第七巻の総説で、王仁は明治三十三年以降、顕真実の神業であったのに対し、開祖は大正五年まで未顕真実であった、と書いた。それを批判をする信者があるようだ。
しかし、開祖は未顕真実の「境遇」にあったと書いたのである。それは経のお役として、世の中が曇っていて時機が至らなかったために、大正五年までは、やむを得ず経の御用を十分に顕すことができなかった、という意味である。
また、神諭に「緯はサトクが落ちる」「緯はいろいろのことがある」とあるので、緯の役目の意義を疑う人がある。緯の役は千変万化の神業であるから、かえって神的活動、大苦心の様を現したのである。
霊界物語も、神道とか大本といった小さな世界のことだけを扱っているのではない。宇宙の外に立って神示のままを口述したものなのである。いかなる法難や一部信徒の無理解も意に介せず、ただ自己自身の体験と神示によって忌憚なく述べただけである。