高姫たち一行は、森林の兎の都の霊場に着いた。鷹依姫はあまねく獣の霊の済度に全力を尽くしていた。高姫は鷹依姫との久しぶりに面会し、嬉しさと懐かしさに涙を流した。
高姫一行四人、安彦一行四人、鷹依姫一行四人の合わせて十二の身魂は、天地に向かって七日七夜、間断なく神言を奏上し、すべての猛獣をことごとく言向け和した。肉体を離れた後は必ず天国に至り、神人となって再びこの地に生まれ来て神業の参加すべき約束を与えた。あらゆる猛獣たちは歓喜の涙にくれた。
猛悪な獣も、肉体の保存上やむを得ざるときに他の動物の命を奪うのみである。しかるに万物の霊長たる人間は、食物が満ち足りてもなお欲をたくましくし、他人を倒して自己の財を肥やし、わが子孫のために美田を買って他を憐み助ける意思のない者が大多数を占めている。
しかしながら神代は社会上の組織はもっとも簡単にして、物々交換の制度自然に行われていた。さまざまな珍しきものが通貨の代わりに使われて、一定の価格も定まっていなかった。それゆえに神代の人はもっとも寡欲であった。
大宜津姫神が現れて衣食住の贅沢が始まり、大山祇、野槌の神などが土地山野を区画して占領したとしても、現代ほど貧富の差もなく狭くもなく、安泰なものであった。
高姫、鷹依姫、竜国別は、神に許しを受けて、猛獣に対して律法を定めた。
肉食を廃すこと
時々代表者を兎の都に派遣して、最善の生活上の評議をなすこと
鰐によってモールバンド、エルバンドへの防備となし、また河の往来の用に任じること
鰐を獅子王の次の位とし、毎年月の大神の神前で鰐を主賓として懇談会を開き慰労すること
律法に違反した者は獅子王の命によって肉体は取り食らわれ、その子孫は永遠に獣類の身体を得て地上に棲息する神罰を与えられること
この律法を遵守し、月の大神の宮に詣でて赤誠を捧げた獣は、帰幽するとただちにその霊は天国に上り、人間として再び地上に生まれて来ることになった。
国治立大神は、神人のみならず禽獣虫魚に至るまでその霊に光を与え、いつまでも浅ましき獣の体を継続させることなく、救いの道を作り律法を守らせて、その霊を向上せしめ給うたのである。
それゆえ、禽獣虫魚が帰幽したその肉体は、ただちに屍化の法によって天に昇るのである。みな、神の恵みによってある期間種々の修行を積み、天上に昇って霊を向上せしめるのである。
これ天地の神の無限の仁慈が偏ることなく等しくすべての命に行き渡っていることの証拠である。禽獣虫魚としてのいやしい肉体をもってこの世にあるのは、人間に進む行程であることを思えば、いかなる小さな動物といえども、粗末に取り扱うことはできないことを悟らねばならない。
その精神に目覚めなければ、神の神国魂となり、神心となることは到底できない。また人間としての資格もない。
ただし、職業として漁師・猟師を営む者は宿世の因縁にして、天より特に許されたものである。しかるに遊猟・遊漁のごとき、自分の心を一時慰めるために禽獣虫魚の命を絶つことは、鬼畜にも勝る残酷な魔心といわねばならない。
人には各々、天より定められた職業に一意専心に努めて、士農工商ともに神業に参加することをもって、人生の本分とするものである。
たとえば神は、ツツガムシの発生を抑えるためにネズミを作り、ネズミの発生を抑えるために猫を造り給うたごとく、仕組まれているのである。
禽獣虫魚はすべて、引く息をもって音声を発するのに対して、神国人は吹く息をもって臍下丹田より喨喨たる声音を発するのである。また禽獣虫魚はすべて、その性質に見合った言霊を発することで動・止・進・退するものである。
言霊の真意活用を悟った真人は、天地を震撼し、風雨雷霆を叱咤し駆使し、山川草木を鎮定せしめ、安息を与えるという妙用を行いうるのである。
これより高姫、鷹依姫、竜国別たち一行は、月の大神の前に拝礼を終わり、猛獣たちに兎の王に仕えさせた。そしてアマゾン河のほとりに出て、モールバンドとエルバンドの一族に向かい、善言美詞の言霊を与えて彼らを悦服せしめた。
遂にモールバンドとエルバンドは言霊の妙用に感じて雲を起こし、竜体となって天に昇り、雨風を起こして地上に雨露を与え、清鮮の風を万遍なく与る神の使いとなった。しかしながらまだ悔い改めない怪獣類は森林、幽谷、海底、河底などに潜伏して、面白からぬ光陰を送っているものもあるのである。
古の怪しい獣は、今日よりも数も種類も多かった。しかし三五教の神の仁慈と言霊の妙用によっておいおい浄化し、人体となって生まれて来ることになったのであった。ゆえに霊の因縁性来等によって今日といえども、高下勝劣の違いを来すことになったのである。
しかしながらいずれもその根本は、天御中主大神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神の陰陽の水火より発生したものなれば、宇宙一切の森羅万象はみな同根にして、いずれも兄弟同様なのである。ただし、幽玄微妙なる霊魂の経緯によって区別ができるのである。
物質文明の学は泰西人によって先鞭をつけられたが、現今は霊魂学においても先鞭をつけられているのは主客相反する惨状と言わねばならない。邦人はいかなる深遠なる真理といえども泰西人の口と筆から出でなければこれを信じない悪癖がある。
この物語も、一度泰西諸国の哲人の耳目に通じ、再び訳されて輸入し来るまでは、邦人の多数はこれを信じないだろうと予想し、深く嘆く次第である。