文献名1その他
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3知識階級と大本教よみ(新仮名遣い)
著者境野黄洋
概要
備考『太陽』大正9年(1920)10月号
タグアンチ
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本文
知識階級と大本教
境野黄洋
大本教の教理であるとか或は其の実際に行はれて居るものの根柢思想とか云ふものは、殆んど云ふに足らない幼稚なものである。併し、恁う云ふ如何はしいものが、世の中の一勢力と成ると云ふことが一つの大間題であると見なければならない。
何となれば此事実は我国に於いて未だ真実の宗教が認められて居ないと云ふことと、日本人は殆ど総ての人々が科学的健全なる思想を有して居るが如くに自信して居るにも関はらず、精神的には甚だしく幼稚であることを自証するものである。
斯う云ふ事を云へば種々の抗議が出るかも知れないが、一般に知識階級の人と目せらるる人々でも、宗教とさへ云へば一概に迷信の如くに考へたり、宗教を信じないことを一種立派な高尚なことのやうに思つて居るものが多い。然らばそれが本当に宗教を理解し、迷信に沈まないだけの科学的に確固たる思想を持つて居るかと云へば決してさうでない。その証拠には現に所謂識者階級であるとか、若くは知識階級であるとか云はれて居る人々の中に、大本教は比較的容易に深く喰ひ入つてをるのである。
吾々の如く多少宗教に心を用ゆる者から見れば、大本教などに就ては例ひ深く研究しないまでも、世間に行はるる処を仄かに聞く丈で、それが直ちに迷信的な幼稚なものであることを直感的に知ることが出来るのである。それが出来ないで容易く此種の迷信の囿はれとなるに徴すると、知識階教の人々の宗教意識が如何に薄弱であるかが証明せられて余りあるものである。
一体今の日本の有識者階級では、物質的科学には非常に響鳴し易い傾向を有つてをる。勿論自分は恁う云ふ事実を呪ふ者では無いけれども、科学万能等と云ふ考は、既に世界思想界では全然破られて居る問題である。然るに日本の知識階級の大部分は、今も尚科学万能を信じて疑はない者が多い。
かかる傾向の依つて来る処は、科学的知識は此較的確実であると云ふこともあるけれども、一つは科学は直接に、吾人に実益を与へると云ふ点に大なる興味を有するからであると思ふ。此処で実益とは物質的生活の効果と云ふことを意味する。従つて精神的生活の効果は頗る軽く見られるのは無理もない。
であるから宗教とか哲学とか云ふ様なものは、之を科学に比較すれば百分の一も世間には認められない。それ丈日本人の精神生活には大なる空間がある訳である。
迷信は此の空間に向つて絶えず侵入して来るものであつて、迷信がかかる人々に対して異常な力を有する点は大概物質的効果である。或は祈祷であるとか、或は修業であるとか云ふやうなことに依つて、是れ是れ、斯く斯くの効顕があると云ふ事を必ず口にする。
其の効顕と云ふのは取も直さず、凡て物質的効果である。鎮魂帰神の法に依つて難病が平癒したとか、金が儲かつたとか云ふやうなことで、之は理論の上から説明はしないが、『実際であるのが何よりの証拠である。』と云ふことを必ず云ふ。
其の思想の行き方は科学に対する確信と同じ道程を踏んで居る。即ち物質的效果と、実験上確実であると云ふことが、斯う云ふ人々には何よりも凝はれない信仰と成つて居るのである。
若し斯かる浅薄な殆んど内容の見え透いて居る大本教のやうな迷信が、我国の識者間に問題となつて居るのは一体何う云ふ訳であるかと云ふに、物質效果と、確実な実験といふことより他には確実な興味を感じ得ない精神生活の極めて貧弱な人々に対する覿面な報復と云はねばならぬ。
今更こんなものを問題にして、社会では兎にも角にも、研究するの議論するのと云ふだけでも此の上なき国民の恥辱であることを知らねばならぬ。
(終)