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文献名1大本史料集成 3
文献名2第2章 裁判所資料 >第6節 控訴審判決書よみ(新仮名遣い)
文献名3控訴審判決書(22)よみ(新仮名遣い)
著者
概要王仁三郎が明治42年頃から自ら天皇・世界統治者になろうと企て、教義を組み立てたとの検察側主張を検討する。予審供述にはそれを認めるような部分があるが、公判供述や文献と矛盾し、取調べ時の誘導・圧迫の可能性も考慮して信用性を否定する。警察が捜査途中から大本の「剿滅」を前提としていたことを示す資料も、供述の評価上重要であると指摘する。
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2026-06-17 13:08:24
ページ656 目次メモ
OBC B195503c220622
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本文 ㈥㋑ 本件公訴事実に依れば王仁三郎は明治四十二年二月頃自ら先づ日本の統治者と為り、次で世界の統治者たらんとする不逞の意図を抱くに至り、之が実現を期し順次教義の組立に努めたりとあり、王仁三郎に対する予審第九回訊問調書(第八冊第三、一九九丁)には、私は教祖より素盞嗚尊であると言はれて居る内に、何時の間にか私自身が素盞嗚尊の霊代であると云ひ度い様な気持になり、同尊が神逐ひに逐はれた事、大国主命が国譲をした事を思ひ又現在の社会が弱肉強食の強い者勝の世になり居る事を思ひ合せ、明治四十二年二月に直霊軍を発行する少し前頃に、此の弱肉強食の世の中の全ての事を改革して私が先づ日本の統治者となり、次で世界を統一して世界の統治者とならうと云ふ考を持つ様になり、夫以来順次大本の教義を組立たる旨の供述記載あるを以て、王仁三郎は明治四十二年二月頃国体変革を目的とする不逞の決意を為したるものの如し、
然れども右予審の供述は国体の変革を目的とするが如き重大なる決意を為すに至りたる動機として首肯せしむるに十分ならざるのみならず、岩田久太郎著大本略史、出口王仁三郎全集第八巻我半生の記に依れば、王仁三郎は明治三十九年神官を志し、出口方を出て京都に赴き苦学し、同年九月京都皇典講究所に入学し翌年三月卒業内務省の官国幣社の禰宜主典と為るべき資格試験に合格京都市内の建勲神社の主典を拝命し、同年十二月辞任翌年二月頃京都市伏見なる御嶽教大本庁の主事と為りたるも、同年十二月辞して綾部町に帰り専ら大本活動に従事するに至りたるものにして、明治四十二年二月は大本帰還直後に属し斯る不逞の決意を醸成する心境にありしものとは認め難く、
且同年二月十五日附発行直霊軍第一号(前同証第一一九号)に掲載したる創刊の辞には、茲に直霊軍なる神道団を組織し満天下の志士を糾合し皇祖大神の授け給へる敏心乃日本魂を振起し荒魂忠勇義剣の手上取縛り伊豆の男健ひ踏健ひ、伊豆の嘖譲を起して海往かば水譛屍山往かば、草生屍大君と惟神の道の辺にこそ死なめ閑には死なじ顧みはせじと、弥進みに進み邪悪の砦に向つては弥迫りに迫り、悪魔の軍勢を山の尾毎に追伏せ河の瀬毎に追払ひて、服へ和し凱歌を奏して神国を泰山の安きに置かんと欲するの微衷に出でたるのみ、直霊軍は今や将に呱々の声を揚げたる赤子の如しと雖も其任や至つて重く且大にして範囲亦広漠たり例令軍士、参謀彬々たるも数百の戦闘員あるも、一鳴人を驚かして社会の惰眠を覚醒するは難事に属す、仰願くは海内有志の士よ速に来つて本軍の目的を援助し玉ひて、本教天授の真理活教をして塩沫の凝りて成るてふ海外の諸国に迄も旭日と共に宣伝し、諸教をして一に帰せしめ日出る国の真価を発揮せば亦以て皇猷を天壌無窮に賛襄する事を得ん、
同号論説には直霊軍は今や時代の要求に駆られて生れたり、万邦無比の国体を弁明し惟神の徳性を宇内に拡充し国恩の万一に報ぜんとす斯国の大君に臣事し斯国の恩に浴し斯国に安全なる生を托して斯国の粟を食む同胞諸士よ、斯国の為本軍に参加し来て敬神忠君愛国の至誠を涵養し以て、祖先の遺風を顕彰せられん事を希望して止まざる故なり、
同年三月十日発行同誌第二号の論説には抑我国は神の建て玉ひし国なり、神の開きて神の守りたまふ国なり、万世一系天立君主たる現人神の治め玉ふ聖地にして神道を行ふ君士国なり、故に我国は万国に勝れて尊き国体なれば又自ら善き道あり、即ち惟神の大道と称し古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる天来の真教活理ある美し御国なり、とあり、其他同号所載の紀元節及鎮魂と題する新体詩、同年四月三日発行同誌第三号掲載の論説、同年六月十日発行同誌第四号掲載の論説等孰れも敬神尊王愛国を説きたるものに非ざるはなく、不逞思想を窺ふべき片鱗をも見ること能はざるは、王仁三郎の当時の思想が不逞の意図を抱懐するが如きものに非ざりしことを推認するに十分なり、加之王仁三郎に対する予審第七回訊問調書中国常立尊の退隠及再現の理論を主張し始めたるは、明治三十七年秋頃教祖が国常立尊の事を云ひ出してより間もなき事なる旨の供述記載、同第八回訊問調書中明治三十六年頃自分が素盞嗚尊の霊代なりと言ひ出してより素盞嗚尊の神逐及再現なる教義を案出したる旨の供述記載に依れば、王仁三郎が右両教義を案出したるは不逞意図を抱きたりと云ふ明治四十二年より遙に以前なり、
想ふに王仁三郎の右不逞決意時期の供述は火之巻第四四七頁の変性男子の身魂を明治三十二年の六月二十三日に竜宮館の高天原へ引寄して、色々と気苦労をさして身魂の荒研を致さしたが女子も余り我が強かりたので改心さすの二十年掛りたが、明治四十二年の七月十二日から坤の守護に対して、大本の経綸の御用を命して来たぞよ、との大正七年旧十月二十九日附王仁三郎の筆先に由るものならん乎、前記公訴事実は措信し難き右王仁三郎の予審供述以外之を認むへき証拠なし、

㋺ 次に大本不逞思想を端的に表現したるものにして有力なる証拠と目せらるるは前顕十二段返の宣伝歌(被告人中野与之助事件証第一号に掲載の歌)なり、右宣伝歌に付王仁三郎に対する予審第十回訊問調書には、私が此の歌を作りし動機は大正六年十二月頃に綾部町西町の大槻鹿造方へ行きし時、鹿造方近所の四十才位の女が鹿造方へ天理教のお筆先を持つて来たので、夫を見ると今の天子は外国から来られたのであると云ふ趣旨の事が書きあり、又其の時其の女が天理教の管長様の中山新治郎が日本の心即ち中心になるのであると話せり、私は其の天理教の筆先及女の話からヒントを得て大本に帰り、別荘と云ふて居た六畳の間で白紙に縦横の線を引き縦横二十二字宛書ける様にし、四段目に「あやべにてんしをかくせり」の十二字を右から左へ並べて書き八段目に「いまのてんしにせものなり」の十二字を左から右へ並べて書きたる上第一行目から普通の読方で読んで行くと大本の宣伝歌になる様に平仮名を書入れ、其の下に十二通の十二段、四段門の云々の歌を書き尚「いつのひかいかなる人のとくやらむ、このあめつちのおほひなるなぞ」の歌を書きしものなる旨の供述記載あり、王仁三郎は右宣伝歌は自作なりとて其の作成事情に付詳細陳述し居れども、原審併合第十三回公判調書(第六、五三五丁)には証人石田卓次の供述として、大正十三年三月下旬か四月一杯なりしと思ふが私が未だ静岡市内に居住せし頃なり、私は其頃胃腸を害し伊豆の湯ケ島に湯浴に行つたが同所の金竜鉱山に同郷の人が三人働き居りし故、私は同人等の合宿所に泊めて貰ひ居れり、同所には大本信者の安藤唯夫が居り其の家は合宿所の道路を隔てて直ぐ側にありたり、私は一日中仕事もなくブラブラして居たので安藤は私の所へ来て色々話をして居たが、其間に安藤は三日連続して夢を見たので夫れを夢物語として書き居る故読めと申すので読んだが其次に来た時に御示の十二段返の歌を持つて来て之を読めと申したり、私は夫れを読みしも訳が解らざりしが安藤は四段目を右から左へ、八段目を左から右へ読めと申す故教へられた通り読むと恐ろしい事が書きあるので私は吃驚して、之は何とした事か誰がこんな事を書いたかと申したら、安藤は之は俺が書いたと申したので私はこんな事を書いて怪しからぬと申すと、「てんし」と云ふのは天の使と云ふ事であり「エンゼル」の事であると申したり、然し私には何うしても簡単に「エンゼル」とは思はれぬので、安藤を疑問視し居れり、安藤唯夫は大本信者なるが綾部に居た頃はドンナ役職につきドンナ活動をして居たか知らぬが、終り頃には湯ケ島に支部を造り其の支部長をして居たと思ふ、安藤は此歌を自分が作つたと云ふて原稿を見せたが、歌は非常に上手で人の名でも即座に歌にして、興に乗ると幾らでも歌を作り歌には天才的な所あり、隠し言葉の淫猥なる歌を作り人を笑はせた事も一、二度見たる旨の記載あり、当審第十一回公判調書には証人福井精平の供述として、大正九年なりしと思ふが私が安藤唯夫の所へ行き、大本の神を祀つた部屋で話し居ると安藤が机の上から五、六枚の書いたものを持て来火鉢の前で内一枚を私に見せたるが夫が此の歌なり、安藤は此の歌の中にぴつたり玉手箱が仕組まれてあるが判るかと云ふ故、私は読みしも判らず何所に玉手箱があるかと訊くと安藤は他の原稿用紙を持ちながら私に見せたるが夫は色々校正した所があり玉手箱と云ふ所には印がしてありたるが何んな印かは忘れたるも、安藤は夫を無造作に読み私に示したり、何んな所に印がしてあつたか憶え居らず、安藤が読み聞かせた文句はよく憶えぬが、てんしはあやべにしぐみがしてある、と云ふ様な事故私は吃驚したり、もう一つはいまのてんしはにせものなり、と云ふ様なものなりしと思ふ旨の記載あるを以て、右宣伝歌は安藤唯夫が遅くとも大正九年頃作成したるものと認めざるを得ず、右宣伝歌の欄外に記載しある「いつのひか云々」の歌は前同証第二、〇三一号及昭和三年一月二十五日発行真如能光(同証第六三五号)第一〇二頁にスミの作なる九首の和歌と共に記載せられ、右の歌には特にみきのうたさんたいさんのうたでありますと奥書しあり(但歌の初句は「いつのよに」となれり)、尚大正十二年七月十日発行神の国婚儀記念号(同証第三六三号)十五頁には右の歌はさとまる(三代あさのの雅号)の歌として、其の筆跡を写真版として掲載しある(但歌の初句はいつのひにとなれり)に徴し、右短歌も亦王仁三郎の作にあらずして、出口あさのの作と認むるを相当とす、然らば王仁三郎は予審に於て右宣伝歌は自己の作成したるものと詳述し居れども措信し得るざこと明らかなり、

㋩ 大多数の被告人は本件公訴事実に関する予審調書の記載を否認し、予審調書は警察官の暴行強迫に因り作成せられたる聴取書を基礎にしたるものにして、任意の供述に非ざるを以て真実に反する旨強調すれども任意の供述と雖も或は意識し、或は無意識に、或は誤解に因り真実に非ざることあるは公知の事実に属す、本件に於ても王仁三郎の当公廷に於ける側近者、加藤明子、松村仙造に関する供述てん○○綾部に仕組が致してあるぞよ○○○、○○○を拵らへて元の昔に返すぞよとの筆先の解釈の如き首肯し得ざるものあることは、弁護人中に於ても認むる所なり、又暴行強迫に因る供述と雖も必ずしも事実に吻合せざるものに非ざることも亦実験溯上明なる所なり、現に当審公判調書中証人松永友吉の供述記載に依り証明せられ被告人等の熟知する所なり、凡そ調書の記載が犯罪の証拠に供せらるるは其の内容疑の余地なき場合又は反対の証拠なき場合にして暴行強迫に基因するや否やは現在の法制上採否の絶対事由に非ざるなり、

尚本件検挙及取調に関しては被告人出口王仁三郎事件証第四、九九八号警察協会雑誌、大本事件特輯及同証第四、九九三号警保局保安課発行大本事件の真相なる小冊子(発行日は昭和十一年三月附なるも其の凡例に於て作成期日は、昭和十一年二月中旬警察取調の中途にして大本教剿滅の善後措置に関する全国特高課長会議が二月下旬に開催せらるるに際し単なる参考資料の一として作成したるものなる旨記載しあり)は其の事情考査上逸すべからざる資料の一たるを失はず、
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