文献名1三鏡
文献名2水鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3阿弥陀の実現化、弥勒仏よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
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データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1928(昭和3)年10月号
八幡書店版41頁
愛善世界社版129頁
著作集87頁
第五版178頁
第三版178頁
全集434頁
初版172頁
OBC kg139
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本文
朝夕の教会詣でも、寺参りも、祝詞を奏上するのも、鐘をたたいて読経するのも、悪い事ではない。それは唯信仰の行程であつて、百万億土に極楽浄土があつてそこへ行つたら蓮華の台にのせられて、百味の飯食が得られると無我に信ずる事が出来て木仏金仏石仏、絵仏を絶対に仏の姿だと信ずることの出来る者は幸福者だが、現代の人間はそういふ絶対他力の安心の出来難いものが多い。いよいよこれで確実だと自分の腹底にきめ込んで居るものも、必ず助けて貰へると絶対他力の帰依者も、いよいよ死といふ一段に想ひを致した時はグラツイて来るものが多い。あれ程信心深い同行でさへと云ふ事がある。極楽浄土から便りのあつたものは今に一人も無い。只信ぜよ弥陀を基督をと謂つても夫はあまりに安すぎて受取りにくい者が多い。こう思ひ考へて見ると真個に信心の出来たものが幾人あるだらうか。それを思つて自分は阿弥陀を弥勒仏として実現化せんとする為に努力して居るのである。