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文献名1霊界物語 第37巻 舎身活躍 子の巻
文献名2第1篇 安閑喜楽よみ(新仮名遣い)あんかんきらく
文献名3第2章 葱節〔1014〕よみ(新仮名遣い)ねぶかぶし
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-10-16 14:26:47
あらすじ
青垣山を四方にめぐらした山陰道の喉首口、丹波の亀岡にほど近い曽我部村の大字穴太は、瑞月王仁の生地である。

この地に生を享けてほとんど二十七年は夢のごとくに過ぎ去り、二十八歳を迎えた明治三十一年如月の八日、浄瑠璃のけいこ友達と知己の家で葱節をどなっていた。

そのとき、宮相撲をとっていた若錦という男が数名の侠客を引き連れて演壇にのぼり、瑞月を担いで桑畑の中へ連れて行き、打つ、殴る、蹴るなどの暴行を加えた。

嘘勝ら瑞月の友人が喧嘩に入り込んで乱闘を始め、宮錦らを追い散らした。瑞月は割木で頭を殴られ、頭が重く、友人らに助けられて自分の精乳館に連れてこられた。

寝込んでいると母がやってきて夜具をまくり、昨晩の喧嘩のことが知られてしまった。母は、父が亡くなったせいで近所の者に侮られるのだと加害者を恨んでいたが、これを聞くと自分も気の毒になり、傷の痛みはどこかへ逃げてしまった。

実際には自分が侠客気取りで喧嘩の仲裁をして回ったり、弟が賭場に入っていたのを引き出したりことから、あたりで鳴らしていた侠客の親分・勘吉に睨まれたことが原因であった。

そうして侠客の娘・多田琴とわりない仲になり、琴の父・亀について侠客の道を学んでいた。亀は瑞月を自分の後継ぎにしようと考えていた。

自分は貧家に生まれて、強者が弱者に対する横暴を非常に不快に感じ、憤っていた。父が亡くなってからはその思いが吹き出し、侠客と命がけのやり取りをして彼らをへこませていたから、睨まれていた。

もしも神様の御用をしなかったら、三十四五までにたたき殺されていたかもしれないと思うと、神様の御恩がしみじみとありがたくなってきた。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月08日(旧08月18日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年3月3日 愛善世界社版23頁 八幡書店版第7輯 38頁 修補版 校定版24頁 普及版9頁 初版 ページ備考
OBC rm3702
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本文  西は半国東は愛宕  南妙見北帝釈の
 山の屏風を引きまはし  中の穴太で牛を飼ふ
 青垣山を四方に回らした山陰道の喉首口、丹波の亀岡に程近き、曽我部村の大字穴太は瑞月王仁が生地である。賤ケ伏屋に産声を上げてより殆ど廿七年夢の如くに過ぎ去り、廿八歳を迎へた明治卅一年の如月の八日、半円の月は皎々として天空に輝き渡り、地上には馥郁たる梅花の薫り、冷き風に送られて床しく、人の心も華やかに何となく春を迎へた気分に漂ふ。
 瑞月は其頃事業の閑暇に浄瑠璃を唸る事を以て唯一の楽みとして居た。浪華の地より下つて来た吾妻太夫といふ盲目の男の師匠に、終日の業を済ませ、三味は無けれども叩きにて節を仕込まれて居た。
 今宵は浄瑠璃の稽古友達の七八人、温習会を催すべく、大石某と云ふ知己の家で女義太夫を雇ひ来り、ベラベラ三味線をひかせ乍ら、葱節を得意気になつて呶鳴つて居た。下手の横好きとか云つて、最初の露払を勤めたのは瑞月で、鏡山又助館の段を、汗みどろになつて語り終り、其外二三人の天狗連の、竹筒を吹いた様な奴拍子のぬけた声の浄瑠璃が止むと、再び三月の菱餅を二つに切つた様な硬々した角立つたものを着せられ、破れ扇をたたいて唸つて居る。其時は太閤記の十段目光秀が『夕顔棚の此方より現はれ出でたる………』と云ふ正念場であつた。老若男女は小さき百姓家に縁の隅から庭は云ふに及ばず、遅れて来たものは門に立つて聞くと云ふ大盛況である。
 其時宮相撲をとつて居た若錦と云ふ男を先頭に、侠客の小牛、留公、与三公、茂一の五人連れ、矢庭に演壇に上り、有無を云はせず瑞月を担いで附近の桑畑の中へ連れ行き、打つ、蹴る、殴るの大乱痴気騒ぎを始めた。
 浄瑠璃友達で隣家の嘘勝と云ふデモ侠客が二三人の手下を引き連れ、二尺許りの割木を各自に持つて五人の仲に飛び込み格闘を始めた。喧嘩は何時の間にか一方へ転宅して了ひ、バラバラバラと喚きつつ東南の方へ逃げて行く。嘘勝の一隊は後を追つかける。
 其後へ二三の友人がやつて来て、瑞月を助けて牧畜場の精乳館と云ふ自分の館へ連れて帰つて呉れた。ひどく頭部を五つ六つ割木で殴られた結果、何とはなしに頭が重たくなり、うづき出し、耳はジヤンジヤンと早鐘をつく様に聞えて来た。時々火事の警鐘ではないかと、負傷した身体を擡げて戸を開き外を眺めた事もあつた。
 精乳館は牛乳を搾り附近の村落に販売するのが営業であつた。牛乳配達人は未明からやつて来て搾乳の量り渡しを待つて居る。瑞月は頭痛み目晦めき、搾乳どころの騒ぎではない。二十数頭の牧牛は空腹を訴へたり、乳の張り切る為め悲し相な声を出して一斉に呻り出した。其声が頭に響くと一層頭が割れる様な気分がする。それでも神様を祈らうとも思はねば、医者を呼び、薬を付け様とも飲まうとも思はない。只自分の心裡に往復して居るのは、今迄大切に思ふて居た営業はスツカリ忘れて了ひ、若錦一派の奴に対し、早く本復して仕返しの大喧嘩をやつてやらねばならぬと、そればかりを一縷の望みの綱として居た。門口の戸も裏口の戸も錠が卸してある。それ故配達人は這入る事も出来ぬ、已むを得ず宮垣内の母の宅へ走り、
『何故か門口が締つて居る、一寸来て下さい』
と云つて母を呼びに行つた。相手方の村上某が軈てやつて来る時分だから自分の昨夜の喧嘩で負傷した事を見られては余り面白くないと、負惜みを出して、頭を手拭で縛り目をふさいだ儘、慣れた道とて、自分の嘗て借つて置いた喜楽亭と云ふ郷神社の前の矮屋に隠れ頭から夜具を被つて息をこらして横つて居た。
 暫らくすると、門口から自分の名を呼び乍ら、慌しく母が這入つて来られた。瑞月は、
『こりや大変だ、昨夜の喧嘩が分つたのだらう、額口の傷を見られない様に……』
と夜具をグツスリ被り、足の膝から先は出る程縮んで、寝たふりをして居た。遠慮会釈もなく母は夜具をまくり上げ、
『お前は又喧嘩をしたのだなア。去年までは親爺サンが居られたので誰も指一本さえる者も無かつたが、俺が後家になつたと思ふて侮つて、家の伜を斯んな酷い目に会はしたのであらう。去年の冬から丁度之で九回目、中途に夫に別れる程不幸の者はない、又親のない子程可愛相なものは無い。弟の由松は、兄の讐討だとか云つて若錦の処へ押掛け、反対に頭をこつかれて、血を出して帰つて来て家に唸つて居る。兄は又此の通り、神も仏も此の世にはないものか』
と自分の子が悪いとは思はず、加害者を怨んで居られる。之を聞くと自分も気の毒で堪らなくなり、傷の痛みは何処へやら逃げ去つて了つた。
 実際の事を云へば自分は、今迄父がブラブラ病で二三年間苦しんで居たので、それが気に掛り、云ひ度い事も云はず、父に心配をさせまいと思ふて、人と喧嘩する様な事は成るべく避ける様にして居たから、村の人々にも若い連中にも、チツとも憎まれた事は無く、却て喜楽さん喜楽さんと云つて重宝がられ、可愛がられて居たのである。そうした処、明治三十年の夏、父は薬石効なく遂に帰幽したので、最早病身の父に心配さす事もなくなつた。破れ侠客が田舎で威張り散らし、良民を苦しめるのを見る度に、聞く度に、癪に触つて堪らない。頼まれもせぬのに、喧嘩の中へ飛び込んで仲裁をしたり、終には調子に乗つて、無頼漢を向ふへまはし喧嘩をするのを、一廉の手柄の様に思ふ様になつた。二三遍うまく喧嘩の仲裁をして味を占め、
『喧嘩の仲裁には喜楽さんに限る』
と村の者におだてられ、益々得意になつて、
『誰か面白い喧嘩をして呉れないか、又一つ仲裁して名を売つてやらう』
と下らぬ野心にかられて、チツと高い声で話して居る門を通つても、聞き耳立てる様になつて居たのである。
 其時、亀岡の余部と云ふ処に干支吉と云ふ侠客があり、其兄弟分として威張つて居た宿屋の息子の勘吉と云ふ男、身体も大きく背も高く、力も強く、宮相撲をとつて遠近に鳴らして居た。そして其父親は三哲と云つて、附近で名の売れた侠客であつた。其息子の勘吉が又もや非常に売り出し、村の者は大変に困つて居た。第一賭場を開いて毎日毎夜テラを取り、乾児の四五人も養ふて居つた。自分の弟も勘吉の賭場へ毎日毎夜出入し、自分の時計を売り衣類を売り、終ひには夜の間に数百円を投じた乳牛をひき出し、亀岡あたりで五六十円に投げ売りして、それを賭博の資とする。自分が意見をすると、勘吉親分を傘にきて梃にも棒にもおへない。村中の息子は鼠が餅をひく様に、今日も一人、明日も二人と云ふ調子で、勘吉の賭場に引込まれ、親達は非常に嘆いて居る。けれども勘吉の耳に這入つては如何な事をしられるか知れぬと思ひ、各自に小声で呟いて居るのみであつた。
 之を聞いた自分は腹が立つて堪らず、火事場に使ふ鳶口を担たげて、河内屋の勘吉が賭場へ只一人、夜の八時頃飛び込み、車坐になつて丁半を闘はして居た弟の帯に鳶口を引つかけ、二三間引摺り出した。そうすると親分の勘吉が巻舌になつて、
『男を売つた勘吉の賭場へ賭場荒しに来よつたのか、素人の貴様にこんな事しられて黙つて居つては男が立たぬ。……オイ与三公、留公、喜楽をのばして了へ』
と号令をかけて居る。自分は逃ぐるが奥の手と、尻を後へつき出し二つ三つポンポンとたたいたきり、一目散に牧場に逃げて帰つて来た。そして門の閂を堅く締めて、若しも戸を打破つて這入るが最後、打ちのばしてやらうと、椋の棒を持つて外の足音を考へて居た。
 其夜は何の事も無かつた。勘吉も口程にない奴だと安心して牧場に眠つて居ると、夜の十時頃、二三の乾児を連れて門口へやつて来た。そして、
『オイ喜楽、一寸用があるから外へ出て呉れ』
と呶鳴つて居る。流石に先方も、迂闊に這入つて鳶口でやられては堪らぬと思ふたか、門口に立つて誘ひ出してゐる。自分は故意とに作り鼾をして寝たふりをして居た。そして樫の棒を寝床の横に置いてあつた。暫らくすると女の声で、
『あんたハン、立派な侠客サンぢやおまへんか、たつた一人の、あんな弱々しい喜楽サンに喧嘩に来るなんて、男が下りまつせ、さアあんたハン、一杯桑酒屋へ飲みに行きまほ』
と勘吉の頬辺をピシヤピシヤたたいて居る音が聞えて来た。此女は中村の多田亀と云ふ老侠客の娘で、多田琴と云ふ女である。或機会から妙な仲となつて居つた。其琴が中村から遥々とやつて来て、門口で河内屋に出会ふたのである。流石の侠客も、横面をやさしい声で殴られてグニヤグニヤになり、五六丁下の吉川村の桑酒屋へ酒を飲みに行つて了つた。
 それから自分は多田琴の父親の多田亀に就いて侠客学問を研究し始めた。多田亀の云ふのには、
『侠客になつて名を挙げ様と思へば、頭を割られたり、腕の一本位とられなくては本物にならぬ。此方が生命を捨てる気になれば、何百人の敵も逃げるものだ。兎に角気転が第一だ』
と自分の娘の情夫と知り乍ら、碌でもない事を一生懸命に教へて呉れた。さうして多田亀の云ふのには、
『俺の乾児も大分沢山あるのだが、跡を継がす者がない。これからお前に仕込んでやるから、此乾児を捨てるのは惜いから、若親分になつたら如何だ。お米サン(瑞月の母)に相談して、お前サンを此方の養子に貰ふ積だ。此方も一人の娘をお前サンの自由にさして、黙つて居るのについては考へがあるのだ。よもや一時のテンゴに、俺の一人娘をなぶり者にしたのぢやあるまいなア』
と退引させぬ釘をさされた。
 父の居る中から、上田の跡は弟に継がして貰ひ度いと云つて頼んで居つた。両親は亀岡の或易者に卦を立てて貰ひ、
『此子は総領に生まれて居るけれども、親の屋敷に居つては若死をするから養子にやつたが良い』
といつたとかで、両親は已に自分の養子に行くのを承認して了つた。然し侠客の養子に遣らうとは思うて居なかつたのである。
 自分は幼時から貧家に生れ、弱者に対する強者の横暴を非常に不快に感じて居た。人間は少しく頭をあげて金でも貯めれば、如何な馬鹿でも賢う見られ、敬はれるが、少しく地平線下に落ちると、子供迄が寄つて集つて踏みつけ様とする。事大思想の盛んな田舎では尚更はげしいのである。何でも一つ衆に擢んでなければ頭があがらない、生存の価値がないと、幼時から思ひつめて居た。学問が無ければ官吏になる事も出来ず、軍人に成り度うても成れず、弱い者を助け、強い者を凹ます侠客になつた方が、一番名が挙がるだらうと下らぬ事を考へ、幡随院長兵衛のちよんがれを聞いて、明治の幡随院長兵衛は俺がなつてやらうかと迄思ふ事が屡々あつた。其平素の思ひと強者に虐げられた無念とが一つになつて、社会の弱者に対する同情心が、父の帰幽と共に突発し、生命懸けの侠客凹ませを企て、猪口才な奴と彼等が社会から睨まれて居たから、一年経たぬ中に九回迄も酷い目に会はされたのである。若しも神様の御用をせなかつたらば、自分は三十四五迄に叩き殺されて居るかも知れないと思ひ浮べて、神様の御恩がシミジミと有難くなつて来たのである。
 自分は母の言葉の如く、決して父が逝くなつた為めに侠客に苦しめられたのではない、つまり自分から招いた災である事を其時已に自覚し得たのである。
(大正一一・一〇・八 旧八・一八 北村隆光録)
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