文献名1東京日日新聞
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3昭和10年12月10日 夕刊(11日付)よみ(新仮名遣い)
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データ最終更新日2018-01-29 18:15:12
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これでも〝生神様〟
ただれた私生活
留置中の王仁の健康診断に係官もあきれ返る
八日午前松江より護送された大本教主出口王仁三郎は爾来京都府中立売署保護室に留置されてゐるが朝夕うら若き近侍に囲まれながら王侯の如き豪奢な生活を送つた身体は保温設備も十分でない一警察署の保護室に留置されてすつかり健康を害し、時々乳児の如く不潔な行為を繰返すので同署幹部も非常に心配し九日午後付近の医師を呼んで王仁三郎の健康診断をして見ると生神様王仁三郎は意外にも性病を患つてゐることが明瞭となり、係官は今更のやうに王仁三郎の日頃のただれた生活にあきれてゐる、王仁三郎の居間にあてられた綾部の奥まつた一室はさながら幕府末期の千代田城の奥殿を見るやうで、何気なく置かれた調度品の一端にも爛熟淫欲の限りを盡した王仁の生活が物語られてゐるとのことである、内務当局は大本教絶滅のためあらゆる法規を動員して大本教罪状記を編録してゐるが、かうした王仁の生活の一端によつても何も知らぬ信徒が王仁を迷信したことを恥ぢて早く正業に帰るやう希望してゐる、したがつて大本教幹部四十三名の検挙だけで一段落としこれ以上検挙人員を拡大せぬ方針を京都に通知した
『醒めよ信徒』
警保当局談
生神様といはれた王仁の身体がかくの如く汚れたものであることは中立売署の健康診断によつても明瞭である、或は綾部の王仁の居室を見ただけでも王仁がいかにインチキ的存在であるかはハツキリしてゐるのだから信徒は迷信であつたことに一日も早く目醒め真の日本国民に立戻るやう希望して止まぬ、このことを広く新聞紙を通じて大本教四十万の信徒に表明する次第である
俎上の大本教(2)
代々、女ばかり生れる出口家
男は育たぬとは果たして真か
血縁関係を洗ふ
大本運動の中心を亀岡に移したのは大正十四年で、第一次大検挙のほとぼりがまだ醒めやらぬころであつた、総本部の綾部は大本のいはゆる「聖なる道場」として祭儀の中心地とし、亀岡を教の中心地とし旧亀山城址に天恩郷と命名して大本大道場を建設したり、文書宣伝のために印刷所「天声社」を設備し、事務所や居宅などいろいろの建物を建て「大本王国」を建設した、さて王仁三郎が本部事務所をなぜ亀岡に移したか? 大本の人達は王仁三郎の郷里が南桑田郡曽我部村穴太であるから、一には郷土に近いところ、二には亀岡が京阪に近くて綾部よりは交通や宣伝に利便であり、信者の参拝にも都合がよいといふのだが、亀山城址はその昔「敵は本能寺にあり」と叫んで叛旗を翻し、老の坂を越えて京洛に攻め寄せ、本能寺で織田信長を仆した明智光秀の居城であつたところ、ここに光照殿、高天閣、月宮殿、明光殿、更生館などと王者生活を思はせるような名称を冠し王仁三郎は自分のことを「○師さま」と呼ばせ、正体の知れぬ女性をたくさん侍らせて豪奢な生活を続け「三千世界の大洗濯大掃除」云々と、いはゆる教祖のお筆先きを説ゐたのだ
そして、大正十年検挙されるや、爾来、沈黙を守つてゐたが、両三年この方、文書宣伝を開始し、近頃は「大本は路傍の草花のやうなもの、踏まれ、蹴られながらも花を咲かせ、実を結ぶのだ」と図々しく大検挙を逆手に利用して羽をのばしてゐた
王仁三郎と日出麿とは主として亀岡天恩郷にあり、綾部の総本部は二代教祖の澄(王仁三郎の妻)三代教祖直日(日出麿の妻)とが住居してゐて、王仁三郎や日出麿が澄や直日と夫婦生活を営む日は月のうちに数へるくらゐ、大本の信者達はこの別居生活をさして「教祖も教主も神がかりであるから、なんらのこだはりもないのでせう、大本は代々出口家の女性が世を継ぐ、不思議なことは出口家には女ばかり生れる、たまに男が生れても夭死する、これが出口家の変つたところ」と衆愚を迷はすやうな言辞を弄んでゐた、大本信者が信じてゐるやうに果して出口家には女ばかり生れて、男は生れても育たぬのであらうか……古いことは容易でないが二代教祖澄とその子の三代教祖直日並に梅野、八重野、尚江、住江ら姉妹の身元を調べることは最近のことであるから比較的容易であり、こんどの検挙で、はからずも三代教祖直日姉妹に乱れた血が流れてゐて、大本が宣伝するやうに出口家は女ばかりが生れるものでなく、そこにからくりがあることを探知したので、この血縁にも疑ひを注ぎ全国の警察網を利用して、いま出口一統の血つづきを洗立ててゐる