文献名1神霊界
文献名2大正8年1月15日号(第78号)よみ(新仮名遣い)
文献名3教祖偉績こぼれ梅よみ(新仮名遣い)
著者岩田鳴球
概要
備考「教祖偉績こぼれ梅」は2月1日号にもある。(2024/04/30校正)
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データ凡例共通凡例B
データ最終更新日2024-04-30 03:31:10
掲載号
ページ21
目次メモ
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本文
教祖偉績こぼれ梅 岩田鳴球
教祖様の事蹟に付て聞いた話を書き列ねたものです。従て時の前後、事の次第、文の長短、さう云ふ事には頓着せずに書きますから、其積りで御覧下さい。
▼教祖の霊示
本宮山の麓、並松に面した踏切りの傍に、小やかな草屋が一軒あつて、そこの御婆様は本年五十七歳、森下八重といふ名であるが、予て教祖様の知り合ひだと聞いて居たから、或朝咲き後れた野菊の露を踏んで教祖様の話を聞くべく訪問した。
息子さんは不在であつたが、息子様の細君らしい女と子供が二人、外に四十五位の男の客が一人火鉢を囲むで話をして居る最中であつたが、狼狽て席を譲つて快く話をしてくれた。
教祖様と一緒に連れ立つて襤褸などを買ひに出たのは此婆さんではなくて、お婆さんの亭主の岩之助といふ人であつた。この人は教祖様の長男の竹造様と仲良しで、阿呆正直(お婆様のお話の通りを書く)の方であつたが、十九年前に病死したさうである。
お婆様もまんざら教祖様は知らぬ仲ではなかつたが、委敷い話は亭主から聞いて知つて居るのであつて、寧ろ教祖様よりは教祖様の長女の御米さんとは、自分が位田に娘で居た時分から友達の様にして居つたとの事であつた。
亭主の岩之助様は元河合の大地主で、熊野権現様の御世話もして居た家柄であつたが、酒は好きなり段々落ぶれて、仕舞には幾らの口銭にもならぬけれど、呑み代に襤褸買をやつたので、其時分教祖様と一所になつたことがあるのださうな。
お直さんは大変苦労した人で、娘のお竜さんもお澄さんも泣きの涙で暮らした人じやが、今は大変出世をなさつた。
いつも子供等の見せしめに言つて聞かして居ります。お直さんは発狂とるといつて今森屋の鹿様が世話をして座敷牢に入れて居つたが、云ふ事は不思議に少しも違つた事はなかつた。森下が商内に出るときはいつも牢の前へ行つて、お直様に聞こえる様に「ヘーツト」と大きな声をして考へ込むのである。さうするとお直さんが「岩さんか、今日は北の方へ行けば沢山商内があるぞよ」と云はれるから、屹度かと念を押して行てみると不思議に商内があるが、時々ためしに反対の方へ行てみるとさつぱり商内がないので、仕舞にはお直さんの云ふちやつた通りに行つたといふ事である。
座敷牢の中から大きな声で怒鳴られた事は度々であつたが「発狂とる発狂とると云ふけれど、私は神様だ、世の中の人は足元から鳥がたつのも知らんで、為んで良い苦労をするのじや」などと云はれた事もあるし、綾部の人の事なども色々云はれたが、彼の折の御話は是かいなーと、ヒシヒシ胸に応へるやうな事が後から後から出て来るので、お直さんは発狂てじやなかつたと思つた事も度々あつた。それにいくら厳重に見張つてゐても時々牢から出られるが、どうして出るのか不思議だと鹿蔵様が云つて居られた事もあつた。「私は出やせんがチヤーンと出す方があるで」とも云はれたさうじや。
牢から出られてからも、いろいろ仕事やら商内などもされたが、饅頭と一しよに藁餅を拵らへて売られた事もあつて、珍らしものだと思つて買つて食つた事もあつた。「八重さん、人間は沢山苦労をせにやならんで、難儀な時にはお互に手を引き合ふて行こいの」などと親切に云つて呉れてぢやつた。
裏町の倉に居られた時分、森下が病気したからお頼みしに行つた事がある。一ぱし良くなつて二度目に死んだのだが、其時御劔先を拵らへて新らしい御宮に入れて祭つたが、現今も台の取れた儘でお祭りして居ります。
堂云ふて拝んだら好いと聞いて見たら、金神様ヂコーヂン様(地金神か)天地金の大神様、艮の金神様とさへ頼めば、後は私が頼んであげるでといふ御話であつた。
孫娘が火鉢の上へ転んで大火傷をした時は、森津由松様に金神様の御土を戴いてつけたら此通り跡もつかずに良うなつたと云つて、わざわざ孫娘の手をまくつて見せた。
時々参らして貰いたいと思ふて出懸けて試る事もあるが、知らん人ばかり大勢御坐るから途中から帰て来るやうな事もありますといふ話であつた。
来合せて居た男の客人といふのは権現様の前の出口松之助といふ人で、其人の話に私の母親はおみつと云ふ名で、三年前に七十三で亡くなつたが、お直さんとは仲良しで、一しよに商内に出たから、母が居ると昔の話なら何でも分るのだがなーと、いかにも残念さうであつた。
▼神前の杉の木
広前の御宮の前、右手の方に杉の木が一本あります。あれは以前、出口の家と四方源之助の家の境界の杉垣の杉であつたのを、手入れをしなかつた為にヅンヅン延びて仕舞つたのが一本残つて居るのであります。出口の方から見れば垣の外になつて、何時の間にか四方のものの様になつて仕舞つたのである。
現在の広前横手の六畳即ち別荘と称する処に、教祖様が居られた時の話であるが、当時信者として熱心に参詣してゐた木下慶太郎(現姓出口)に向つて、突然教祖様の云はれるには、「あの木は決して伐れませんぞ、伐つたら神様の御叱りがあるで」との事。木下は夢中でハイと云つて承知はしたものの、考へてみると妙な話しだ、隣りの四方の杉であるから、伐るも伐らぬも四方の自由であるのに、時分の持ち物の様な事を云はれるのは不思議だと思つたが、一反ハイと云つた以上、是は堂しても伐らしてはならぬと、それ以来此杉の事が心配になつてたまらなかつた。
その内、四方の家では主人が亡くなり、不幸が続いて段々左り前になつたので、薪にでもしないかと益々心配になつて来た。果せるかな、四方では幾度も幾度も此杉を伐り倒さうと考へて、或時の如き田中善吉に向つて、伐り倒してくれぬか、さうしたら伐賃に半分やると迄云つて居つた。
田中は予て教祖様の御声懸りの杉の木である事を木下から聞いて居たから、好い加減にあしらつて、とうとう伐らなかつたが、後に御宮を建てる為、此四方の屋敷を買ふ事になり、木下が交渉してやうやう大本の物になつたので、初めて安心をする事が出来たのである。教祖様から伐つてはならぬと云はれてから、六年振りで手に入つたのであつた。
(出口慶太郎談)
▼沓島の塩水貰ひ
明治四十四年八月十四日、教祖様の御言ひ付けで女島様へ塩水を貰ひに行た。一行は田中善吉、野崎友吉、荻野安蔵、都合三人、空の酒樽を八本持て出懸けた。二三日前から海は時化て居て、漁さへ休むで居る位だから、迚もダメだと云ふ船頭に、無理談判をやつて舟を出さす事にした。
我々三人を人間だと思ふから大事を取るのだ。空酒樽だと思へば差支へなからう。ともかくも博打が崎迄行て見て、他の舟が出てゐなかつたら引返すといふ約束であつた。
いよいよ舟を漕ぎ出して見たが、非常な風で舟が逆立ちになつて酒樽がコロコロコロコロ転がる様な始末だ。内海でさへ是だから沖はとてもダメだと船頭は口々に云ふのを、堂でもよいから行ける丈け行けと励まして出て行た。船頭は岩と六で、両人とも現に舞鶴に居つて頗る息災である。
此時化で博打へ出ても迚も舟には逢ふまいと心配をしてゐたら、不思議にも櫓の音が聞こへて向ふからも誰だいと声を懸けた。「岩ぢやい、堂だ行けるかー」と聞くと「たつて行けば行けぬ事もないわい」と云つたので一安心した。ウンと帆を張ると矢の様に走り出した。船は片方へ傾いた儘、水を切る音がチーと耳元へ響く。三人は船底に小いさくなつて、ヒドイナーヒドイナーと繰り返すのみである。
それから御礼をして大祓を上げたが、二回目の大祓の御仕舞に早男島へ着いた。普通七時間かかる処を二時間ばかりで行た勘定だ。男島からは女島迄は普通二時間はかかる処だが、同調子に一走りで走りついた。
男島を出て又改て大祓を奏上したが、荒汐の汐の八百路の八汐路のといふところ迄上げたら早女島へ上りぢや。船は着いたがまだ御祓が済まぬから、舟の中で御仕舞迄奏上した。三人は汐水で身体を清めて上つては御礼をなし、又清めては上つて御礼をする間に、船頭は八樽に塩水を酌み込んで仕舞つた。
これで無事御用を済ませて帰途についたが、風はいつの間にか順風に吹き変つて、三時間許りで大丹生屋の裏へ漕ぎ付けた。此時田中が紀念にとて女島から拾つて来た石があるが、教主様に頼むで朱で字を書いて戴いて、今でも保存して居る。
八樽の塩水は大本へ持ち帰り、風呂に焚いて一同で沐浴をした。此御用も定て深い意義のある事であつたらうと考へられるのである。
(田中善吉談)
▼教祖の霊耳
明治四十二年から四十三年頃にかけて、雑誌直霊軍の記者に千葉埴丸といふ人が居つた。細君はおかね様と云つて利口な人で、裁縫はなかなか上手であつたが、どちらかと云へば贅沢な方で、働く事の嫌いな質だつたが、西八田の淵垣から裁縫教師に聘せられたのである。
ところで本人は余り好ましくないが堂したものであらうと、四五人元の二階の大広前でひそひそ相談をして居つた。教主様はどちらとも本人の勝手にした方が宜からうといふ御意見であつたが、教祖様は此時別荘の六畳を隔てた下の役員室に居られて、此相談が御判りになる筈がないのであるが「行て差支ないからおかね様にさう云つて下さい」といふ。わざの御言伝であつたので、一同顔を見合はせて不思議がつた。
此事に限らず御聞かせしない事をチヤーンと御承知になつていらつしやる事が幾度もありました。
(湯浅仁斎談)
▼教祖御免の放蕩
本町で福本鮨を売つて居る京都の福本源之助は古い信者で、一時は布教にも出た事のある人であるが、綾部へ来れば真面目になるけれど、京都へ帰りさへすれば放蕩をやるので、教祖様に戴いた御筆先の中にも其事が出て居つて、云はば教祖御免の放蕩であつた。
其御筆先には、こう出て居ります。
出口の手でちよつと気を付けさすが、京都で田中の血筋は善の鑑になりてくれいと、福本源之助に申し付けてあるが、綾部の大本へ参りては、良い行が出来るが、京都へ帰ると直ぐに変るは、これはやはり親の罪穢であるぞよ。我が為て来た事が又出来て来るのが、此良い世に借銭なしを致さなならん世が参りたから、又其次の借銭済しは恐いぞよ。何も知らずに為た事でも、此先は厳敷き見せしめあるよに、険しくなるのに、大本へ参りて云ひ聞かして貰ふて来んと、気が崩れたら此先は綾部の大本には構はぬから、外に構ふ処があるなら、そこへ参りて御世話になるが良いが、大橋越へてまだ先へ行うと思ふても、外へ行つても跡へ戻らな分りはせんぞよ。福本源之助、今になりてから、芸妓やら娼妓にうかれて居るとヂリヂリ舞ふても波に取られた沖の船、何処へ取りつく島がなくなるぞよ。目の前へふりきさりて居るから、まう一度田中の顔にめんじて気を付けてやるぞよ。来春になると世界は混雑になりて来るぞよ。(明治三十六年)
▼神懸りに対する祈祷
明治二十五・六年頃の話である。教祖様の神懸りは狐か何かが憑つたものだと考へて、教祖様の長女の亭主の大槻鹿造は堂かして除かしたいと思つて居つた。教祖様御自身も肉体としては非常に神懸りを嫌はれ、疑ひ通しに疑はれて居られたのである。
其頃小呂に算盤の名人が居て算盤で色々の判断をしたり、憑き物を除かしたりする事が上手だと云ふ事を聞いて、鹿造同道で小呂へ行かれた。
算盤師は思細らしくパチパチと算盤を弾ぢかせて居たが、やがて頓驚な声を立てて「コリヤマー一体堂する積りだ、こんな御宮を建てて綾部の町が引くり返る様な騒ぎになるが、身分不相応な大望だから、一層封じて仕舞ふ方が可からう」と云ふ事であつた。
訳の分らぬ妙な事を云ふと思はれたが、教祖様も自分には別に望みも何も無いので、糸引きにでも何でもして、親子が食ひさへすればよいのであるから、封じるなら封じて呉れろと頼んで置いて帰られたのである。そして神前へ行つて御拝をなさつたら、直ちに神懸りになられ、小呂の審は神の大望を知りながら、かりそめにも封じやうとしたのは不都合であるから罰すると云ふ神勅であつた。
小呂の算盤師は自分の霊力を利用して、時折善からぬ事をすると云ふ噂もあるから、或は神様が罰せられるかも知れないと半信半疑で一週間してから小呂へ行つて聞かれたら、某は俄に腹痛を起して頓死したので、昨日葬式を済ませたばかりであると云ふ事で、教祖様は驚かれたさうである。
山家に本経寺と云ふ法華寺があつて、祈祷が上手だと云ふ事であつたから、或日、教祖様と大槻鹿造と山家の銀十郎と、三人で祈祷を頼みに行かれた事があつた。
坊主が祈祷を始めやうとすると、教祖様は神懸りになられて「お前さん、そんな事してやけど、大きな声でヨボル(怒鳴る)ぜー」と云はれたが、坊主は知らぬ顔をして祈祷を始めた。
大きな珠数で教祖様の手を幾重にもギリギリ巻きにして木剱で九字を切つたら、其珠数がブツリと切れて本堂一面バラバラに珠数が飛び散つた。
珠が飛ぶと同時に教祖様は坊主の頭を三つ叩いて「モツト修行せー」とわめかれた。
神懸りが静まつてから坊主に御詫して、祈祷料をやつて帰られた事もあつたさうである。
教祖様はこんな風に最初は自分の神懸りを嫌はれて、堂かして除かしたいと色々やつて見られたのであるが、神様の経綸であるのだから、如何とも致し様がなかつたのであつた。
(湯浅仁斎談)