文献名1三鏡
文献名2水鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3真如聖師と応挙よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
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データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1927(昭和2)年07月号
八幡書店版301頁
愛善世界社版52頁
著作集
第五版98頁
第三版98頁
全集383頁
初版87頁
OBC kg081
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本文
私の生家は円山応挙の直系である。もと藤原氏であつたが、其後百姓となり、百姓としては藤が切れないから不便だと云ふので、其不便を避くるために上田と姓を改めたのである。藤と云ふものはよい肥料になるし、蔓は物を縛るのに使用するし、百姓に取つて大層便利なものである。其藤は又草と共に到る所に簇生して居るものであるが、それを姓が藤原だから切る事が出来ないと云ふ事になると、百姓としては甚だ困るので扨てこそ姓迄かへた訳である。
私の子供の時には家に伝はる応挙の絵が随分沢山あつたが、其後、火事に焼けて何もないやうになつて仕舞つたのは惜い事であつた。今応挙の子孫だと云ふて記念碑を建てて居る家もあるが明治三十五年頃大阪の某新聞に応挙が若い時は上田主水(応挙の本名)と名乗つて居た事から、其後京都の円山に移り住んだので円山応挙と号したと云ふ事迄詳しく書かれて居た。私は子供の時にお祖母さんが、応挙応挙と呼んではいろんな話をするのをオキヨウオキヨウと、聞いて、お経文の事かと思ひ、主水さん主水さんと云ふのを鈴木主水の事かと思つて居たのは滑稽である。非常に貧乏して居た或年の雪の降る日、家業の車は挽けず、困つて居ると、五円の金で応挙の絵を某家から買はうと云ふて来た事がある。其時父は某の云ひ草が気に喰はぬと云つて、大層怒つて其絵を目の前で数枚火にくべて焚いて仕舞つた事もあつた。又何度も何度も私を子に呉れと云うて来た事もあつたが心の底が見え透いて居ると云ふて、父は断然ことはつて仕舞つた。
私の姓が藤原を捨てた理由は、前云ふ通りであるが、上田の姓を名乗つた訳は、祖先が大和の国から信州に渡り、信州の上田から現在の所へ来たので、其縁故によつたのである。中古の先祖が源平藤橘の何れにあつたにしても余り自慢にもならぬし、又祖先に偉い画家が出たにしてもあまり誇りにもならぬ。現在祖先がやつたやうな大きな働きが出来、立派な絵が描けねば、記念碑だけ立派でもつまらぬ事である。