文献名1三鏡
文献名2月鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3人間と云ふ問題よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1929(昭和4)年06月号
八幡書店版186頁
愛善世界社版
著作集97頁
第五版84頁
第三版84頁
全集507頁
初版64頁
OBC kg299
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本文の文字数1079
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本文
人間とは何かと云ふ問題が、現代思潮に持上つて来た様であるが、今更人間を評論するも可笑しい様でもあるが、今日迄の学者の評論が総て他の事のみに限られて、人間御自分の事は、お互に忘れられて居たのも、可笑しい事であつた。古い言葉だが、燈台下暗しとは此事である。総て人間の世界は人間のもので無くてはならぬ。換言すれば人間は総て人間的生存でなければならぬ。何んでも無い人間を万物の霊長だからといつて、無理矢理に祭壇に祭り上げたり、殊に道学先生や、神主さんや、僧侶や、神道教師の間に於て、神さん振りを発揮したり、仏さん染た顔付をして見せたりする。学校の教師は、木石同様の取扱ひを受け、万々一性欲問題等を論議しようものなら、忽ち驚異の眼を以て上司からも、父兄からも睨まれるといふ状態である。併し人間は、何処迄も人間であつて、是を分析して見れば、或は神聖な所もある。或は貧欲な性分もあり、或は応分の野獣性も有つて居る。故に人間は善だとか、悪だとか云ふ事は、既に議論の末である。学校の教師だとて、恋愛心もあるし金も欲しい。女郎だとて、乞食だとて、信義を堅く守る事もある。神主、僧侶、牧師だとて、殺人行為が無いとも限らない。司法官や警官方の中から、盗賊が出ないとも云へぬ。人間には三分の自惚と、七分の黴毒気の無いものは無いと云ふではないか。無産階級の人々が、野獣性に富んで有産階級の人々が神聖味が豊富だと云ふ筋合でもない。何れを問はず、人間として生を有するものは、以上の如き性分を含有して居る。只その量に於て、多少の差は、或る底の信仰や、修行によつて異なつて居る所がある位のものである。
現行法律の上からは、人間から生れたものを人間と云ふ断定の下に人間を取扱つてゐる。それに人間と神とを、同一に取扱はうとするものがあるかと思へば、脱線した自由主義者や自然主義者の間に於ては、是を獣的に取扱はうとするものさへある。此等の人間は唯単に性欲満足、物質満足を以て、人生は足るやうに思つて居る輩である。一体全体人間を主義などといふものの型に箝めようとするのが、そもそもの間違ひである。
大本は、人は神の子、神の宮と唱へて居る。又神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰なり。神人合一して、茲に無限の権力を発揮すとか、又人は天界の基礎なり、天国は昇り易く、地獄は堕ち難しと謂つて居るのは、普通一般の所謂人間ではない。人間界を超越した神の御用に立つ所の神柱のヒト(霊止)を指したものである。人と獣ととの中間に彷徨して居る縦はな横眼の者をさして人間と称しての、此の論旨であると考へて貰ひ度い。