文献名1三鏡
文献名2玉鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3生身天満宮よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1933(昭和8)年08月号
八幡書店版345頁
愛善世界社版202頁
著作集
第五版196頁
第三版199頁
全集
初版167頁
OBC kg641
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本文
園部の郊外に生身天満宮と称へる日本最初の天満宮がある。元来園部の地は菅公と因縁深く、菅家代々の知行所で小麦山(旧城跡)に邸宅があり、劇寺子屋で有名な武部源蔵も同じく園部の人で、菅公配流の節、八男慶能君養育の内命をうけて幼君を伴ひ園部に帰つたのである。然るに幼き慶能君が父を慕ふ様子のいぢらしく、自らも敬慕の情やみがたく、手づから一の木像を彫刻し之を公と仰ぎ邸内に小祠を建設してその木像を安置し、之を生祠と名づけて奉仕したのである。延喜三年二月廿五日太宰府の配所にて公は薨去せられたので生祠を霊廟と改めた。次で天暦元年京都北野に公の尊霊を鎮祭し、天満宮の神号を賜ふに至つて諸国の由緒ある地にも社を立てて祭祀すべき旨公達あり、よつて天満宮として改めてこの生身の像を神体として祀つた我国最初の天満宮である。武部源蔵の子孫相次で現今の神官で三十四代続いて居る。王仁は若い時ついその附近で獣医学を研究して居たので知つて居るのだが、他国ではあまり知られて居ない事実である。