の苗代であり学校である事を悟るべきである、されば人間の肉体の死なるものは決して滅亡では無く人間が永遠に亘る進歩の一階段に過ぎないわけで、只人間の所在と立脚地とを変更した迄である、意念も愛情も記憶も皆個性の各部分であつて不変不動の優に残り、死後も現界にありし時同様それ相応の地位、団体にありて秩序的に生活状態を続けて営むものである、天人と云へば常に歌舞音楽に耽つて歓楽に酔ふてゐる如く考へるものが多いのである、が、すべて神が天地を造られたるは目的即ち用あるがためであつて一物として用無きものは無く天人も亦天国に於て天国の栄えのために各自天職を楽しみ営々として相応の神業に従事し無上の歓喜幸福に浴してゐるのである、人は之を言霊の上より解せばヒは霊であり、神であつて真神の活霊を指しトは止まる意にして神霊の止まる究極点といふことになるのである、この意義より云へば人とは真神の活霊即ち神格の内流を受け入れて完全に其のはたらきを発揮するものを云ふのであつて現界にあるものは之を単に人と呼び霊界にあるものは之を天人と称へるのである、故に体主霊従の行動をなし神格の内流を閉ざして、常に虚偽邪悪なる心を有するものは真の人に非ずして、人面獣心即ち人獣とも云ふべき妖怪変化である、而し真の人にも神格の内流摂受の程度及びその霊能の活用如何によりて優劣高下の別があるのである、之を二種に説けば其の一は真神より直接の内流を享受したる神の顕現神の表現なる人であつて、之を大神人とも云ひ又は大真人、大聖人などとも称し時代の必要に応じて神人和合、天国樹立のため特に地上に降りて世を救ひ玉ふ所謂救世主を指して云ひ、其の二は中間に天人天使達を通じて間接の内流を摂受せる一般の其人達をいふのである、すべて人と生れ来りし人類は現界にありては地上天国建設のために活動し、霊界に入りては天人天使となりて天国の繁栄のために神業に従事しなければならぬこの真意義を「人は天地経綸の司宰者也」といふのである、
神人合一、神人合一とは神格の内流を摂受して神人和合し一体不離の状態になることをいふのである、内流には直接内流と間接内流の二途あることは前述の通りであるが何れにしても結局神人合一となるのであつて、如何にすれば其の境地に進むことが出来るかと云へば人はどうしても真神の一断片たる以上一切のものの本源に坐す無限絶対無始無終なる真神を信じ且つ愛し奉り神人一体となりて活動しなければならぬのである、神を信ずる事益々強く神を愛し奉る事愈々深ければ深いほど、内流は益々加はり来りて神は人なり、人は神なりてふ神人合一の境に入りその思ふ所、云ふ所、行ふ所は悉く神の神格なる愛善と信真に基づき過去と未来に超越して、時間と共に水の流れに任すが如く天地経綸のために最善の活動をなすに至り、茲に及びて神の神たり、人の人たる無限無極の権力即ち権威を発揮し至真、至美、至安、至楽の妙境を身内身外共に開くことが出来るのである、故に「神人合一して茲に無限の権力を発揮す」と示されたのである と謂ふに至り、然るに王仁三郎は右大本教旨に付予審第十一回訊問に於て大本教旨は之を普通に解釈すると、神は万物即ち人間其の他の動物、植物、鉱物等に普遍に宿つて居り、万物の霊は神である人間は地上総ての経綸(仕事)の司宰者である、従つて神霊と人(体)とが一致して初めて無限の権力を発揮すると云ふ意味になるが私は大本教旨に独特の解釈を下して教旨に神とあるのは八百万の神の事ではなく、世界中の一切のものを支配する独一真神の事である、独一真神が天地の経綸を行ふ為地上に降りるに付ては其の大元霊の宿る(止まる)人が必要である、独一真神の大元霊の宿る人は世界中に一人の外はない、独一真神から選ばれて直接大元霊の内流を受けた者が、大本教旨に所謂「人」で大神人である、大教主である、其の他の人は「人類」又は「人間」である、大教主は地上の経綸の大司宰又は司宰者であつて無限の権力を持つて居るものと説明し
大正十四年八月に人類愛善会を組織した頃以来役員に右の説明をして聞かせ、私が独一真神たる天之御中主神又は同神の極徳を顕現せられた天照皇大神は独一真神)より選ばれ直接同神の内流を受けた大神人大教主であつて、私が日本其の他世界の統治者となるべき無限の権力を持つて居るのであると云ふ事を暗示して宣伝して居りたる旨供述し、右教旨の人は天地経綸の司宰者なりとあるは王仁三郎が世界統治の主体なる義なりと説明し居れり、然れども大本教旨は大本の教理を端的に表明したるものにして、王仁三郎の政治的意図を包蔵せしめたるものに非ざることは前掲文献に依り明にして、若し斯る意義を有するものとせば、右多数の文献に論述せられたる大本教理が整然たる筈なく粉更を免れ得ざるところなれば、右供述も畢竟前記伊佐男の論説に説き居れる如く真の人にも神格の内流摂取の程度及真の霊能の活用如何に依りて優劣高下の差別あり、真神より直接内流を受けたる人は神の顕現なるを以て之を大神人、大真人、大聖人と称し時の必要に応じ神人和合、天国樹立の為特に地上に降りて世を救ふ、故に又救世主と云ふと謂へる意義に於て王仁三郎自ら大神人、大救主を以て任じ居れることを述べたるものと解するを相当とすべく、王仁三郎が大真人なる語を用ふるに至りしは神霊界大正八年七月一日号以降六回に亘り掲載せられたる王仁三郎の師大石凝真素美の弥勒出現成就経の釈義中仏説観、弥勒下生経の予言したる現代日本なる論説に示唆を受けたること多きものと認めらるる(神霊界大正八年八月十五日号第十六頁の記事参照)ところ右論説には「其中に適ま 至真の大度衡を発見して億兆万機を明に測量しつつ世に弥満したる一切を以て明に其極点を執り勒して自由自在を得せしむる至真の大真人が出現して以て極乎として世界人事の極則を照らし至真大道の真台なる固有歴々たる君臣民の大義明文を審判して、其秩序を理め一切人民に衣食住を授与して永世無窮に渡りて乱軍なく困窮無く、盗賊無く病痾無く治安し給ふべく教法を施す好機会が到来する事を正に当に観し得たり」(同誌大正八年七月一日号第九頁)とありて、大真人が統治権者たるの意義を含むものに非ざること明白なり、故に王仁三郎が自ら大真人なりと称したることを以て、日本及其の他世界の統治者となるべき無限の権力を持ち居れることを暗示したるものとは解し難く、王仁三郎の前記供述中末段の部分は肯認すること能はざる所なり、
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