文献名1三鏡
文献名2水鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3人生と信仰よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1928(昭和3)年09月号
八幡書店版173頁
愛善世界社版125頁
著作集104頁
第五版148頁
第三版149頁
全集414頁
初版140頁
OBC kg126
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本文
人間を現在的生活の上より見れば、実に寂しい、はかないものである。十ケ月間恩育された母体をはなれて、やつと一口産声をあげるや否や、五十年とか長きは七十年、八十年を限りとして大自然と云ふ無言の裁判官から死刑の宣告をうけてゐるのだ。日一日と乳児が生育してゆくのは、所謂死刑台上に一日一日と近よりつつあるのだ。それでも吾人は千年も万年も生きられるものの如く、安閑として種々の欲求にかられ活動を続けてるのだ。名は益々美ならんことを思ひ、位は益々高からん事を念じ、生命は万歳の齢を空想し、富は益々大ならん事を欲して、走馬燈の如く現実界に目まぐるしきほどの活動を続けて居る。そして一日一日死刑台上に近づいてる事を余り深くは感じないのである。試みに思へ、重罪犯人が裁判官より死刑の宣告を受けて、刑の執行の日を何日か何日かと待つてる間の心持は如何であらう。淋しいと云はふか苦しいと云はふか、顔色青ざめ身体骨立し、飲食もその美を感ぜず、殆んど死人の如く青息吐息溜息にのみ刻々を過ごすであらう。吾人は重罪犯人でなくとも裁判官の死刑の宣告を受けずとも、大自然は已に已に吾人に厳として動かすべからざる死刑の宣告を与へてゐるではないか。ああ人生はかくの如く淋しいものであらうか、悲惨なものであらうか。否々然らず。吾人は神と共に永遠無窮不老不死の生命そのものである。霊肉脱離の関門はあつても、吾人の本体そのものは決して滅亡しない。現実界のすべての歴史を、過去の背景として永遠無窮に霊界に復活するのである。そして現実界に於ける善悪の応報は自身の霊体に反響し、しみついて永遠に離れないものだ。是をおもへば神の子神の宮たる人間は現実界に於て善をいひ善を思ひ、そして善を行ひ主神を愛して主一無適の信仰に生き、永遠無窮の安楽国を自ら開拓せなくてはならぬ。是れ人生に信仰の最も必要な所以である。