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文献名1霊界物語 第40巻 舎身活躍 卯の巻
文献名2第2篇 寒梅照国よみ(新仮名遣い)かんばいしょうこく
文献名3第6章 仁愛の真相〔1090〕よみ(新仮名遣い)じんあいのしんそう
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-11-28 12:53:53
あらすじ
照国別は岩彦、照公、梅公を従えて西南の原野を跋渉し、ようやくライオン河の二三里手前のクルスの森に来て足を休め、神徳話にふけっていた。

五六七の神は万有一切の有相に現れて世人を救うと説く照国別に対し、照公は、まるで木の花姫神のようだと感想を漏らした。照国別は、木花姫神も五六七大神様の御活動であり、あらゆるものに変現して万有を済度したまうのが大神様の御真相であり、大和魂の根源だと答えた。

照国別は、大和魂とはすべての真・善・美を総合統一した身魂だと説き、仏教の菩提心だと説いた。真神は宇宙の本体、本霊、本力の合致した無限の勢力であり、仏は正覚者、大聖人、大偉人、大真人のことであると解説した。

さらに、大和魂は善の方に働く感情である慈悲心、理性、よき意志の三つが一致して大勇猛心を発揮したものであると説いた。

中でも、理性、知識、意志をよき方向に導くものとしての慈悲心がもっとも重要であり、三五教は慈悲心を柱にする感情教であるから、無抵抗主義もそこから出てくるのであると語り、そして敵を赦すことの重要性を説いた。

一同が神徳話にふけっていると、向こうから数十の騎馬隊がやってくるのが見えた。一同は茂みに身を隠した。彼らはライオン河を渡り、ウブスナ山のイソ館を襲おうと進撃する騎馬隊であった。

騎馬武者たちは森林に馬を乗り捨て、しばらく腰を下ろして雑談を始めた。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年11月01日(旧09月13日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年5月25日 愛善世界社版69頁 八幡書店版第7輯 444頁 修補版 校定版73頁 普及版34頁 初版 ページ備考
OBC rm4006
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本文  照国別は岩彦、照公、梅公を従へ清春山の岩窟を立出でて、西南の原野を跋渉しながら漸くにしてライオン河の二三里手前のクルスの森まで進み来り、爰に一行は足を休めながら神徳の話に時を移し、照、梅二人の問に答へむと身を起して厳かに至仁至愛の真相を歌ひ始めた。
 その歌、
『三千世界の救世主  五六七神の真実は
 大慈大悲の大聖者  垢なく染なく執着の
 心は卯の毛の露もなし  天人象馬の調御師ぞ
 道風徳香万有に  薫じ渡りて隈もなし
 智慧恬かに情恬か  慮凝いよいよ静なり
 意悪は滅し識亡じ  心は清く明かに
 永く夢妄の思想念  断じて水の如くなり。
    ○
 身は有に非ず無に非ず  因にもあらず縁ならず
 自他にもあらず方に非ず  短長に非ず円ならず
 出にも非ず没ならず  生滅ならず造ならず
 為作にあらず起に非ず  坐にしも非ず臥にあらず
 行住に非ず動ならず  閑静に非ず転に非ず
 進にも非ず退ならず  安危にあらず是にあらず
 非にしもあらず得失の  境地に迷ふ事もなし
 彼にしもあらず此にあらず  去来にあらず青にあらず
 赤白ならず黄ならず  紅色ならず紫にあらず
 種々色にもまた非ず  水晶御魂の精髄を
 具足し給ひし更生主  是ぞ弥勒の顕現し
 世界を照らす御真相  仰ぐもたかき大神の
 絶対無限の御神徳  蒙る神世こそ楽しけれ
    ○
 戒定慧解の神力は  知見の徳より生成し
 三昧六通は道品より  慈悲十方無畏より起る
 衆生は善業の因より出す  之を示して丈六紫金
 無限の暉を放散し  方整に照らし輝きて
 光明遠く明徹す  毫相月の形の如
 旋りて項に日光あり  旋髪色は紺青に
 項に肉髻湧出し  眼は浄く明鏡と
 輝き上下にまじろぎつ  眉毛の色は紺に舒び
 口頬端正唇舌は  丹華の如く赤く好く
 四十の歯並は白くして  珂雪の如く潔らけし
 額は広く鼻脩く  面門開けてその胸は
 万字を表はす師子の臆  手足は清く柔かく
 千輻の相を具へまし  腋と掌とに合縵ありて
 内外に握り臂脩く  肘も指も繊く長し
 皮膚細やかに軟かく  毛髪何れも右旋し
 踝膝露はに現はれて  陰馬の如くに蔵れたり
 細けき筋や銷の骨  鹿の膊腸の如くなり
 表裏映徹いと浄く  垢なく穢なく濁水に
 染まることなく塵受けず  三十三相八十種好
 至厳至聖の霊相なり  相や非相の色もなく
 万有一切有相の  眼力対絶なしにけり
 五六七は無相の相にして  而して有相の身に坐まし
 衆生の身相その如く  一切衆生の歓喜し礼し
 心を投じ敬ひを  表して事を成ぜしむ
 是ぞ即ち自高我慢  祓除されたる結果にて
 かくも尊き妙色の  躯をこそ成就し給ひぬ
 一切衆生悉く  その神徳に敬服し
 帰命し信仰したてまつり  無事泰平の神政を
 歓喜し祝ひ舞ひ狂ひ  千代も八千代も万代も
 栄ゆる神世を仰ぐなる  原動力の太柱
 仰ぐも畏き限りなり  三五教は神の道
 仏の道の区別なく  只々真理を楯となし
 世人を救ふ道なれば  神の教に表はれし
 弥勒の神の真実を  仏の唱ふる法により
 爰にあらあら述べておく  あゝ惟神々々
 御霊幸はひましまして  三五教の御教は
 古今を問はず東西を  区別せずして世の為に
 研き究めて神儒仏  その他の宗教の真諦を
 覚りて世の為人の為  誠を尽せ三五の
 教司はいふも更  信徒たちに至るまで
 あゝ惟神々々  御霊幸はひましませよ
 神素盞嗚大御神  厳の御前に願ぎ奉る』
照公『宣伝使様、今の歌は五六七大神様の御真相ぢやなくて木の花姫の神様の様ですなあ』
照国『木花姫の神様も矢張り五六七大神様の一部又は全部の御活動を遊ばすのだよ。又天照大御神と顕現遊ばすこともあり、棚機姫と現はれたり、或は木花咲耶姫と現はれたり、観自在天となつたり、観世音菩薩となつたり、或は蚊取別、蚊々虎、カール、丹州等と現はれ給ふ事もあり、素盞嗚尊となる事もあり、神様は申すに及ばず、人間にも獣にも、虫族にも、草木にも変現して万有を済度し給ふのが五六七大神様の御真相だ。要するに五六七大神は大和魂の根源神とも云ふべき神様だ』
『大和魂とはどんな精神を云ふのですか、神心ですか、仏心ですか』
『神心よりも仏心よりも、もつともつと立派な凡ての真、善、美を綜合統一した身魂を云ふのだ。これを細説する時は際限がないが大和魂と云ふのは、仏の道で云ふ菩提心と云ふ事だ』
『神と仏との区別は何処でつきますか』
『神と云ふのは宇宙の本体、本霊、本力の合致した無限の勢力を総称して真神と云ふのだ。仏と云ふのは正覚者と云ふ事で、要するに大聖人、大偉人、大真人の別称である』
『大和魂について大略を聞かして下さい』
『大和魂は仏の道で云ふ菩提心の事だ。此菩提心は三つの心が集つて出来たものだ。其第一は神心、仏心又は覚心と云つて善の方へ働く感情を云ふのだ。要するに慈悲心とか、同情心とか云ふものだ。第二は勝義心と云つて即ち理性である。理性に消極、積極、各種の階級のある事はもとよりである。理性の階級については到底一朝一夕に云ひ尽されるべきものでないから略する事として、第三は三摩地心と云ふのだ。三摩地心とは即ち意志と云ふ事である。尚よき感情とよき意志とよき理性と全然一致して不動金剛の大決心、大勇猛心を発したものが三摩地心であつて、以上三者を合一したものが菩提心となり大和魂ともなるのだ。何程理性が勝れてゐても知識に達してゐても、知識では一切の衆生を済度する事は出来ない。智識あるもの、学力ある者のみ之を解するもので、一般的に其身魂を救ふ事が出来ない。これに反して正覚心所謂神心、仏心は感情であるから、大慈悲心も起り、同情心もよく働く。此慈悲心、同情心は智者も学者も鳥獣に至るまで及ぼすことが出来る。これ位偉大なものはない。ウラル教は理智を主とし、バラモン教は理性を主とする教だ。それだから如何しても一般人を救ふ事は出来ないのだ。三五教は感情教であるから、一切万事無抵抗主義を採り、四海同胞博愛慈悲の旗幟を押立てて進むのであるから、草の片葉に至るまで其徳に懐かぬものはない。今日の如く武力と学力との盛んな世の中に慈悲心のみを以て道を拓いて行かうとするのは、何だか薄弱な頼りないものの様に思はるるが、決してさうではない。最後の勝利はよき感情即ち大慈悲心、同情心が艮をさすものだ。それだから清春山の岩窟に行つた時もバラモン教の悪人どもを赦したのだ。これから先へウラル教、バラモン教の連中と幾度衝突するか知れないが、決して手荒い事をしてはなりませぬぞ。どちらの教派も左手に経文を持ち、右手に剣を持つて武と教と相兼ねて居るから、余程胆力を据ゑて居らぬと、無事に此目的は達成しないのだ』
岩彦『おい梅彦、オツトドツコイ照国別様、随分醜の岩窟の探険時代とは変りましたね。言依別様のお側近くゐられたと見えて、実に立派なお話が出来るやうになりましたなア。序に一つお尋ね申したいのは、此岩彦が何時も心の中に往復してゐる疑問がある。それはバラモン宗と云つたり、時によつてはバラモン教と云つたり、或はバラモン蔵とか、乗だとか部だとか云ひますが、此区別はどう説いたら宜いのですか』
照国『教と云ふのも、宗と云ふのも、乗と云ふも、蔵と云ふも、部と云ふも、矢張り教と云ふ意味だ。如何云つても同じ事だ』
『いや有難う。それで諒解しました。然し乍ら仏教の教典を経文と云ひますが、其経文の経は教の教とは違ひますか』
『それは少しく意味が違ふ。経と云ふ字は、経糸と云ふ字だ。今迄の教は凡て経糸ばかりだ。緯糸がなければ完全な錦の機が織れない。それだから既成宗教はどうしても社会の役に立たない。経糸ばかりでは自由自在に応用する事が出来ぬ。三五教は国治立尊様の霊系が経糸となり、豊国姫尊様の霊系が緯糸となり経緯相揃うて完全無欠の教を開かれたのだから、如何しても此教でなくては社会の物事は埒があかない。要するに今迄の凡ての教は未成品だ、未成品と云つても宜い様なものだ。故に三五教では教典を経文ともコーランとも云はず、神諭と称へられてゐるのだ』
『やあ、それで胸の雲がサラリと晴れ渡つて、真如の日月が身辺に照り輝く様な気分となつて来ました。流石は照国別と云ふお名前を頂かれた丈あつて変つたものですな』
 斯く話す折しも、向ふの方より数十騎の人馬の物影、此方に向つて蹄の音勇ましく一目散に駆来るのであつた。照国別は三人に目配せし、木の茂みへ姿を隠し、乗馬隊の何者なるかを調べむと、息を凝らして窺ひゐる。先鋒に立つた馬上の将軍はバラモン教にて可なり名の聞えた片彦であつた。彼等の一隊は今やライオン河の激流を渡り、急速力を以てウブスナ山のイソ館へ進撃せむとする途中であつた。躰の疲れを休めむと四人が潜む此森林に馬を乗り捨て、暫し腰を卸して雑談に耽つてゐる。
(大正一一・一一・一 旧九・一三 北村隆光録)
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