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文献名1霊界物語 第18巻 如意宝珠 巳の巻
文献名2第3篇 反間苦肉よみ(新仮名遣い)はんかんくにく
文献名3第8章 蛙の口〔636〕よみ(新仮名遣い)かわずのくち
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-03-16 17:34:12
あらすじ
綾彦とは、行方不明になっていた豊彦・豊姫の長男であった。豊彦は夢のお告げで、腹が膨れるお玉の祈願のために彦・お民夫婦を真名井の豊国姫命へ参拝させよ、と神命を受けた。さっそく二人を真名井に参詣させたところ、黒姫の部下たちに捕まってしまったのだった。

魔窟ケ原に帰ってきた浅公は、黒姫に報告をし、さも自分たちが神力でバラモン教徒から綾彦・お民を助け出したかのように語った。

黒姫は、綾彦に自分の身の回りで御用をするように申し付け、お民はウラナイ教の支所・高城山で、松姫の用を足すようにと命じた。

浅公以下は、黒姫から、綾彦夫婦を連れて来た手柄の褒美として、酒を飲むことを許可され、宴会を開いている。一同は酔いに乗じて、今日の策略を大声で話していた。

綾彦とお民は、廊下からふと酒酔いの笑い声を耳にして、聞き耳を立てると、浅公らの企みをすべて聞いてしまった。二人は顔を見合わせ、ひそひそと何事かを囁きながら一睡もせずに夜を明かした。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年04月26日(旧03月30日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1923(大正12)年2月10日 愛善世界社版126頁 八幡書店版第3輯 684頁 修補版 校定版130頁 普及版57頁 初版 ページ備考
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本文  黄金の峰と聞えたる  弥仙の山の麓辺に
 此世を忍ぶ豊彦が  娘お玉の訝かしや
 去年の秋よりブクブクと  息も苦しく日に月に
 むかつき出した布袋腹  豊彦夫婦は日に夜に
 心を痛め木の花の  神に願を掛巻くも
 畏き神の夢の告げ  真名井ケ原に現れませる
 豊国姫の大神の  御許に綾彦お民をば
 一日も早く参らせよ  天地かぬる大神の
 貴の御霊の御心と  諭し給ふと見るうちに
 忽ち夢は破られて  雨戸を叩く雨の音
 秋の木の葉の凩に  吹かれて落つる騒がしさ
 夜も漸くに明けぬれば  兄の綾彦妻お民
 二人に命じて逸早く  時を移さず豊国姫の
 珍の命の御前に  参向せよと命ずれば
 正直一途の孝行者  親の言葉を大地より
 重しと仰ぎ夫婦連れ  草蛙脚絆の扮装に
 若草山を乗り越えて  空も真倉の谷径を
 進み進みて一本木  田辺、丸八江、由良の川
 息も切戸の文珠堂  天の橋立右に見て
 親の言葉に一言も  小言は互に岩淵や
 広野を過ぎて五箇の庄  比治山峠の峰続き
 比沼の真名井の神霊地  瑞の宝座に参拝し
 草の枕も数重ね  普甲峠の麓まで
 すたすた帰る二人連れ  忽ち暮るる秋の空
 黒雲低う塞がりて  心は暗に怖々と
 帰り来れる道の上  思はず躓く人の影
 忽ち五人の荒男  前後左右に立ち上り
 殺して呉れむと呶鳴りつつ  打つやら蹴るやら殴るやら
 綾彦お民は声限り  助けて呉れえと叫ぶ声
 聞くより忽ち暗がりに  現はれ出でた大男
 ウラナイ教の言霊に  悪者共を追ひ散らし
 綾彦お民を伴ひて  魔窟ケ原の岩窟に
 意気揚々と帰り行く  道に出会うた五人連れ
 手柄話の花咲かし  土産沢山黒姫が
 隠家指して帰り行く。
 浅、幾の両人は例の岩蓋を剥つて一行十人と共に滑り入る。
浅公『高山彦様、黒姫様、只今帰りました』
黒姫『ヤア、お前は浅公か、ヤ、幾公、梅公、えらう遅いぢやないか、何をして居つたのだい、何時までも日が暮れてから其処らをブラブラ歩いて居ると、大江山の鬼の眷族と間違へられるから、日が暮れたら直に帰つて来るのだよ、今日は又えらい遅い事ぢやないか、ヤ、今日は見馴ぬ方がお二人、これや又如何ぢや、えらう頭の髪も乱れて居る、何かこれには様子でもあるのかな』
幾公『これに就いて色々の苦心話が御座います、それが為に今日は吾々一同の者が遅くなりました、三五教の宣伝使数多の人民を迷はすに依つて、吾々は三五教の宣伝使を見つけ出し、天地の道理を説き聞かせ帰順させむものと普甲峠を降つて来ました。暗さは暗し、風はピユーピユーと吹いて来る、浪立ち騒ぐ海原は太鼓の様な音をたててイヤもう凄じい光景、忽ち騒がしい物音、何事ならむと吾々一同は耳をすまして聞き居れば「人殺し人殺し、助けて呉れえ」との嫌らしい声が聞えて来る、ア、これや大変だ、人を助けるのがウラナイ教の神の教、吾身は如何なつても構はぬ、仮令大江山の鬼の餌食にならうとも神に仕ふる吾々、此悲鳴を聞いて如何して捨てて帰れようか、人を助くるは宣伝使の役と、生命を的に声する方に窺ひ寄り見れば、案に違はぬ百人近くの鬼雲彦が眷族の者共、覆面頭巾の扮装、槍、薙刀に棍棒、刺股氷の刃、暗に閃かし十重二十重に取り囲み、中で二人の男女を捕へて四五人の男、打つ蹴る殴るの乱暴狼藉、大江山の砦に連れ帰りバラモン教の神の贄にせむとの企み、と覚つた吾々は矢も楯も堪らず、一生懸命熱湯の汗を絞り、ウラナイ教の大神様、何卒々々この旅人が生命を救はせ玉へ、吾々の生命はたとへ無くなつても、と幸魂を極端に発揮し暗祈黙祷すれば、アーラ不思議や吾身体に忽ち降り給ふ天津神国津神八百万の神等、日の出神を先頭に竜宮の乙姫、吾々三人が肉体に懸らせ給ひ、天地に轟く言霊の声、一二三四と皆まで言はずに、さしも強力無双の鬼雲彦が手下共、朝日に露の消ゆるが如く、魂奪はれ骨は砕けて生命惜しさに涙と共に頼み入る。思へば憎つくき奴なれど、彼等と雖も元は神の分霊、善を助け悪を許すは大神の慈悲、と心の裡に見直し宣り直せば、百に余る豪傑どもは、チウの声も能う立てず足音を忍ばせ乍ら、風の如く魔の如く水泡と消えてやみの中、そこで吾々八人は予ての計略、オツト、ドツコイ……計略を以て旅人を苦しめむと致す鬼共に、言霊の鉄鎚を加へ今後を戒め置き二人のこれなる夫婦を救ひ花々しく立ち帰つて候』
黒姫『ヤア、それは御苦労であつた、人間と云ふものは目前の時になれば神様がお使ひ下さるもの「腐り縄にも取りえ」と云ふ事がある、私もお前の様な穀潰しを沢山に養つて置いてつまらぬ者ぢや、棄かすにも棄かされず、大根の葉にねちが着いた様なものぢやと思つて居つたが、目前の時にそれ丈の神力が出れば万更捨てたものぢや無い。ヤ、御苦労だつた、サアサア一服して下され、然し乍ら丑、寅、辰外二人の男は今迄何をして居つたのだ、浅、幾の様にお前もチツと活動をせなくては神様に済むまいぞや』
寅公『吾々は御神前に於て……否無形の神殿に向つて祈願する折しも、忽ち吾々の天眼通に映じた普甲峠の突発事件。やれ可憐相な二人の旅人、神力を以て助けてやらむと心は千々に焦慮れども、何を云つても遠隔の地、アヽ仕方が無い、遠隔神霊注射法を実行せむかと思ふ折、又もや吾々が天眼に映じたのは浅、幾、梅の三人、これや良い霊代だと五人一度に三人の身体に神懸りし、群がる魔軍に向つて、言霊の神力は申すに及ばず、あらゆる霊力を尽して戦へば、敵は蜘蛛の子を散らすが如く、散り散りパツと花に嵐の当りし如く、霞となつて消え失せたりツ』
浅公『アハヽヽヽ』
黒姫『何は兎もあれ、藪医者が手柄をした様なものだ、篦で鬼の首とつたも同然、今日は離れの室で御神酒でも沢山頂いてグツスリと寝たが良い、コレコレ旅の方、神様の尊い事が分りましたかな』
綾、民『ハイ、何とも有難うて申し様が御座いませぬ、只もう此通り……』
と夫婦は両手を合せ黒姫の顔を伏し拝み、熱い涙をボロボロと零すのみである。
黒姫『お前は真に幸福な御夫婦ぢや、結構な御神徳を頂きなさつた、袖振り合ふも多生の縁、躓く石も縁の端と云うて、コンナ結構な神様の教の取次に助けて貰うとはよくよく深い昔からの果報が現はれたのぢやぞえ、私も何ぢやか始めて会うた人の様な気がせぬ、之からは総ての娑婆心を捨てて神界の為に千騎一騎の活動をしなされや、就いては夫婦ありては御用の出来ぬ神のお道ぢやから、お前は明日から夫婦別れて御用をするのだ、死ンで別るるのは辛いけれど、此世に生きて居れば矢張り同じウラナイの道に御用するのだから会ふ機会は幾らもある、お前は何と云ふ名だ』
『ハイ、綾彦と申します。妾はお民と申します』
黒姫『アヽさうか、綾彦は俺の側で御用をするなり、お民は矢張りウラナイ教の支所で高城山と云う処、そこには意地くねの………悪くない松姫が控へて居る、お民は松姫の側へ行つて御用をなさるのだ、御承知がゆけば明日から、幾公に送らしてあげよう』
お民『ハイ、如何なる事でも神様の御為めなれば否とは申しませぬ、然し何卒三四日許り一緒に置いて下さいますまいか、とつくり夫婦の者が相談を致し度う御座いますから……』
黒姫『アヽ其相談がいかぬのだ、人間心で取越苦労をしたつて何になるものか、何事も神様に絶対にお任せするのだ、夫婦別るるのが辛いかな、それはお若い身の上だから無理も無い、年寄りの私でさへも夫婦は無ければならぬ者ぢやと思うて居る位ぢや、然し年寄りは又例外ぢや、末が短いから……、若い者は何程でも会う機会が、長い月日には有るものぢや。あの木貂と云ふ奴は、夫婦仲の良いものぢやが決して夫婦は一緒に棲まひはせぬ、雄の方が東の山の木の洞に棲みて居れば、雌の方は屹度谷を隔てて、西の山の木の洞に棲居をし、西からと東からと互に見張をして居るさうぢや、若し雌の棲みて居る大木の麓へ猟師でも出て来たら、灯台元暗がり、近くに居る雌に気がつかいでも遠くから見て居る雄がチヤンと之を悟つて、電波を送つて雌に知らせ、雄に危険が迫つた時は又遠くから見て居る雌が電波を以て雄に知らせると云う事だ。その通りお前も両方に分かれて互に妻は夫を思ひ、夫は妻を思ひ、偶々会うた時のその嬉しさは何とも云へぬ味が出るぞえ、之だけ若い者ばかり沢山居るのだからお前の様な若夫婦を一緒において置くと、いろいろと若い者が修羅を燃やしてごてつき、お前も亦辛いであらうから、明日は直にお民は高城山へ行つて御用をして下さい』
『何事も神様にお任せした以上は、何卒貴女の思召の通りお使ひ下さいませ』
黒姫『ア、さうかさうか、結構結構、本当に聞訳の良い人ぢや、サアサ今晩は奥へ行つて寝みなされ、俺も大変草臥れたから今晩は之で寝みませう、然しこれこれお若いの、神様に手を合せお礼を申して寝みなされや、必ず必ず神様の祀つてある方に尻を向けたり足を向けてはなりませぬぞえ』
夫婦『ハイ有難う御座います、然らば寝まして頂きます』
と奥を目蒐けて両人は徐々進み行く。
黒姫『アーア、世の中は思ふ様にいかぬものだなア、今斯う云うて若夫婦に生木を裂く様な命令をしたが、思へば思へば可憐相な者だ。俺とても其通り、高山彦さまが二三日他所へ行つてお顔が見ええでも淋しくて仕方が無いのに、鴛鴦の様な仲の良い若夫婦が別れて御用するのは、私に比ぶれば幾層倍辛いだらう。ウラナイ教の双壁といはれた竜宮の乙姫の此生宮でさへも、高山彦さまを夫に持つたのが露見れてより、夏彦や常彦は直に飛び出し、それから後は毎日日日何とか、かとか云つて、岡餅を焼いて法界悋気の続出、コンナ事では折角築き上げたウラナイ教も崩解するかも知れない、何ほど一旦綱かけたらホーカイはやらぬと、色の黒き尉殿が鈴を振る様に矢釜しく云つても駄目だ、アヽいやいやいやオンハと、三番叟もどきに逃げて去ぬ奴が踵を接するのだから、法界悋気の深い連中の中へ、何ほど可憐相でも若夫婦を交へて置く事は出来ぬ。アーア若夫婦、必ず必ず黒姫は邪慳な奴ぢやと思うて呉れな、口先では強う云うては居るものの、涙もあれば血もある、アヽ可憐相だ、青春の血に燃ゆる二人の心、察しのない様な黒姫ぢや御座いませぬ』
と独語ちつつ同情の涙に暮れて居る。
 かかる所へ高山彦現はれ来り、
『ヤア黒姫か、夜も大分更けた様だ、もうお寝みになつたら如何です』
『ハイ、只今寝みます』
『お前に一つ相談がある、聞いて呉れまいか』
『之は又改まつたお言葉、相談とは何事で御座いますか』
『外でも無い、俺は一つ大に期する処があるのだ、之からフサの国へ一先づ立ち帰り、大に高姫さまの後援をして大々的活動を仕様と思ふ、お前は此処に居つて自転倒島を征服して下さい、明日からすぐ出立しようと思ふから…』
『エ、何と仰しやいます、夫婦は車の両輪、唇歯輔車の関係を保たねばなりませぬ、例へば男は左の手足、女は右の手足も同様、片手片足では大切な神業に奉仕する事は出来ますまい、ちつとお考へ直しを願ひます』
『黄貂、一名雷獣と云ふ獣は随分仲の良いものだが、夫婦は決して一緒に居ないものだ』
『エヽ措いて下され、妾の模像ばつかりやるのですな、ソンナ玩弄物の九寸五分を突きつけた様な同情ある恐喝手段にのる様な黒姫とは違ひますわいな、ヘン……いい加減に揶揄つて置きなさいよ、ホヽヽヽ』
『ヤア真剣だ、強つてお暇を願ひ度い』
『まつたくですか、ハヽア、宜しい、御勝手になさいませ、外に増花が出来たと見えます、もの云ふ花は此黒姫一人だと妾が心で自惚して居つたのは妾の不覚、薊の花に接吻をして来なさいよ』
『そう怒つて貰つては困るぢやないか、二つ目には妙な処へ論鋒を向けるのだな、昼演壇に立つて滔々と苦集滅道を説くお前の態度と今の態度とは丸で別人の様な、声の色まで変つて居るぢやないか』
『ヘンきまつた事ですよ』
と肩を高山彦の方へニユツと突き出し、首を斜にし目を細うし、
『野暮な事仰しやるな、こゑは思案の外ぢやないか、ホヽヽヽ』
と鰐口を無理におちよぼ口に仕様とつとめる。巾着を引き締めた様に縦の皺が一所に集中し、牛蒡の切り口の様に口の辺りが見えて居る。
 高山彦は、
『アヽもう寝まうか』
と黒姫の背中をポンと叩く。
『勝手に一人寝やしやンせいな』
と黒姫は、故意とピーンとした顔を見せ、向返つて背中を向ける。
『ハヽヽヽ、非常な逆鱗だ、どれどれ今晩は山の神さまに巨弾を撃たれて、只一人赤十字病院に収容されるのかな、アハヽヽヽ』
と寝室に帰り行く。黒姫は水鏡を灯火に照し顔の修繕をなし、羽ばたきし乍ら四辺を見まはし目を細うし、
『どれ夫の負傷を、女房としてお見舞申さねばなるまい』
と又もや一室にいそいそ走り行く。
    ○
 黒姫が許可を得て浅公、幾公、梅公、その他十数名の老壮連は御神酒頂戴の名の下に、「会うた時に笠脱げ」式にガブリガブリと酌いでは飲み酌いでは飲み、酔が廻るにつれ徳利の口から「火吹き竹飲み」を初め出しける。
甲『オイ、梅の大将、随分よく飲むぢやないか』
梅公『きまつた事だ、大蛇の子孫だもの、飲む事にかけたら天下一品だ、親譲りの山を呑み田を呑み家まで呑みて、酒の肴に親の脛を噛り、此奴手に負へぬ奴ぢや、七生(升)までの勘(燗)当ぢやと云つて放り出されたと云ふ阿哥兄さまだ。親爺が七升の燗をせいと云つた時は流石の俺も一寸弱つたね、朝九一合、昼九一合、晩九一合、夜中に九一合、夜明け前に九一合、マア一寸ゴシヨゴシヨ(五升)とやつた処で、それ以上は腹の虫が「梅公、あまりぢや、もう此上は六升だ、七升(七生)迄怨み升」と副守の奴でさへも弱音を吹いたのだからな』
甲『随分酒豪だな』
梅公『酒豪な守護神だ、然し之だけ、酒飲みの梅公も此頃はずつと改心して、滅多に飲みた事はあるまいがな、偉い者だらう』
浅公『アハヽヽヽ、飲み度いと云つたつて飲ます者がないものだから気の毒なものだ』
梅公『酒の酔い本性違はずだ、何程酔つた処で足がひよろつくの、頭が痛いの、眩暈が来るの、八百屋店を開業するのと云ふ様な不始末な事は、ちつとも、無いのだからな、それで今日の様な妙案奇策を捻り出すのだ、今晩斯うして貴様達が甘い酒に舌鼓を打つ様にしてやつたのは俺のお蔭ぢやないか、随分うまくいつたぢやないか』
寅公『あの暗がりに飲まぬ酒に酔うた気になつて、冷い土の上に横はり、向うから一歩々々近づいて来る足音、何処を踏まれるか分つたものぢやない、其時の心のせつなさ、腰をトウトウ土足で踏まれ、睾丸を踏まれた時の痛いの痛くないのつて一生懸命の放れ業だ、随分俺も骨を折つた、何ほど梅公が賢うても俺達が実行せなくては今夜の芝居は打てやしない、あまり威張つて貰うまいかい』
辰公『俺だつて臍の上をギユツと踏まれた時の苦しさ、早速ベランメー口調で業託を云はうと思つても満足に声も出やがらぬのだ、皆の奴、気が利かぬ者だから暗がり紛れに旅人だと思つて俺の頭と云はず背中と云はず、幾ら叩きよつたか分つたものぢやない、コオこれを見い、背中が青くなつて居るワ』
梅公『アハヽヽヽ、何ぬかしよるのだ、蛙ぢやあるまいし背中の青くなつたのが如何して分るかい、兎角芝居は幕開きはしたものの馬の脚や猪になる大根役者が、うまくやつて呉れるかと思つて随分気を揉みたよ、マアマア木戸銭取らずの奉納芝居だから、あれ位で観客も何とも云はぬが、下足賃でも徴つて見よ、それこそ一人も這入る者はありやせないぞ、然し寅公、辰公、鳶公、貴様等五人は如何しやがつたかと思つて心配して居つたら、何時の間にか先に行きよつて天眼通だの、何のと甘い事を云ひよつたね』
寅公『当意即妙、神謀奇略の智勇兼備の大将だ、知識の源泉たる吾々、何処に抜け目があるものかい、サアサ良い加減に寝まうぢやないか』
浅公『オヽ、寝みても宜からう、膝坊主でも抱いて寝エ、アーア、今晩の女は随分素敵な奴ぢやないか、アンナ良い女房を持つたハズバンドは随分に幸福だらうな、エー怪体の悪い、あれ程堅苦しい事云つて居た黒姫の大将は婿を持つ、やもめばつかりの俺達は指を啣へて、見て居るより仕方が無い、そこへ又うら若い綺麗な夫婦がやつて来やがつて、随分貴様達も気が揉める事だらう、アハヽヽヽ』
と酔ひに乗じて四辺構はず罵つて居る。綾彦、お民は黒姫の命に依り、一室に行つて寝に就かむと廊下を通る折、思はぬ酒の酔ひの笑ひ声、立ち聞きは不道徳とは知り乍らも、つひ気にかかりフツと耳を傾け聞いて居れば、どうやら自分の事らしい、二人は顔見合せ何事かひそひそ囁き乍ら一睡もせず其夜を明かしける。
(大正一一・四・二六 旧三・三〇 北村隆光録)
(昭和一〇・六・一 王仁校正)
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