文献名1三鏡
文献名2月鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3安全な代物よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1929(昭和4)年04月号
八幡書店版211頁
愛善世界社版
著作集
第五版49頁
第三版49頁
全集483頁
初版32頁
OBC kg281
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本文の文字数952
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本文
五日一水、十日一石と云ふが、三年一文、一生一言に万行を含むものは、神の生宮であり、真の予言者であり、雄弁家である。万巻の書を腹に詰め込んだ、紙虫学者の多くは一事に貧しいものである。又万言をたづぬる人間は、一行を修め得ぬ人間に決まつて居る。全体、文字を書いたり、文句を捻繰る様な人間や、口の達者な人間に恐ろしいものはない。思つた事を書いて了ひ、又言つて了へば、頭脳は空虚になるからだ、実に安全な代物である。そこに如何なる表現も、自己を現さずには措かない。その言葉が真信を裏書するのも不思議では無い。嘘は元より嘘であるが、真実を語つても一度口から外へ出したら、それはもう真実そのものでは無く、真実の影である。平仮名を七字づつに切つて、いろはにほへと、ちりぬるをわか、よたれそつねな、らむうゐのおく、やまけふこえて、あさきゆめみし、ゑひもせすの「す」を加へた圏点の「とがなくてしす」といつたのは、赤穂四十七士に対する徂徠の評語であるといふのは、「いろは」を弘法大師の作だと云ふにも勝つた大嘘であるが、「説かなくて死す」は「咎無くて死す」たる事は当然だ。説きさへしなければ、咎は無いからである。併し言葉は要らぬと言ふ事すらが、言葉でないと言へない。文字無用論も、亦字によらねば書く事が能きぬ。実行の黙鳥は、言文の翼によらねば、飛びさうにも無いが、一管の笛で衆生も済度さるれば、一篇の民謡に国の興亡も覚られる。邵康節は杜鵑の一声に、宋の転覆を直覚したといふ。歌ふか黙するか、この二つの間に一寸でも理屈がはさまると地獄に堕ちる「黙指無声」の達磨と唯説弥陀本願の羅什は、異体同心ではないか。それに歌へども踊らずといふけれども、現代人は唄はなければ踊らない、己が腹から湧くので無いからである。踊らずに居られなくなつて踊るのではないからである。作れども知らず、それでこそ真の作物と云ふべきである。人間が意識してやることに碌なものはない。人為とは破壊の別名である。作らしめられたもののみが、生きて居るのである。斯う考へて見ると現代は破壊の多い時節であると思ふ。人間は子供を造り得ない癖に、子供を精神的又は形体的に殺すものが多い。自分から小供の精神を殺して置きながら、其罪を何ものにか、塗りつけるもの斗りになつた現代である。