文献名1批判・評論
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3浅野和三郎「綾部を去る」よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
概要浅野和三郎『心霊小品集』収録「綾部を去る」、昭和14年(1939年)6月15日発行、心霊科学研究会出版部、223~246頁
備考
タグ
データ凡例フリガナは底本ではほんのわずかしか付いていないが、それ以外の文字も難読字にはフリガナを付けるようにした/明らかな誤字は修正した。
データ最終更新日----
ページ
目次メモ
OBC Z9048
本文のヒット件数全 0 件
本文の文字数12146
その他の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい
霊界物語ネット
本文
一
大正十四年七月十一日午後二時半、家族を挙げて丹波の綾部を去る……。これで私の生涯には、記念日が又一つ殖えた訳です。
私たちが、横須賀から綾部に移住したのは、大正五年十二月の十一日のことでした。その時から指折り数へて丁度十年、月日の経つのは全く迅いものです。ああ綾部生活の十年──善かれ悪しかれ私に取りては、それが終生拭ひ去ることのできぬ、深い印象を残すことでせう。
昔から、兎角人事の意の如くならざることを歎息する格言やら、俚諺やらは沢山あります。事志と違ふ……。とかく浮世は侭にならぬ……。人間万事塞翁の馬……。人生の行路は、何とかするよりも難し……。数へ立つれば、恐らく際限がありますまい。父母の膝下を離れて、無事学校生活を終り、それから人生の港ともいふべき、平穏無事な官僚生活を送つただけの四十歳の坊ちやんたる当年の私には、これ等の文句の意義が、単に上面だけしか判りませんでした。が、最近十年の波瀾曲折を嘗めて来た今日の私には、いくらかその真の味が判りかけて来たやうな気分がします。私が綾部に引込んだのは、決してああした生活を送るつもりではなかつたのであります。少くとも、私の所期の半分以上は、フイになつて了つて居るのであります。
『成程世の中といふものは六ケ敷いものだ!』遅蒔ながら、五十歳の今日に及んで、私はつくづくさう痛感してゐる次第であります。
無論その罪の全体は、私自身にあります。私に一番可けない欠点は優柔不断、可けないと知りつつ、ツイ情にひかされて泣寝入りする癖であります。円転滑脱の八方美人式芸当や、転んでもただは起きぬズル味を有つて居ぬくせに、兎角周囲の大勢に引摺られて、思はぬ方向に、ある地点まで押し流される。これでは可けぬと気がついて、初めて頑強に踏みとどまる時には、モウ殆んど手遅れ……。私は綾部で、そんなヘマな真似ばかりやつて来ました。あれくらゐの失敗で済んだのは、寧ろ一の天恵と、衷心から感謝せねばなりますまい。
『少くとも自分は、三年間綾部に引籠つて、心静かに心霊問題の研究に従事しよう。質素に暮して居れば、どうやら飯だけは食へるから……。』
これが私の初志であつたのであります。この初志さへ、さながらに貫徹して居たらと、今更残念に存じますが、致し方がありません。大本教祖の筆先の言ひ草ではないが、仕組みが大へんに遅れて了ひ、十年経つた今日に於て、四苦八苦の中で、心霊問題の研究を続行せねばならぬ破目に陥つて居ります。
『単に世間を騷がした丈で、このまますツ込んで了つては、いかに何んでも申訳がない。これから罪ほろぼしに、みつしり取りかかつて、心霊研究の目鼻なりとつけねばなるまい……。』
綾部を去るにつけても、私の胸には、この念願が火のやうに燃えつつあります。
二
ああ綾部生活の十年──私の胸には、その生活の間に、経験したよい事とわるい事、長所と短所とが、今更のやうに、はツきり映じて来ます。それ等は当然、人事と自然との二つに分類されます。
綾部の人間の中で、何と云つても私に深い深い印象を与へたのは、大本教祖の出口直子です。短所を拾つたら、この人にも無論沢山の短所もあります。学問、芸術、その他一切の文化的方面の理解力に乏しかつたこと、自家の児女に対する愛着心が、いささか盲目的に強きに過ぎて、宗教家的人類愛の分量が、いささか足りな過ぎたことなどは、蓋し何人も弁護し難き弱点でありませう。が、それ等の弱点は弱点として、充分に之を償ふだけの長所が、彼女に見出されました。至誠一貫、いかなる困苦迫害にも耐へ、いかなる名利安逸をも斥けて、道の為めに飽まで終始せんとする金鉄の覚悟、たとへ彼女のいはゆる道が、何所かに歪んだ個所、若くは足りない個所があるにしても、少くもその態度は、たしかに見上げたもので、一度面接したものに、甚深なる感銘を与へずには置きませんでした。私が最初安心して綾部に引込む気分になつたのも、主として直子一人が綾部に居つた為めであります。
『こんな立派なお婆さんを、さつぱり世に埋もらせて置くのは気の毒なものだ。一つ世間に紹介してやらうかな……。』
私の大本教紹介の動機は、そんな情的分子が大部分を占め、余り冷静なる理性の指示から出発したのではありませんでした。それが私の思慮の甚だ足りない点で、直子の平生を知らない一般世間の方々は、なかなか私の言葉を素直には受取つてくれませんでした。
『浅野といふ男は案外に策士だ。無学文盲の狂ひ婆や、馬鹿正直の信者達をダシに使つて、丹波の山の中で、何か大したことをもくろんでゐる……。』
私の平生を知つてゐるものは、さうも買ひかぶつてくれませんが、事物の裏へ裏へと、慧敏な眼をくばる新聞記者先生達が、先づ斯んなことを囃し立てて、一の群衆心理を作り、たうとう世間の大問題にして了ひました。お蔭さまで、私は一躍して三面記事の大立物となり、又皆さんの御存じない、監獄の中までのぞかせて戴きましたが、然し元の元をただせば、すべてが出口直子の妙に人を動かす、一の強力なる引着力、感化力から出発して居ります。あのお婆さんが、大正七年の秋に歿くなつたから、あれ位で済みましたが、モウ十年も生き延びてゐたなら、天理教のおみきさんどころでなく、多数の崇拝者を、その身辺に引き寄せたかも知れません。直子の歿くなつた時、私などは、ああ惜しいものだと、残念至極に感じましたが、今日翻つて冷静に考へますと、直子の筆端からは、ずゐぶん首をひねらせるやうな、面白くない文句も出ますから、日本国の為めには、却つてあの時死んだ方が、幸福であつたかとも感ぜられます。
直子に亜いで、私が敬意を表したいのは、明治二十何年といふ時分から、直子を扶けて、側目もふらず信心一方で暮してゐる四方平蔵さん、四方与平さんなどといふ人達です。向上進歩もないかはりに、些の野心も不平もなく、ただ神様ばかりを相手に、三十年間一日の如く、平静安穏な信仰生活の実物教授をしてムる。思ひ切つて、一と花ウント咲かせたい、──そればつかりが生命である御大の王仁氏が、此等の忠実な人達を冷遇することは、殆んど想像以上で、他人ならば、夙に癇癪玉の三つや四つ発裂させる筈のところを、この二老人のみは、毫も意に介する色だに見せす、黙々として神務に服して、決して動きません。過つて、私等が一時、大本の代表者でもあるかの如く喧伝されましたが、出口直子の開いた、何事も神様任せの大本教の真髄は、実は此等の老人達によりて、尤もよく代表されて居るのです。かの出口王仁三郎だの、福島久子だのといふ連中は、寧ろ直子をダシに使つて、自家中心の似面信教を樹立せんとあせる野心家であり、又二代だの、三代だのといふ人達は、血脈の上には、直子の後継者に相違ないが、果して教の後継者たり得る徳と、力とを具へて居るかは、全然疑問に属します。私は大本信者をはじめ、世間の方々が、モちと眼の着けどころを転換されることを切望して止みませぬ。忌憚なく云へば、今日の所謂大本信者なるものの多くは、大分脱線したもので、無形の神を信じるかはりに、長いものにはまかれろ式のオベツカ信仰、肉体崇拝に墮し切つて居るものと見受けられます。直子在世中、あれほどまで純真味、真剣味のあつたものが、その器にあらざる王仁氏が、大本の釆配を振りたばかりに、斯うも迅速にダラけて了ふものかと、私は今更ながら今昔の感に堪へませぬ。
三
私は今王仁氏を捕へて、その器にあらずと申しましたが、その意侏は、同氏が宗教家たるに甚だ不適当であるといふつもりなのです。あれ位の芸当をする人ですから、同氏にも、他人の到底真似のできない長所があります。万事に如才なく、人意を察してこれに迎合することの巧妙なことは、殆んど一の天才といふべく、又、しやれ地口が上手で、記憶力がよくて、とぼけた中に愛嬌があつて、利害の打算が神速で、座談に長じて、ちよつと親分気質を有つてゐる……。何の因果でかほどの才物が四角四面な、窮屈きはまる出口直子のお弟子入りなどをしたものか、全く惜しいものだと気の毒に思はれます。
『あの男は、全く職業の選択を誤つたのだ。他の方面に持つて行つたら、相当に成功しただらうに……。』
ある人が私に向つて、斯んなことを申しましたが、私もそれには一理あるものと考ふるものであります。此人が何職業に一番向くのかは、ちよつと判断に苦しみますが、仮りに代議士にでもなつてゐたなら、確かに今頃は、陣笠以上に脱出して居たことは受合です。
あの人が宗教家として一番の欠点は、余りに肉的分子が強烈なことであります。嫌ひなのは、不思議にただ酒ばかり、莨が好き、茶が好き、肉が好き、芝居が好き、義太夫が好き、茶番が好き、就中女が好き、これで神様を職業にしようといふのですから、骨の折れる筈で、その苦心はお察し申す次第であります。これではいかにゴマカシの名人でも、最後にボロを出して、尻尾をつかまへられて、ギユーギユー油を搾られる訳であります。それにしても、道楽を行るのには、一番都合の悪い職業を、選りに選つて苦しまねばならぬといふのは、運命の神も、何といふ皮肉な真似をなさるものでせう!
『私のする事は、皆神様の御命令でナ……。』
斯んなことを言つて、女でも口説き落すのには、一寸便利な点があるかも知れませんが、そんなことは、結局後始末が厄介であります。日本の飯野某、ロシアのラスプーチン、みんなその手で成功して、その手で破綻して居ります。王仁さんなども、その轍を踏まねばよいがと危まれてなりませぬ。
才物は才の為めに躓くと申しますが、王仁氏などにも、たしかに其趣が見えます。何事に対しても持久性がとぼしく、年がら年中猫の眼のやうに、クルクル方針をかへて行きます。言霊学でなければ。夜も日もあけないやうに言つてゐるかと思ふと、やがて鎮魂帰神法をかつぎ出す。修斎会が瑞祥会となり、神霊界が神の国となり、昨日まで日本語を世界の通用語にするのだと意張つてゐるかと思へば、今日はエスペラントに限るやうなことを云つて、可哀想に七十八十の田舎の年寄にまで、その講習を迫り、宗教統一の標語が、宗教聯盟のそれにかはり、筆先の艮金神が、忽ち紅卍の老君と合併し、長髪になつて冠をつけたものが、近頃は短髪で支那服を着たり、トルコ帽をかぶつたり、気まぐれに蒙古に出掛けて見たり、亀岡城址の埋れ石を引き摺り出して、石垣を築いて見たり……。讃めていへば、機略縦横かも知れませんが、斯う頻繁に変つたのでは、結局支離滅裂に陷るのが当り前で、誰やらが
『出口は猿芝居を打つてゐる。』と評したとの事ですが、成程さういへば、たしかにそんなところがあるやうです。しかし世の中は広いもので、信者の中には、今尚根気よく、
『神さまのなさる事は、さツぱり見当が取れませんが、いづれは落ちつくところに落ちつくでせうかい……。』
などと云つて、すべて善意に解釈して、希望をその将来につなぐものも、絶無ではないやうです。猿の芝居か? みろく様の御経綸か? それはやがて、時が最後の解決を与へてくれるでせう。
四
私が綾部を去るにのぞみ、しみじみと身にしみて感銘して居ることは、人間は少しでも無理のある仕事には、決してたづさはつてはならぬといふことです。御承知のとほり、単に綾部の大本教に限らず、すべての教会、すべての寺院等は、道を求めて、これに集まる一切の衆生に対し、全然門戸を開放してあります。ですから、先天的に余程の包容性、余程の人類愛に燃ゆるものでなければ、とても満足にその任務を果すことは能きる筈がありません。私などは性情から云つても、又修養から申しても、殆んどその資格がない。私の手に合ふ仕事と云へば、ただ曲りなりにも実地の体験を骨子として、理智的、推理的に、霊魂の存在でも證明して、信仰の基礎工事を施す位のところです。とても一種の信仰生活の中にはまりて、満足して居られる柄でありません。況してその指導役などが、ドーして勤まりませう。
イヤそれにしても、綾部の大本教ほど手古摺らせる、不思議の求道者が雲集した個所は、めつたにありますまい。他の教会の信者達は、少くとも本部に参籠してゐる間は、なかなか殊勝な心掛でおとなしくしてゐます。無論大本信者中にも、その種の純真な信者達は、沢山混つてはゐますが、例の鳴物入りの立替、立直しの宣伝が、累をなしたものか、それとも例の鎮魂帰神の実習が、誘因となつたのか、実に信仰団体としては、意想外きはまる変挺な連中が、とび込んでまゐりました。大体それは二種類に分けられます。一は世の中に志を得ずして、不平満々たる野心家、一は何か事あれかしと、野獣の如く社会的秩序の壊乱ばかり狙ひつめてゐるあばれ者です。かかる人達が、たとへ有名無実にせよ、信者総取締の格にある私を、目の上の瘤と邪魔物視し、先天的にイタヅラ好きの王仁さんが、そいつらに油をかけて、裏面から煽動するのですから、全くやり切れません。統制も、規律も、へつたくれもあつたものぢやない。
不平的野心家の親玉としては、蓋し例の加藤さんなどを挙ぐべきでせう。口癖のやうに松方侯だの、上村大将だの、といふ大官巨頭の名前を振りまはしながら、一挙に狂熱的大本信者を掌中に收めて、南洋貿易か何ぞに失敗せる会稽の恥を、丹波の山の中でそそがん魂胆、そして両三度綾部へ往来する中に、妄像的に創り出したのが、例の大本教弾劾事件……。今でこそあの方が、一種の発動性を帯びたる、変態心理所有者といふことが、漸く多くの人々にのみ込めたやうですが、風釆は立派であるし、弁舌は上手であるし、相当金子も有つてはゐるし、警眼なる新聞記者先生をはじめ、要路の顕官まで、一時はこれに、ある程度まで引き摺られたのも、穴勝無理ではありません。ただこんなに厄介な求道者が、大本教以外の何所に発見されませう。加藤さんの外にも木原さん、友清さん、石井さん、豊木さん……。何れも一と筋縄では行かない、一騎当千の豪の者ばかりです。
社会的秩序の打破を夢みる、無茶苦茶な乱暴者の大将としては、十目の視るところ、十指の指すところ、例の聖劇団のおん大、小王仁事深町君を推さねばなりますまい。先生なかなか血の気の多い好男児で、江戸ツ児らしい親分肌があり、特に若い男や、女を引きつける一種の魅力を具へ、無理な金子を工面するかはりに、これを使ふこともなかなかきれい、さすがに、世間で小王仁と綽名した丈に、いくらか王仁さんの面影を具へ、ただいくらか輪廓が小さく、ズル味が足りないだけです。しかし時々羽目を外づして、思ひ切つた無茶を働くところは、年の若い故もありませうが、王仁さんなどの到底及ぶところでありません。この人に言はせると、惟神の大道は、各人の気分次第、本能次第に、好きすツぽうを働くこと、他人のものと、自分のものとの見境なしに、無責任な取扱をすること、みろくの理想世界とは、面白可笑しく、すずしい顔をして、芝居でも行つてゐることらしいのですから耐りません。口頭ではまさかソー露骨にも申しますまいが、その行為の上から判断すれば、肚の底では、ソー考へて居るとしか思はれないのであります。こんな先生が先頭に立ち、木島其他の多数の猛者連を後へに従へ、劇場といはず、寄席と言はず、倶楽部と言はず、いよいよ困つたときには、大道の真中に突立つたりして、威勢のよい宣伝演説を試みたのですから、その為めに、大本教の名前は、燎原の火の如く、素晴らしい勢で天下に宣伝されたかはりに、同時に、その名前の汚されたことも亦非常で、ドウも大本といふやつは、表面殊勝らしく神の道を標榜しながら、内実はロシアの過激派と、気脈を通じて居るのではないか、などといふ懸念が、世人の胸の底にきざしかけたのであります。
真正の宗教的人間愛に充ち充ちてゐるものならば、どんな乱暴者であらうが、どんな野心家であらうが、悉くそれを愛の光の裡に包み、或はさとし、或は訓へ、しまひには救護済度の目的を達するのでありませうが、私等になると、碌なことは考へません。『斯んな乱暴な奴は、手取早く武断的に、腕力でとつちめるに限る。生優しい事では、とても規律は保てない。』すぐにこんな念慮が、むらむらと頭脳の底の方でささやきます。
ただ神さまを信じて居るといふ手前、辛うじて癇癪の蟲を押へに押へ、加藤さんからピストルを向けて、勝手な凄文句を並べられた時にも、深町さんから胸倉を取つて、啖呵を切られた時にも、石井さんから、辻褄の合はない弾劾をされた時にも、其の外いろいろな目に逢つた時にも、私は無能な、意気地のない顔をして、何等の防衛手段を講ぜずに、差控へて居りました。しかし乍ら、それはホンの表面だけの付焼刃で、内心には、莫迦々々しいなと思つてゐたのですから、さつぱり駄目な話で、もつて生れた私の理性は、とても五年や十年の短かい修業で、神様又は仏様らしくなりつこはありません。たうとうある時我慢し切れずに、故外山海軍少佐の横面を、一つなぐり飛ばしたことがありましたつけ。私といふ人間は、どこまで行つても、ただの平凡な人間で、信仰の道にかけては、よくよくの素人です。同時に王仁氏をはじめ、綾部に集まつた他の多くの人達も、ソーした天分に富んでゐるのは、決して多いとは思はれません。その資格のあるのは、前にも申ました通り、両四方老位のところでせう。あんな連中のみの集まつてゐるところなら、大本教も、恐らく日本国に存在を許されないほど、始末の悪いものでもありますまい。現在のやうに、宗教聯盟でございだの、エスペラントでムいだの、蒙古布教でムいだの、何んだのと、よたを飛ばして、世間をゴマかすことに浮身をやつして居るやうなことでは、ドウも……。
五
が、過去現在の大本教が何であらうとも、霊的体験を、ふんだんに供給してくれたことにかけては、私はどんなに感謝しても、感謝し切れなく、考へて居るのであります。信仰を求めて、大本に集つた人達から云へば、あそこが立派な修行場でありませうが、私から云へば、あそこは一の実験場で、信者は悉く私の研究材料であります。大正六年頃は、集まつてくる人数が、それほどでもありませんなんだが、七年八年となると、イヤ実験材料が集まる集まる、一日平均二三百人にも上るのですから、私に取りては、誠に以て有難い仕合せで、腕によりをかけて、片ツ端から神懸りの実験を試みました。何も知らない世人は、鎮魂などといふと、世界で特殊の神秘的な霊術でもあるかの如く思はれるかも知れませんが、実はある一二の形式をのぞけば、単なる一の精神統一法に過ぎないので、催眠術と云つたところが、座禅と称したところが、観法と呼んだところが、その根本の趣旨──即ち人間の霊肉一致の常態を打破し、心霊作用の発動を講ずる点に於ては、何等相遑点はないのであります。私はむろん成るべく日本在来の形式を守りて、鎮魂の実修をすすめましたが、お蔭様で、大ざツぱではあるが、心霊学上の重大なる諸問題──例へば死後人間の幽体、並に霊魂が実在すること、それ等の霊魂は、生きてゐる人間の体に憑依すること、千里眼、透視、自動書記等といふ現象は、決して詐術の所産でなくして事実であること、現界、幽界、霊界等の間には、なかなか密接なる関係があることなどが、曲りなりにも、実地体験の上から、ドウやらはつきりと会得することが能きました。甚だ口幅ツたい申分ですが、動物霊、其他の憑依現象を、世に発表したのは、私の方が西洋の心霊学者よりも、些と早かつたやうです。それも偏に私が大本教の内部に居て、実験の便宜を有したからで、私が烱眼な為めでも何でもありません。これにつけても、完全なる心霊研究所の設置は、目下の急務であると痛感されます。大ざツぱな、荒ごなしの実験時代は、モウ夙うに過ぎました。今更幼稚きはまる、大本流の鎮魂帰神法の修行でもありますまい。もツともツと着実精緻なる、純科学的の研究を、ドシドシ遂行するのでなければ、うつかりすると、欧米の学界の後塵を拝して、指をくはへて居らねばなりますまい。綾部を去るに臨みて、この感は、一層私の胸に痛切に湧き出るのを覚えます。
六
イヤ書いてる中に、私の綾部を去るの辞は、甚だ殺風景きはまるものに成つて了ひました。善男善女をよろこばすに足るやうな、つつましやかな懺悔話もなければ、青年子女をうれしがらせるやうな、詩趣情味津々たる感想の流露もなく、おもちや箱をひつくりかへしたやうに、何も彼も打ちまけての、ハツ当り式なぐり書き──こんなものを読むべく強ひらる方々には、誠にお気の毒の至りであります。その埋め合せといふ訳でもないですが、これから少々私の胸に深く刻まれてゐる、綾部の自然界の印象でも書いて見ませう。
綾部が山陰の一名勝として、押しも押されもせぬのは、何と言つても、和知川の清流を控へてゐる、並松一帯の一地域があるからです。東西南北の折り重なつた山脈が、この辺へ来て、ちよつと遠慮して、背後の方へ引込んでくれてるばかりに、山水のゆとりが出来、其間に亭々たる巨松が、程よく配置されて、なかなかに棄て難い風致を作つて居ります。深山幽谷ならば知らぬこと、都会の附近に、これほどの勝地はめつたにありません。私が十年佗び住居を構へたところは、丁度並松の真中に位して居ました。若し綾部に、この並松と和知川とがなかつたなら、私が果して綾部に引込む気になつたかドウかは、いささか疑問であります。
綾部に引越す匆々、私は一艘の小船を新調し、暇さへあれば、ギチギチそれを漕ぎまはりました。近頃でこそ、山陰の小都会にも、表日本のケバケバしい、運動かぶれのした風潮が侵入して来て、ペンキ塗りのボートなどが、しきりに漕ぎまはされてゐますが、十年前、私が並松に移つて来た時分には、用事もないのに、船を弄ぶキマグレ者などは、ただの一人もありませんでした。従つて和知川全体は、殆んど私一人で占領してゐるやうなもので、私は得意の鼻をうごめかしながら、来訪者に向つて、よくこんなことを誇りました。──
『どうです私の邸宅も、可なり宏大なものでせう。これが私の庭の池で……。』
私の住居の上手の所には、急流があり、又綾部大橋のすぐ下には、堰が設けられて居りますので、その中間六七丁の河面は、完全な一のプールを為し、川と言ふよりか、むしろ排水の完全な大きな池の観があるのです。
愉快なのは、一と骨折つて船を急流の上まで引張り上げて置いて、それを突き放すことです。船はひとり手に流れに随ひてくだり、やがて急流にさしかかると見るや否や、急転直下、さながら矢のやうに、生い茂れる篠藪を掠め、突起せる巨岩の間を縫つて、殆んどものすごいばかりの勢を以て奔馳します。それからだんだん流れがゆるやかになり、ところによりては、クルクル渦を巻きます。私はノンキな顔をして、艫の一端に腰をかけ、船を投げ出して、莨でも吸ひながら、船をすつかり水の流れに任せきりにします。暑い時なら、両足を舷外に投げ出して、冷たい水に洗はせ、若しくは裸体になつて、ザンブとばかり水中にとび込んだりします。そんなことをして、三四十分も過ぎたと思ふ頃には、船はいつしか自分の家の門前に近づいてゐるのです。
『和知川の舟遊び丈は実にいい。全く以て天下一品だ。一生涯に、あの真似ばかりは、二度と再び能きないかも知れない……。』
私は今筆を走らせながらも、そんなことを考へて居ります。
斯んな山間の清流ですから、勿論鮎が沢山捕れます。しかし鮎といふ魚は、莫迦に敏捷なので、私のやうなヘツポコ漁夫の手には負へません。他人の捕つたのを買ひ求めて、ときどき舌鼓を打つ位のところです。が、幸ひ和知川には、鮠が棲んで居ります。六月頃水中深く潜り込んで、眼を開けて側面を見透すと、大小の銀鱗の游いでゐるのが、宛然水族館にでも入つたやうに、はツきり見えます。こいつ私どものやうなヘタな釣手には、まことに誂へ向きの魚で、飯粒又はサナギを餌にして、綸を垂れると、調子がいい時には、しばらくの間に二三十尾は容易に釣れます。それを焼いたり、煮たり、又は油で揚げたりして、一盞を傾ける時の愉快さ。何にしろ釣る楽みの外に、又口腹の欲望を満足させるのですから、申分はありません。
七
夏の川遊びに比して、殆んど遜色なきは、秋の丹波の山遊びであります。名にし負ふ丹波栗の本場、殆んど小児の拳大にも達する大粒のが熾んに出る。それから山国だけのことがあつて、柿が多量に産出する。私の邸に元から生えてゐる三本の柿樹に生るだけでも、なかなか食ひきれません。
が、丹波の山幸は、何んと言つても、茸狩りにとどめをさします。綾部の南嶺北丘、到る所、殆んど松茸の産地ならざるはなしです。魚釣りのヘタな私は、茸狩りにも亦人並すぐれてヘタですが、それでも丹波の茸狩なら、私見たいなものにも、甚だ与しやすい。ズーツと見渡すと、人の採り残した、笠の開き切つた大物が、ニヨキニヨキ聳立して居ることがある。そんなのは、いやしくも盲人でない限りは、誰にも採れます。さうでなくとも、試みに枯枝か何かで落葉を掻いて見ると、間の良い時には、むくむくと、七八本見事な奴が、突如として頭を出してゐることも少くない。兎に角山へ行つて、手ぶらですごく戻るやうな、気のきかない場面には、めつたにぶつつかつた例がありません。
しかし私には、松茸狩よりは、寧ろ初茸狩りの方が一層愉快でした。綾部から約一里の地点に、位田の野があります。波のやうに起伏する広袤一里ばかりの小松原──其所が初茸の産地なのです。雨上りの日でも選んで、そこへ出掛けて見ると、イヤ有る!有る! 五歩に一本、十歩に五本、見事な奴が、あの薄赤がかつた高尚な頭を、芝生の上に突き出してゐる! 携帯せる籠に採つては入れ採つては入れしてゐる中に、いつしか其籠がイヤに重たくなる。
『残念ながら、今日はこれ丈でおやめにしませう。そんなに欲を深くしたところが、とても持つては帰れない……。』
『次回に来る時は、貨物自動車でも傭つて来ることですナ。』
口々に斯んなことを言ひはやし乍ら、よき程に切り上げる事ほど左様に、あの初茸が沢山あるのです。きけば丹波の住民は、初茸などはてんで眼中になく、あんなものを採つて食ふほど、茸類に餓ゑてはゐないのださうです。尚位田の野には、初茸の外にも、芝かつぎと称する、ねばねばした茸だの、めちやめちやに密生する、あのシメジだのも沢山あります。
秋の茸狩りを語つた上は、一応春の蕨狩りも数へねばなりますまい。須知山の谷間、稲山の裾、あちこちぶらつきながら、あの優美な曲線をボキと手折る。……蕨は食べてもなかなか美味いが、しかしその興味の大部分は、手折り心地のいかにもいい点にあると存じます。
これは丹波の名産でも何でもありませんが、是非ともここに書きとめて、後の記念に残さねばならんのは、私の邸のあちこちに植ゑてある、五本の白無花果の樹です。十年前綾部に引越す時に、私は小指ほどの苗木を、横須賀から携へて行つて植ゑつけて置いたのですが、それが年と共に繁茂し行き、今では二三間四面に生え茂り、熾んに実をつけます。両三年前から、その季節には、毎日平均百顆位づつ採収されませう。兎に角私の家の無花果は、綾部附近の評判となつてゐる位で、通行の人々はよく足をとどめて、
『何んとまア見事なもんやなア!』
などと歓声を発します。今年は時候の加減か、特別の豊産で、大小さまざまの青い果実が、何の枝にも何の枝にも、すずなりに生つてゐます。
『せめて無花果の熟するまで、綾部に居ませうよ……。』
子供達は、しきりにさう言つて私に迫ります。私とて、あの甘漿の滴たる、もぎ立ての大きなやつを、家族と共に味はひたいのは山々ですが、周囲の事情はそれを許さず、今年はただ青い果実を、残り惜しげに眺めただけで、引越すべく余儀なくされました。鶴見へ来てからも、時々あの無花果の噂が持ち出されます。
八
善い点だけ拾ひ出せば、綾部の自然界も甚だ結構ですが、むろんイヤな点も沢山ある……。事によると、後者の方が余計かも知れません。
困りものは丹波の冬、十二月の声をきくと、モウきれいに晴れた日とては、めつたにありません。一寸蒼空が見えたかと思ふと、日本海の方から、底冷えのする雨雲が、颯とばかりに襲ひ来て、山を掠め、谷を埋め、たちまちにして冷たい雨が、ビシヨビシヨ降り出す。雨の時はまだいいが、やがてそれが雪となり、翌年の三月の末までには、何百回雪が降るかも知れません。
近年は不思議に、雪の分量がよほど減りましたが、私が最初綾部に引越した大正五年の暮から、翌年の春にかけての寒さなどは格別で、一尺余の雪が、年中絶間なく山野を埋め、道路を塞ぎ、散歩や遠足などは、思ひも寄りませんでした。殆んと霜さへ降らぬ三浦半島と、雪ばかりの丹波の綾部との対照は、相当痛烈に骨身にこたへたことは、今でもよく記憶に残つてゐます。
それなら綾部の夏は涼しいかといふに、そいつは全然正反対で、水蒸気の多い無風の窪地に直射する太陽の熱度は、又格別、七月頃から、日中は大てい九十度以上に上り、何やらモーツとして、妙に睡気を誘ひます。土地の人々が、日中は大抵昼寝と相場をきめてゐるのも、穴勝無理はないやうです。綾部でいつも涼しいのは、綾部橋の上と、舟の上だけであります。
予定の紙数が尽きかけましたから、私は一と先づここへらで筆を擱きます。綾部の大本教がよかれ悪しかれ、又丹波の山川風物が気に入らうが入るまいが、何もかも皆過去十年の夢となりました。東の空に舞ひ戻つての今後の浮沈消長、機会があつたら、又十年後に振り返つて見ることに致しませう。
(大正十四、七、十九、鶴見にて)