文献名1その他
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3我国為政者の覚醒を促すよみ(新仮名遣い)
著者本多日生
概要
備考『太陽』大正9年(1920)10月号
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本文
我国為政者の覚醒を促す
本多日生
目下世上に喧伝せられて居る大本教なるものに就ては、別に今更驚くこともなければ、研究の何のと騒ぐ必要もないので、其の宗教的要素として最も不備浅薄なるものであることは殆ど論究を俟たない。其の理由としては少くとも宗教として立つ為めには、其の教義に三つの重大要素がなくてはならない。
其の三大教義といふのは、所謂、宇宙観と人身観と超人観とであるが、大本教等に於ては、之等の教義に就ては其の一つも殆ど鮮明されては居らない。であるから宗教の本質的研究としては、毛頭問題にするに足らない低劣不備なるものである。
話は少し六ケ敷しくなるが、一体宗教の第一属性としては前述の三大要素を備へたる教義に、立派なる行法が供はらなければならない。つまり教義と行法との二大要件が具備して居ないものは、取るに足らないものである。
教義が既に不完全なるものであれば、其の教義を本として之れに導かるべき行法に、完全なるものを見ることは到底不可能なことである。
大本教の様な教義も行法も無視した、ああ云ふ様な形式のものは、何時の時代、如何なる国に於ても迷信邪教として斥けらるべき幼稚愚昧なものであるにもかかはらず、何故にかかる迷信が我が国に伝播するかといふに、取りも直さず、我国民の精神生活が、極めて頽廃したる状態にある結果と、精神問題に対する知識が頗る貧弱であるが為めに他ならない。それであるから、大本教それ自身の幼稚邪妄なるを憂ふるよりも、かかるものが非常な勢を以て伝播する処に於て、思想の頽廃頗る甚だしきものあるを証するものである事が真に憂懼に堪へぬ問題と云はねばならぬ。
如斯弊害が続出して来るのは、一つは一方機械的の知識は相当発達して居るけれども、一方精神修養の方面に於ては放擲して顧みられない事に胚胎し、一つには、我が国の政治方針の欠陥に存するといはねばならぬ。政治、教育の上に精神方面の一大欠陥ある事を自覚して、其の改造を決行することが目今の急務である。
彼の大本教が人心の弱点を突く唯一の手段は、『神さがり』と称して奇矯なる言辞を弄し、鎮魂と称して精神の惑乱せる状態を以て信仰の利益の如く云ひふらすものであつて、此の『神さがり』とか『鎮魂』とか云ふ様なものは、独り大本教のみならず、一般の迷信的宗教に共通せる特徴である。多くの祈祷者は、或は狐憑きだとか、或は神の御告げだとか称して、病気平癒を祈るものが多いのであるが、大本教に至つては『神さがり』とか『鎮魂』とか云ふことによつて一種の心的病気を招来したることを、直ちに取つて信仰の利益と認め其の平癒を祈らざるものである。こんな事を似て、宗教的利益であるかの如く考へるのは、闇愚の極みであつて、之れと同一な或は能勢の妙見だとか、或は熊本の清正公等に絶えず集まつて来る信者には、殆ど全部此の心的変調を来すものであるが、実に人心を蠱惑するの甚だしいものである。これを心理学的に云へば、『重我の執僻』と云ふか、在来の言葉で云へば幻覚であつて、斯の如きは、真の迷信より来る執僻を除く事に依て人心を健全に導かねばならぬ。然るに之等の迷信的宗教に於ては、反つて人格の分裂を来し、常識を失はしめ各自の業務を擲つて闇愚な行動に移らしむる如きは、善良なる世道人心を破壊するもので、一種の罪悪たるや明かなるものである。
かくして奇矯の言辞を以て、或は大災害を予言するとか、種々なる奇警の説を立てて人心に驚怖を懐かしめ、堅実なる国運の発展を阻礙するが如きは決して不問に付して放置すべき問題ではない。
彼が皇道の擁護を標榜し、宗教の衣を着るも、其の実質に於ては全く人心を蠱惑し、民心を阻礙する邪説であることは一点の疑を容れる余地がない。
斯の如きものをして、一味の勢力を得せしむる事は、全く国民の精神状態の不健全なる状態に依るものであるから、心あるものは深く警戒せねばならぬ。
余談
一体大本教に凝つて居る者を総観すると、一方の始めから夢中になる方の者を見るに、何か、斯う、奇矯な事を求むると云ふか、一種の神秘を求むると云ふか、自分では気の附かない、潜在意識が心の内に、潜んで居て、或る機会に、少し変つた、形式のものを、突然見せ附けられると、直ぐにその潜在意識を呼び起し、それに夢中に成つて仕舞つて、それを又、見た者、聞いた者、聞き伝へた者と、摸倣的の心理作用に依つて、皆んなその宣伝者に、似通つたものに成つて仕舞ふ。『自分の処へ弟子にして呉れと、頻りに頼みに来て居た老婆が有つたが、何うも中山の祈祷か何かで夢中な盲信者に成つた様な風が見えたから、其儘に放擲て置いたが、それが此頃は、家も親戚も放擲つて、綾部へ行つて大本教に夢中に成つて居ると云ふことである』其他、有数な実業家でも、軍人でも、自分の知つて居る人も随分出掛けて行つて居る様だが、平生薄つぺらな、物質的な考へ方ばかりして居る人は、うつかりすると斯う云ふ風に、成り易いものである。
坊主だからと云つて、シツカリした者ばつかりは居ないんだから人間が各自余つ程、要心しなければ駄目である。
現に、浅草あたりに居た或る僧侶でも、大本教の或る人の云つた事に夢中に成つて、何処か栃木県辺りに、金の延棒が埋つて居ると云ふので、永い間一生懸命に成つて、山の中を掘つて歩いて居た。無論見附るわけはなかつたが、それでも未だ眼が醒めずに、眼の色を変へてやつて居るが、困つたものだ。それも何かのヒントが無ければ、何も起らないものだが、何処ででも狐落しや祈祷の名人でも出て来たと云へば、其近所には、無数に狐憑きが増へて来るし、生霊に附かれた人間が有ると云へば、其辺に生霊の附いたと云ふ人間が頻々と出て来るものである。
以上の様なのは、何時の間にか潜在意識を摘発された為に夢中になる、どつちかと云へば気の毒な連中であるが、他の一方から見ると、此頃の激烈な生存競争の結果、金ばかりに目のくらんで居る人々が、『先きの事の予言する』と云ふから一つ相場の、上り下りでも見て貰はうか?殊に依ると、濡手で粟の金でも飛込まぬかと云ふやうな、横着な連中が綾部へ出掛けて行つては、漸々深味ヘ入り込んで、反つて自分の持つて居た金迄、擲り出してしまうと云ふ風な、滑稽な連中が多い、だから今年の不景気風が吹いて来てから、メツキリ大本教に勢力が附いたのも、一つはそれだらうと思ふ。
一体軍人には単調な精神状態の者が多いから、斯う云ふ人々は、熱心家が余計出て来るんだが、実業家にしても一般から云へば、精神上からは殆んど没交渉な者が多いから、こんな情ない動機で迷信に引込まれて行くのである。之は自分一個の考だが大本教の盛んに成つた原因の一つは、金に掛けては限りない我利我利者流の集会所のやうな大阪が近かつたことにある様に思ふ。
之等の迷信を取締るに就ても、只生はんかに、無闇に手を附けて見たり、手掛りが無く成ると拱手して見て居るやうな事をするから、其事に理解の無い人が行ると、夫に夢中に成つて居る人は、一種の法難か何ぞの様に考へて益々勢力を持たせる様なもので、何の事は無い、燃える薪木に油を注ぐやうなことに成り了るのが、比々皆然りである。
だから手を附ける以上は徹底的に行らなければ何の効も無いものであることに気が附かなくては駄目だ。
第一危険思想の取締りと云ふやうな事でも同じ事で、其中心思想にこそ、重大な問題があるにもかかはらず、其一言一句の言葉の端や、撲つたの撲られたのと云ふやうなことばかり問題にして居るから何時迄経つても止む時は無い。今の取締り方は恰度外科医に、内科を診察させる様なもので、形式的の法律眼からばつかり見て居ないで、内的蠱惑から一洗して掛ることが大事である。外からばかり見て此人は腫物が出来て居ないから直ぐに病人で無いと決めてしまうやうな見方が多くは無からうか。斯う云ふことは其の道に相当理解を持つたものに須く聞くべきである。
抑も社会を毒するものに二つの流れがある、其の一は狂暴なる表面的な過激分子で、其の一は女性的にして内的に人の膏肓に喰ひ入る性質のもので、所謂軟文学とか迷信の類がそれである。此の二つのものは其の何れが恐るべきか警戒すべきかの軽重も決して軽々に附する事は出来ない。
時代の推移の上から慎重に考へて見れば直ぐ解る事で、在来の宗教が科学の力に圧倒せられた唯一の原因は、其処に不合理なものか迷信が介在して居た為に外ならない。
あやふやな人心を迷信によりて辛うじて繋いで居た仏教は科学の発達と共に率直に破壊せられて今迄眠つて居た民心は、ああ坊主に欺かれて居たと云ふやうなことに成つて来るのは無理もない事である。
科学に依りて破壊せららるるのは既に其の宗教の不完全を示すものであるから、目下科学のみの世界より起る人心の不安を繋ぐ為に再び迷信に依らんとするのは愚の極みである。
大本教にしても、大正十一年に世界的の大混乱が来ると云ふことを頻りに言触らして居るが、何等の交通機関も通信機関も無い時ならば二年先きの事が全然見えないと云ふこともあらうが、今時そんなことを云ひ触らすのからして人心を惑乱するものと云はずして何ぞやと云ひたい。十一年は未だ未来に属するが既に過る大正七年にも何か日本に転変が起ると云ふやうなことを云つて居たものだ、それが事実に現はれなかつた為に大本教では相当に重要な一人物が、非常な煩悶に陥つてそれが為遂に死んでしまつたと云ふ程な例もある。
已に国民衛生の上に於いても天然痘の流行する時には強制種痘を行ふではないか、精神にこんな流行病が起つた時にも強制種痘を行ふべきである。
印度にもこんな例がある、之は首楞厳経に出て居る話であるが、或る非常に狂暴な悪魔が出て来て迷信邪説を天下に流布させて人心を極度に混乱させ、飛んでもない事にしてしまう処であつたのを最後に其れに気の附いた国王に依つて異道邪説を厳禁した。其の為に悪魔は人心を失つて其上死んでからは地獄に落ちたと説かれてある。
之は一例に過ぎないが古来邪説の出て来た時には禁厭祈祷相成らぬと云ふ厳達が勅令を以て屡屡出て居る。斯かる点に於いても為政者の覚醒を促して止まない次第である。
(終)