お寅と魔我彦は、友が一刻も早く善道を悟り忠実な神の僕になるようにと親切にほだされて互いに顔を見合わせていた。
しかしお寅は昨日までくだらない情欲に捕われて黄金に目をくらましていたが、神の仁慈に照らされて霊肉ともに向上していた。一方魔我彦は悲嘆の淵に沈み、不安と不平の妖雲に包まれて震えおののいていた。
お寅は恵の雨は天から降るものだということを自覚した。魔我彦は自分の知恵や力や考察力の苦労の結果で、自分の身体から自由自在に雨を降らし得るものと考えていた。ここに神ながらと人ながらの区別がつくのである。
いかなる聖人君子、智者勇者といえども、天の御恵なくしては到底救われることはできない。頭に生えた髪の毛一筋も黒くし白くし得る力はない。この真理を理解して初めて宇宙の真相が悟り得られるのである。これが惟神であり、魔我彦が最善と思って採ったやり方は人ながらであって、神の目から見給うときは慢心とうことになるのである。
真の惟神的精神を理解ともいい、また改心ともいう。神は謙譲の徳を以て第一の道徳律と定め給う。
人間がこの世に生まれ来たり、美醜、強弱、貧富、貴賤の区別がつくのも決して人間業ではない。いずれも惟神のよさしのままに、それ相応の霊徳ともって地上に蒔き付けられたものである。
みな宿世の自ら生み出した因果律によってくるものなれば、各自はめいめいにその最善を尽くし、賤民は賤民として、貴人は貴人として、富者は富者として、貧者は貧者として本分を守るのが天地惟神の大道である。
このように上下が一致的にその本分を守るにおいては、神示にいわゆる升掛引きならして運否のない五六七の世が現出したのである。
瑞月がかくの如き説をなすときは、頑迷固陋の倫理学者、道徳学者は必ず異端邪説として排斥するであろう。しかしながら天地の真理の惟神の大道である以上は、如何ともすることができない。五六七仁慈の大神の心のままに説示しておく次第である。