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文献名1その他
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3たまほこのひ可里よみ(新仮名遣い)
著者佐藤紋次郎
概要
備考
タグ データ凡例読みやすいように漢字の旧字体は新字体に直した。/一部句読点を補ったり、欠落していると思われる語句を補ったりしている。/底本にフリガナは基本的には付いていないが、読みやすさを考えて付けた(旧仮名遣い)。/闕字は無視した。/遺勅中の送り仮名は底本では片仮名だが、読みやすさを考えて平仮名に直した。 データ最終更新日2024-10-30 01:11:06
ページ 目次メモ
OBC Z9046
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本文 玉鉾の神遺勅
佐藤紋次郎口伝

   序

 「紀元二千六百年と相ひならば拇指に⦿の紋を印せる七十歳の男子在り、この書を即ち渡すべし」と、わが師旭形亀太郎先生の遺命を奉じてより、其の人を索めて時機の到来を待ち居りしに、不図も師の命を受けてより三十七年目の昭和十一年に、或る事情のため其の書を焼失の已むなきに至りたるは、実にかへすがへすも口惜しき極みなりき。
 されど吾れは無学文盲の事とて、記憶を撰録する事も得ず、然りとて世人の手に委ぬるも師命に悖るものなれば、心痛止む暇なく、日々夜々悶々として記憶を手繰りては口ずさみ、口ずさみてはまた手繰りて今日に及べり。
 待ちに待ちしニ千六百年の佳辰を迎へたるに、待望の人にも遇へず、此の年も空しく過ぎ去り、いつの日にか焦がれに焦がるる⦿の拇印の君に廻り遇ふ日のあるやと、日夜心を痛め居たるところ、昨秋焦がれ居りし其の君に遇ひ得たるも今は彼の書わが手にあらず、師の遺命を伝ふる事も叶はず、老ひの身なれば一刻も速くこの大任を遂げさせ給へと祈りては臥し、醒めては祈り、来る日去る夜を悶々の裡にこそ過し居たりき。
 偶々未年未の元旦を迎へし昭和十八年の春も過ぎ、残りの暑さまだ去らぬ秋の初め、世継王山の麓に住める湯浅大人に伴はて、布施の里、足代の辺に住める寅年の男を訪れ、起稿の機熟し、はじめて茲に約して口ずさむところを記す。
 幸ひに⦿の拇印の君が御手に触れむことを。
   昭和十八年八月二十五日
      佐藤紋次郎口伝

 私は明治元年辰年の三月九日に、名古屋から西南五里ばかり離れた海東郡八幡村字日置の農家に生れたので御座ゐまするが、徴兵検査が済みましてから知人を頼って名古屋へ出て参り、知り人の桶屋で働いて居りましたが少々酷過ぎましたので、隣の人力車屋さんの世話になり、ここの帳場の曳子となりました。
 暫くの中に私は若松町の仲間中で一番の強力となり、桶屋に引きかへ楽しく働いて居りまする中に、二十四歳の春を迎へる事となりました。
 この年の出来事で夢寐にも忘れぬ事が御座ゐます、それは或る日のこと名古屋駅へお客を送って参りますと、汽車から降りた三人連のお客に、若松町一の貸席四海波の親方さんの宅まで届けるやうに頼まれ、強力の私はお客の中で一番大きいお角力風の人を乗せる事になりましたが、其の後は往きも復りも必らず、このお客は私を招ばれて「佐藤さん々々々」と可愛がって下さいました。
 左様に致して居ります中に私の生れ年を聞かれ、辰年の生れである処から、このお客の懇望で到頭弟子となったので御座ゐます。
 それからの私は旭形先生の御薫陶を受け、今までの一にも金、二にも金と云ふ世界から一足飛びに、一に天皇様、二にお国と変ったので御座ゐます、是れは明治二十四年の事で御座ゐました。
 翌二十五年(辰年)の或る日のこと、若松町四海波の家で先生は、一枚の半紙と鋏を私の前に置き衿を正されて、
「本日は畏れ多い事ながら、先帝孝明天皇様が玉の御手づから、不肖の臣旭形に御秘伝遊ばされた皇国の神術を、其方に伝授致すから、慎んで御受納ありたい、此の神術を御秘伝遊ばすに当り天皇様は斯く仰せられた。
『此の神術は朕を措いて他に為し得る者があらば神も天皇も無いものと思へ、鶴の一声と申す事があるが斯の神術を申したのである』
と、自分は恐懼感激して奉戴申し上げたのである。左様な次第であるから、此の神術を行ふ時は如何な場合でも直接に畳の上などで為してはならぬ。決して忘れぬやうに」
と、懇ろに諭されて伝授されたので御座ゐます。
 私は慎んで教はりましたが、余りに数多い不思議に到底自分などでは覚えさうにありませんからと申しますると、先生は、
「旭形が守護するから心配する事はない」
と申され、それからと云ふものは事に付け折に触れて教へられたので御座ゐます。今年で早や五十二年からになりまするが、どうやら教はった丈けは何方の前ででも出来るやうになったので御座ゐます。

 明瞭しませぬが、明治二十六年か七年に私は名古屋の県庁で書記さんに字を教はり、何遍も稽古して登記簿に姓名を記し捺印した事が御座ゐますが、あんなに一生懸命になって字を書いた事は、後にも先にもあの時だけで御座ゐまするが、それは孝明天皇様の御宮の敷地の登記だったからで御座ゐます、つまり孝明神社創建の発起人中に、私も先生のお言葉で加へられて居たからで御座ゐます。
 此の孝明神社の創建については、大変な訳が御座ゐまして、先生の教へによりますと、孝明天皇様が先生に御遺勅遊ばされた事に由来するので御座ゐます。
 斯様に申しますると「天皇様とも御座る御方が人もあらうに何で擇りも選って下賤の力士風情に御遺勅遊ばされたであらうか」と怪しまれるのが当然の疑問で御座ゐまするが、当時の実情は公卿を始め大宮人の悉くが、畏れ多くも天皇様を狂気召されたかの如く思って居たので、心底から信仰奉仕致すものは先生只一人と申しても決して過言では無いやうな有様だった由で、偶々話が此の事に触れますると、先生の眼は何時も涙の露で光ってゐた事を克く記憶えて居ります。
 左様な状態で御座ゐましたから、下賎の身には違ひありませんが、勤王力士隊の隊長として御奉仕申して居った先生に、畏き御遺勅を遊ばすに至ったので御座ゐませう。
 御遺勅の大要を左に記します。
『皇紀二千六百年となれば、米国は我神国の国旗日の丸と三種の神宝を奪ふ仕組をして居るから、将来必らず攻めて来る、
愈々攻め寄する際には、最初に伊勢の神鏡を奪ひ、次に熱田の神剣を襲ひ、最後に神璽即ち玉座を窺ふ計画であるから、朕が薨じたら、我神霊を伊勢と熱田の中間なる尾州武豊の地に斎き祀れよ。朕は武豊の地に鎮座して皇国を守護せむ』
 斯様に重大な意義が秘められて居りまする此の神社の建設も、天皇様御在世中と同様に、意外にも孝明天皇様鎮祭の神社として何うしても、幾年奔走されても許されない、そこで当時の愛知県知事も懸命に運動されましたが、更に何の効果も挙らず何うしても許可して呉れなかったので御座ゐます。
 先生は明治二十八年には到頭武豊へ住居を移されて頑張られましたが、矢張り駄目だったので御座ゐます。
 万策つきた先生は、明治二十九年に丹波国綾部の「ミロク大神」様の許へ教へを乞ひに行くより方途が無いと申され、徒歩で行かれる事となり、私に供を命じられたので御座ゐます。
 今日でも通りました山坂は明瞭と記憶致して居りまするが、其の中最も印象に残ってゐますのは、綾部も目近に迫りました須知山峠での事で御座ゐます。この峠へやっと差掛かったかと思ふ頃先生は、
「この峠には御殿の出来る処だから綺麗にせねばいけない」
と申されました。私は狐に憑かれたやうで皆目訳が判りませんでしたが、云はれる儘に峠を越して愈綾部へ参り、ミロク大神様を訊ね尋ねて参ったので御座ゐます。
 私はミロク大神様と申せば、立派な社殿でもある事と思って居りましたから、余りに小さいので、何ぼ何でも此の家ではなからうと思って、先生のお側を離れて外に出て調べましたが、矢張この朝倉伊助さんの土蔵の六畳間位の穢くろしい所であるのには驚いたので御座ゐます、其の時家内はお婆さん一人きりで御座ゐました。
 左様な状態にも拘らず先生は其のお婆さんに向って慇懃に平身低頭して、
「ミロク大神様は貴女様で御座ゐます、何卒孝明天皇様の御神号を下さいませ」
と一生懸命に願って居られるので御座ゐます、お婆さんはと見ると、
「それはお人違ひです、私は左様な尊貴な者では決して御座ゐませんから、どうぞ他をお訊ね下さるやうに」
と固辞されては居るが、何とも云へぬ威厳とやさしみとは、私風情の者にでも普通人とは見えませんでした。
 先生はお婆さんが何と云はれても微駆ともせず一心に頼まれて居ましたが、その中に「では神様にお伺ひして見ませう」と云ふ事になりまして、お婆さんは形ばかりのささやかな神床の前に進まれて礼拝して居られましたが、暫くすると先生の方へ向き直って、
「神様は『たまほこノ神』と仰せられまする」
と云はれました。
 先生の喜びやうと申したら、何んな事にでも動ずる方ではありませんが、彼の時は全く包み切れぬ模様で、幾度も幾度も礼を述べられ、勇んで帰途に就かれたので御座ゐました。
 孝明天皇様に「たまほこノ神」と御神名を下さった此のお婆さんこそは、大本開祖出口ナカその人であったので御座ゐます。
 私は斯の稀なる先生の御動作に(勿論孝明天皇様の御神名が定まったので御座ゐますから嬉しいのは当然でせうが)少々過ぎて居られるやうに見え、不審に思ひましたので、其の訳をお訊ねいたしますと、
「佐藤さん、貴下が不思議がるのも無理は無い。是れには深い々々訳がある、古い話になるが」
と、前置きして話された大略は次の様な事で御座ゐます。
(このお話の中、旭形亀太郎小伝にありまする分はその方を御覧願ひ、それに無い分や誤ってをる所丈けを話させて頂きます。)

 元治元年七月十九日払暁、長門藩の脱兵福原越後等、時の守護職松平容保を獲んと思ひ隊を分ちて堺町、下立売、蛤の各御門に発砲して逼りし折りの出来事で御座ゐます。
 飛弾は益々激烈となり、畏れ多くも玉座の間近まで飛び来るやうになり、御側近に侍る公卿を始め悉く顔色を失ひ、為す所を知らなかったので御座ゐますが、ひとり孝明天皇様に於かせられては平常と何の御変りも無く、泰然と飛弾の状を御覧遊ばして居られたので先生は、遉は!と感嘆されたさうで、其の中にも戦は増々烈しくなり、遂に玉座も危く思はれたので御座ゐます。
 此の時先生へ玉の御声がかかったので御座ゐます。
 先生は最初から御側近に御守護申されて居ったとは謂へ、玉体の御守護は玉の御声のかるまでは、如何に危く思はれても手前から進み出る訳には参りませず、非常に心を痛めながら詮術無く、吾が身の危険は遠に忘却して案じ申されて居た矢先で御座ゐますから、飛び立つ思ひで御前に進まれたので御座ゐます。
 一天万乗の大君様を躬を以て御守護申せとの玉の御声! 常に御側に仕へ奉る高貴の身ならばいざ知らず、心に錦を着るとも身は賎しき一力士、斯かるこよなき大任を戴くとは! 嗚呼何たる光栄ぞ、此身はたとひ飛弾の為僵るとも、斯の大任を達さずにおかれようぞ! 感激に打ち震へて仕へ奉らうとされましたが、さて速刻此場を去るに、背に負ひ申せば吾よりも反って玉体が危く、されば平手に御受け申し仕へ奉らうと、金剛力を振出して弾雨の中を掻潜り、危地を遁れられたので御座ゐます。
 途中先生は背に数個の弾丸を受けられましたが、少しも色に出さず見事この大任を果されたので御座ゐます。
 事平ぐの後、天皇様は先生の至忠を嘉ばせ玉ひて左の御製を賜りました。
    御製
 照る影をひら手にうけし旭形
   千代にかヽやくいさをなりけり
 天皇様は亦この時、紫宸殿に於て先生へ神国の秘法を伝授し玉ひ、且つ御宸筆の経綸書と御旗を托し遊ばされたので御座ゐます。
 先に私が先生から名古屋で伝授を受けたと申しました神術即ち切紙神示も、此の時に伝授遊ばされた一つで御座ゐます。
 此の神示に現はれまする主なるもの一、二を左に掲げる事に致します。
一、救世主は「火」霊と「水」霊の二大神であって、アジアの日本タニハアヤベに出口ナカ、出口ヲーワニと顕現する、
一、ヲーワニ神のオヤク、二千六百年で七十のトシ、神が見止めて神が守る、
一、タンバアヤベ出口ナクセバ日本はホロブ、
一、大日本の三山はミセン山、ヨツヲ山、ホン九山、
一、ヨツヲ山は世ヲツグカミ山、寺山ヘコム、十里四方神のミヤコトナル、
一、日本のミ九サ(三種)の神タカラとヒノマルのミハタをベーコクはウバウタクミ、ユダンスルナ、
一、日米戦の状態は天はヒコーキ、ヒコー千(セン)、バクダン、地は旭のミハタ、大ホ、タン九、ウミヲクグルマノフネ、
 その他米国は日本から日の丸を奪って是を踏み台にして日本を蹂躙する魂胆である事や、天皇機関説等反国体思想の事も出て居り、そして是れを追放すると「日の出」となり「日の守」となる事も出て参るので御座ゐます。
 此の切紙神示の他に八紘一宇の数表も御座ゐまして、御皇室と大本との関係が針でつく隙も無いまでに、然も自然の裡に現れて居るので御座ゐます。
 天皇様は大本と仰せられず「みろくの大神」と仰せ遊ばされたそうで御座ゐます。
 先生が明治二十九年に綾部へ参られたのも、実は此の数表と切紙神示に由って、綾部の事は既に明治二十五年に知って居られたからで御座ゐます。
 数表に就きましては実物を御覧頂いて説明申上げる事に致します。
 天皇様が先生に托し遊ばされた御旗とは、赤地白菊章の御旗で御座ゐまして、
『今より二十八年目の辰年にみろく大神が出現遊ばす。この御方が出現になれば、我皇国は万々歳なれども、それ迄は大変な事が頻出するから、此の御旗をみろく大神出現の時機まで預け置く。大神出現の年とならば、日を撰んで奉還せよ』
と仰せられたとの事で御座ゐます。
 この御旗は明治二十五年の八月十七日に無事奉還されましたので、特に明治天皇様から御手許金壹百円を賜り、宮内省より下附されたので御座ゐます。
 奉還するに当り先生は十五日に上京せられ、十六日、十七日と手続きに三日間、五六七の日を要したと云ふ事は、不思議と申せば不思議な事で御座ゐます。
 私はこの御旗の何であるかは明確には存じませんでした。と申しますのは、天皇旗であると云ふ事は聞いては居りましたが、実際そうだとすれば明治の御即位式には無かった筈だし、無いでは大変な事でせうから──此点に捉はれて信じかねて居た訳で御座ゐますが、或る日友人篠原景宣氏が「当大阪に薩州島津の分家が居られるから其処の隠居に聞けば御即位式の実情が必らず判る筈だから」と申されるので、篠原さんに訊ねて頂きますと、
「実際に天皇旗が無くて困り、挙句のはて、京都の西陣で金壹百円で帯地を買ひ御旗を拵へられた」
と云ふ事が判明したので御座ゐます。
 右の如うな次第で先生の御預りになった赤地白菊章の御旗は天皇旗に相違無かった事が立証されたので御座ゐます。
 それで篠原さんが先生や私の事を島津の隠居に話されたので、隠居の希望により篠原さんと私が或る日同道で訪づれ、神示や数表に就いて御説明申上げると、一々驚異の眼を以て聴いて居られましたが、偶々大本関係に就いて説明致しますると、隠居は何う誤解されたのか非常に立腹せられて、私に向って罵詈讒謗されたので不快に堪えず、忽々帰った事が御座ゐました。
 其後、湯浅仁斎さんから「天皇旗が明治の御即位式に無かって代りを作ったと云ふ事の一書を島津の隠居に書いて貰って置くとよい」と云はれて篠原さんを訪ねますると「隠居は先般馬詈した後に頓死した」との事で御座ゐましたので、私は今更ながら喫驚致しました。と申すのは他でもありません。
『この事に反対致す者は皆国賊であるから日本の御土の上に置くことはならぬ』
と孝明天皇様の御宸筆の中に記されてあり、又切紙神示にも現れるので御座ゐます。

 明治三十四年一月元日の事で御座ゐます。先生は病臥中で御座ゐますから、枕頭に愛知県知事を始め、家族、門弟一同を集められて、
「此度の病患は本復覚束ないと思ふ、今年は愈この世を去らねばならぬから元旦の佳日に遺言する」
と申され、夫々御言葉がありましたが、私には孝明天皇様の御宸筆(世界経綸の御玉稿)と、壹円札百五拾枚と、長さ一寸二分の八本の霊竹とを預けられまして、
「皇紀二千六百年まで其方に預け置く、その日が来る迄は誰にも見せても話してもならぬ。二千六百年になったら七十歳になる男に此の金子共々御渡し申せ、黙って唯渡せば其方の任務は勤め上るのだ、その御方が一切解決して下さるから。夫れからこの玉鉾神社には大変な事が起る。尚綾部の大本にも此処と同様大変な事になるから、克く記憶て置いて貰ひたい。そこで此の玉鉾神社は子孫に伝へる訳には参らぬ。町に寄贈する。又自分の屍は学術研究の資料として解剖に付して呉れ」
と遺言せられて、此の年の三月十一日に六十一歳で遂に不帰の客となられたので御座ゐます。
 私は此の托されました御宸筆を時折り拝読致しまして、皇紀二千六百年の辰年を待って居りまする中に、昭和十年十二月、思ひもよらぬ大本事件に遭遇し、翌十一年の春、警察の家宅捜索にかかり、遂に托された御宸筆を焼かねばならぬ羽目に陥ったので御座ゐます。
 私は御宸筆を無暗矢鱈に何処にでも置くのは畏れ多いので、大本皇大御神の御神体と一緒に御宮に祀って居たので御座ゐました。処が家宅捜索に来た刑事は仮令孝明天皇様の御宸筆でも、大本の神様と一緒に祀ってあるから穢れてゐるから焼けと云はれるので、之れは大本とは無関係の物であるから、充分に調べて頂くやう二回も島ノ内署へ持参致しましたが、二回ながら調べてくれず、唯穢れてゐるから焼けとの一点張りで御座ゐますから、遺憾と存じ、今日迄の世の出来事と、この御宸筆の予言の全く一致する事を説明致しますると、刑事は一々驚異の眼を見張って頷いて居ましたが、最後に昭和十二年の予言で忽ち豹変して、「来年の事を言へば鬼が笑ふと云ふが、判りもせぬのにそういふ先の事を云ふて世道人心を惑はすから大本教はけしからぬのだ、直ぐ焼却せぬと王仁三郎と共々死刑にするぞ」と云はれる。「異な事を申されるな。此の御宸筆が大本と何の関係がありますか」と詰問すると、「出口は此の御宸筆によって大本教を拵へ、予言したり致して居るのだ」などと出口聖師が此の御宸筆によって今日迄予言警告されたものであるかの如き口吻ですから、私は、
「皇紀二千六百年が来るまでは固く口外を禁じられて居る私なのだ、どんな方にも未だ一度だって話した事も見せた事も無いのである。唯々孝明天皇様と旭形先生の御遺命を厳守して紀元二千六百年を只管待ちに待って居るのである」
と理を話しても何うしても了解致しくれず、之れに逆らって投獄されては元も子も無くするに至っては尚々相済まぬ結果となる。現身としては唯一人残された自分だ、御宸筆は消えても此身さへあれば御遺命を果す事は必らず出来るのだ、先づは御宸筆を御焼き申して身を全うするに然ず、と心を鬼に強制せらるる儘に焼却したので御座ゐます。
 この間、ああもしたら、斯うもしたらと思案の挙句、曽根崎警察署長の弟と昵懇なるを幸ひ、其処へ一時預けた事もありましたが、熟ら考へるとその結果の反って面白からぬに思ひ当り、これもほんの暫くで止めたので御座ゐます。
 刑事が豹変した予言と申しまするのは、
『天の立替並にノアの洪水から昭和十二年で一万二千年になる、この年から世界の大立替、大峠が始まる』
と御座ゐます。
 此処で謂ふ天の立替とは、地球を左から巡る三個の星と、右から廻ってゐる三個の星とが、地球共々一直線に並ぶ事を申すと先生から聞いて居ります。昭和十二年七月七日からの世界を見渡しますると、真に御宸筆の通りで御座ゐます。

 話が戻りまするが、皇紀二千六百年の辰年に七十歳になる男と云っても一人や二人ではありませんが、御宸筆には、
『天津日嗣天皇様の八紘一宇の鴻業は、皇紀二千六百三十六年に百六歳の男の活躍によって成就する。その男は拇印に⦿の紋を有す』
と在ります。そして其の男の七十歳が二千六百年になりますから、御宸筆を渡すべき人は此の人である事が明かになるので御座ゐます。
 私は今年七十六歳になりますが、未だ⦿の拇印を持って居る人を出口聖師以外に見た事が無いので御座ゐますから、御宸筆の⦿の拇印の男と云ふのは、出口聖師を措いて他に断じて無いと決定しても早計では無いと思ひます。私は出口聖師の作品に捺してある⦿の拇印に初めて接した時「噫此の人だ、この方に違ひ無い」と早速年齢を調べますと、御宸筆の通りで、亦切紙神示にも「出口ヲーワニ、二千六百年、七十のトシ」と現はれ、更に月の家、瑞月等の月の雅号を見ては、絶対的確信を得たので御座ゐます。
 孝明天皇様は「月の出をひた待ちに待って居られた」と先生に何時も聞かされて居りました、百五拾円の金額にも満月の意味が含めてありまするし、天皇様の御陵を後ノ月ノ輪東山御陵と申し上げ、西国三十三ヶ所の十五番の札所泉涌寺に在るのも偶然では無いと存じます。
 私は孝明天皇様が待望遊ばされた月の精七十歳の⦿の拇印の主は出口聖師であって、此の方が救国主であり済世主である事を、右のやうな訳で信仰するに至ったので御座ゐます。
 或る時私は御宸筆の中に、
『神武天皇様が神様から八個の井戸を戴かれて八紘一宇の大宣言を遊ばした其の地は橿原である。そして皇子に神八井耳命と御命名遊ばしたのは是れに由来するのである。生命の源は水であり、従って井戸である、八紘一宇の鴻業は八個の井戸の所在地で無くては成就なし能はず』
と記して御座ゐましたから、早速大和の橿原へ参り査べた所が、何うしても七個より在りませんので、孝明天皇様の御考への地は屹度他にあるに相違ないと思ひ、切紙神示の随々世継王山、本宮山、弥仙山を調べやうと思ひ、先づ綾部へ参りましたが、大本事件後の事とて調べやうも訊ねやうも無いので、極楽餅屋へ立ち寄りますると、店主はこれから何処かへ出かける様子で御座ゐますから尋ねますると、日出麿師にお餅を上げに行くとの事ですから、店主と亀岡へ同行する事に致しました。汽車の中で懸命に聖師様に「此の人の口を通して教へ玉へ」と祈願を凝らし、店主に大本の井戸の数を問ひますと、即座に「八個」と答へて呉れたので、私の此の時の嬉しさは到底申上げやうが御座ゐませんでした。
 最近湯浅仁斎さんに井戸数を厳査して貰ったが、間違ひは御座ゐませんでしたから、八紘一宇の鴻業の経綸地は綾部の大本である事が、更に立証されたので御座ゐます。
 先生が明治二十九年に須知山峠で申された「此処には御殿が建つ」との語意も茲でどうやら判るやうになったので御座ゐます。
 又御宸筆に、「皇紀二千五百六十一年当時の天皇様は神武天皇様の御再誕であらせられ、神八井耳命様は皇太子様と御再誕遊ばし、朕は六歳の男児となって再誕する、また朕が二千六百三年に九歳になった秋に一か八かをわける」と御座ゐまするが、二千六百年祝典当時、第二皇子義宮正仁親王殿下には御六歳に当らせられたので、私はこの御宸筆の一字一旬の相違も無い事に全く驚嘆致した次第で御座ゐます。
 話が大変脱線致しましたが、孝明天皇様は斯様に御英邁にわたらせられたにも不拘、孝明神社創建を許可しないので、遂に先生が綾部に参られた次第は前に述べましたが、此の「たまほこノ神」の御称号でも孝明天皇様のお宮では許可仕様と致さぬから「常々天皇様が八幡宮を特に崇敬遊ばされて居ったから」愛知県知事の骨折りで、幸ひ当時一人の氏子も無く社殿は荒れるに任せ、将に取払はれやうとする八幡様が、名古屋から五里ばかり離れた寒村に御座ゐましたのを、これを武豊に移し、夫れへ合祀する事として、七年振りでやっと明治三十二年十一月二十八日に玉鉾神社建設の許可を得たので御座ゐます。
 先生は翌三十三年一月(六十歳)に玉鉾神社の神職に補せられ、日夕御奉仕に精進されて居りましたが、翌三十四年三月十一日に逝去されたので御座ゐます。
 予言者故郷に入れられずと世の諺にも御座ゐまするが、一天万乗の至尊の御身を以て、あらう事かあるまい事か、崩御遊ばした後までも、然も卑しき官吏輩に、畏き最後の御遺勅迄も拒まれ玉ふとは何たる事で御座ゐませうか、目に一丁字も無い私が五十余年(先生の跡を継ぎましてからでも四十三年)の歳月を、斯様にして過して参りましたのも、孝明天皇様が待ちに待ち玉ふた月の精、ミロク大神様の顕現に坐す出口聖師へ、孝明天皇様の御心の裡を御伝へ致すのみで御座ゐます。
 然るに私は大切なる御宸筆を焼き、出口聖師に御渡し致す事が出来なくなりましたので、記憶を辿り辿りて御宸筆の荒増を言上せねば、死んでも死に切れぬ処か、大国賊とならねばならぬので御座ゐます。
 何卒此の爺が申述べまする仔細を支離滅裂で恐れ入りまするが御寛容の上、御聞き届け下さいまするやう、平に伏して御願ひ申上げる次第で御座ゐます。惟神霊幸倍坐世
   昭和十八年八月二十五日

口述 佐藤徳祥
校閲 湯浅仁斎
撰録 木庭輝男
改訂編修及清記 西田豊太郎
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