国祖はご退隠されてからも、神界現界の大災害が近づいていることを座視するに忍びず、天教山・地教山に野立彦命・野立姫命と現れて、しばらく救世の神業に携わっていたのであった。
しかし撞の御柱の神、天の御柱の神、国の御柱の神がご降臨されて、修理固成の神業を成すことを見定めると、地上一切のものの大洪水からの贖いのために、天教山の噴火口に身を投げて根底の国・地汐の国へとそれぞれ下っていった。
淤能碁呂島の本体ともいうべき国祖と豊国姫命の身魂は、自身の一部ともいうべき天教山の烈火の中にもまったく損なわれることはなかったのである。
知恵暗く力弱い人間は、どうしても偉大なる神の救いを求めなければ、自力で吾が身の犯した罪を償うことはできない。善をなそうとしても悪を知らず知らずのなすのが有限たる人間である。
だから、人生には絶対的の善もなければ、絶対的の悪もないのである。これは、神は霊力体をもって万物を造ったが、霊は善・体は悪・力は善悪混合であるからである。善悪不二、美醜一如であるのは、宇宙の真相なのである。
天地陰陽相い和して、宇宙一切が保持されるのである。また善悪は時所位によって変わるのであるから、本当に善悪の審判ができる権限を持つのは、ひとり宇宙の大元霊である大神のみなのである。
人はだから、吾が身の悪を改め、善に遷ることのみを考えるべきであり、いたずらに他人を裁くべきではない。善悪愛憎の外に超然として、惟神の道を遵奉することのみである。