伊邪那岐神が櫛を灯して見たというのは、奇魂の「くし」であって、誠の神の霊智霊光の発動を現している。日の神の御光である。
天津日嗣は一人しかおられない。日の大神の御聖徳を輝かし、その大御心をもって世界を調べたのである。すると世界の人民の心は蛆のようになってしまっていた。
古事記に、伊邪那美命の各所に雷神がいた、というのは、世界の各階層のひとびとの思想が悪化してしまっていることを表している。
大本は一つ火、霊主体従の神教を天下に宣伝していたが、頭に成れる雷神の大圧迫が落下して、各種の妨害を受けたのである。
また大本内部にも、役員信者の中に利己的な目的をもって潜んでいる分子が存在ししている。
伊邪那岐神が伊邪那美神の惨状を見て、黄泉国から逃げ帰られたというのは、世界の惨状、人民悪化のあまりの矛盾撞着に呆れられた、ということである。