文献名1教団出版物・関係者
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3正系の大正日日復刊(『大正日日新聞』昭和27年5月5日付)よみ(新仮名遣い)
著者上野公園
概要大正日日新聞が第二次大戦後に復刊するにあたり、元・社長で、現・顧問の上野公園(上野音次郎)が、大正日日新聞の歴史と、現・社長の村田一郎を推薦する意義を書き著した記事。
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データ凡例『大正日日新聞』昭和27年(1952年)5月5日付/不鮮明のため読めない文字は記号「〓」で代用した。他に読み取りを誤った文字がある可能性あり。
データ最終更新日2026-05-20 14:54:29
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本文
正系の大正日日復刊
村田一郎氏推薦の意義
元大正日日新聞社社長 本社顧問 上野公園
大正八年、折から第一次大戦の後半期、戦時成金思潮の延漫横溢して、国民生活及思想の動揺その極に達し、これが指導の責任的位置にある言論界までもその思潮に脅された、かかる国内事情を歓ぎ他面時の為政者や指導層のあきたらない態度に痛憤を感じた、明治、大正、昭和、に亘る我言論界先覚者鳥居素川氏は、長谷川如是閑氏その他有識者の協力を得て、株式会社大正日日新聞社を創立し、大阪梅田駅頭現阪急デパート地域に堂々三階洋館の本社を建設し、高速以前だからマニノリー八台を装備し大新聞印刷工場の全設備を完了し、陽春関西本社二大新聞に対抗して、朝夕刊八頁、時には十六頁の豪華版を以て世人を驚嘆せしめた、当時京都帝国大学文学部新聞研究室では主事古市春郎文学士が全国から蒐集の大新聞を精読批判研究し、大正日日が最も正確迅速清新で抜群の権威あることを推察発表した
しかし、資本的弾力性稀薄にして特に物価の破天荒の昂騒、編集経費の膨大、営業の不馴れによる未集金の漸増、加ふるに大資本閥を背景とする資本主義、成金謳歌主義の擁護者番犬新聞が共同の圧力に抗するべくもなく、遺憾ながら年余にして経営組織の根本的刷新断行を理由として一時休刊しなければならなくなつた、日刊大新聞一日の休刊はその生命を断つと同じことで、内外態勢の挽回は容易なことではない、しかも銅の反逆は益々濃度を加くあらゆる悪埒なる手段を弄して大正日日新聞再生を妨害した、年歯漸く老境に近からんとする鳥居氏は男らしく再生を断念し、当時燎原の火の如く全日本に教勢を布く丹波綾部町に全国本部を有する大本教主出口王仁三郎師に談じ新藤神戸新聞社長の仲介にて大正日日新聞発行一切の権利を出口師は譲渡を受けたり、出口大本教主は一族郎党を引具して梅田駅頭本社に屯して、早速幹部陣容を構成、主筆には文学士浅野和三郎氏が独特の健筆を揮い読者をして驚嘆せしめた
床次氏令弟乗出す
次に当時内務大臣床次竹二郎氏の令弟床次正広氏や当時の池田南海〓〓〓、綾部月刊蚕都新聞社長不忍上野公園を中軸としてこれ等幹部に編集、営業、企画の全面を一任し、大正日日新聞はここに大本教学啓蒙の一半の新使命と指導精神を盛つて華々しく新発足し、全国数百万の信徒層に深く食入り、心をもつてつなぐ盤若の基盤を獲得するに至つた、時あたかも大本教〓部〓部は教勢を〓れると〓のため政〓により、稀有の大弾圧強き次行〓、第一大本幹部の逮捕は必然大正日日新聞の〓刊に支障をきたし、ここに池沢原次郎氏が出口師より委嘱され更に池沢氏は急〓適材〓〓色のいとまなきままに一時、米田誠夫に経営権及設備を貸与した、大本係争の六年間不誠意極まる米田は教主以下の〓〓に在るを奇化として賃貸料金を全然支払わず財界の混乱に乗じ会社商社を渉りあるき蛇蝎の如く嫌われ、光輝ある歴史を有する大正日日新聞を悪銭稼ぎの武器として使つた、出口師出世の後悪漢米田の行動を忌諱し、大正日日新聞の返還を迫つたが元より応ずる気色もなく遂に法的手段に訴へた、悪埒にも米田は工場設備を占拠していた
しかし大正日日新聞なる題号は言うまでもなく機械器具及新聞社の備品一切は明かに出口師のものであるから師は直ちにこれが発行権を不肖に賦与した、不肖は師の意思を感激受容の上、肥後橋ビルに本社を移し自ら社長として本社機構を更改し、平田公孫氏を主筆に三谷先見氏を営業部長に、創作家吉川延氏以下十数名の幹部社員を擁し、ここに愛善主義の大正日日新聞は再び蘇生再刊せられることとなつた、出口師が発行権を取上げた〓〓米田は別に「夕刊大正日日新聞」を発刊し四千八百二十六うの電話番号を其侭号数に印刷し創刊第一号を胡麻化し(法規的には何号からでも発刊が出来る)胡麻化しの利かぬ第三種郵便物認可の年月日は毎号〓〓をつぶして糊塗したことも今にして思えば噴飯の至りで、今日若し夕刊大正の改題によつて号数を〓ぐ新聞があるならば真正のこの大正日日新聞よりも電話番号だけ号数が多いわけである
正系の大正日日新聞は斯として不肖の手により折から最悪の世況に難航を続けながら、続刊して来たが偶々昭和十三年、折から日支事変の突発伸展に伴い、〓〓の統一、資材の強制統制、一府県一新聞原則主義の励行により日刊新聞はいずれもその精彩を失い、制規づくめ圧迫、命令を甘受し只管ら馳りて帝国主義戦争の拡大を謳歌し国民欺瞞の道具に堕したことは世人の記憶にいまなお新たなるところである、不肖は斯かる言論界の推移にあき足らず翻然大正日日新聞を休刊して時勢の移行を静観した、再来、時を閲すること茲に十数年星霜、世相は転変して今や欣望の講和条約発効の期を迎へ独立自由新生日本再現の日は廻り来つた、このときに当り、硯友村田一郎氏によつて光輝ある歴史と伝統を誇る我が正系の大正日日新聞があたかも時代的清新なる企図の下に復刊せらるることになつた
殊に村田氏は春秋に富み堂々たる風姿、怜悧なる〓〓、透徹した言論と冴えたる手腕の持主また新聞人として推賞するも過言でないと信ず正系大正日日新聞復刊の前途に際し同氏の為多幸あらん事を祈る、社長であの題号所有の不肖は欣然一切の権利主張を無条件に同氏の人格に信頼移付し、本社顧問として大正日日新聞向後の発展に協力し、発刊当時の高遠なる理想の実現に伝統の教学的指導原理の宣伝に挺身して、精彩なる紙面実現を以て全国読者に再びまみえんとする、茲〓か述懐を終り復刊の辞とする