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文献名1霊界物語 第47巻 舎身活躍 戌の巻
文献名2第3篇 天国巡覧よみ(新仮名遣い)てんごくじゅんらん
文献名3第15章 公義正道〔1248〕よみ(新仮名遣い)こうぎせいどう
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-04-27 19:58:48
あらすじ
最奥一の天国にある天人の想念と情動と言語とは、中間天国の天人たちには知覚できない。最奥一天国人はすべてにおいて、中天界より勝れて超絶しているからである。しかし大神の心にかなったときは、上天高くに火焔のような光彩として見ることができる。

天国を下に下るにしたがって、円満の度はいっそう低くなる。また各天国は、神から来る内流によって、また別の天国のために存在するのである。

高天原の形式がどのような情態に活動し、どのように流通するかは、天国の天人といえども会得することは難しい。しかし神の智慧に富んだ人が、人体の種々の事物の形態を検査して推して考えるときは、その大要を悟り得ることができる。

人間の各部を連結する神経線維、心臓肺臓胃腸、各臓腑、肢体筋肉が幽玄微妙に活動するさま、また想念によって働く知性と意性が不可思議に働くさまは、天界の形式と相応している。しかし自然界の科学によっては高天原の原則を十分に探求することはできない。

高天原に上中下があるように、天人の生涯にもまた三つの度がある。しかして下層の天界から上層の天界へは神格の内流はない。神の順序に逆らうからである。神は順序と讃え奉ってもよいものである。ゆえに、上天界から下天界に向かって内流がある。

高天原の天人は、その証覚にさまざまの程度があり、ゆえに統治の制度が布かれている。諸天人はどうしても順序を守らねばならぬ。

高天原の統治制度は正道という。正道は大神のみに属し、諸天人を導く。天人はこれを知覚し心中に記憶し感得することができる。天人は正道にしたがって大神の導き給うままに生息することをもって歓喜悦楽とする。

霊国の統治制度は公義という。霊国の諸天人は霊善にある。霊善は隣人に対する仁の徳である。各所属団体ごとに、証覚のある者が統治者となって律法を制定し事物を統制している。律法に疑問があれば、大神ご自身が下られて明白な解釈を与え給う。

天国霊国の各団体の統治者は決して尊大ぶることはなく謙譲の徳を充たし、その団体の福利と隣人のことを第一に置いて自己の福利を最後におく。統治者は非常な名誉と光栄を有しているが、それはまったく大神の御稜威であることを知っているから自然に徳がそなわるのである。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年01月09日(旧11月23日) 口述場所 筆録者加藤明子 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年10月6日 愛善世界社版213頁 八幡書店版第8輯 551頁 修補版 校定版222頁 普及版104頁 初版 ページ備考
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本文
 最奥一の天国に  在る天人の想念と
 其情動と言語とは  決して中間天国の
 天人共の知覚し得る  ものには非ず何故ならば
 最奥の天国人の一切は  中天界の事物より
 勝れて超絶すればなり  さはさりながら大神の
 心に叶ひし其時は  中天国の天人は
 上天高く仰ぎ見て  火焔の如き光彩を
 天空高く見るものぞ  又中天の天人の
 想念及び情動と  言語はさながら光明の
 如きものとし最下層の  天国人より見るを得む
 其光彩は輝きて  いろいろ雑多の色をなし
 或は雲と見ゆるあり  其雲及び光彩の
 上下の模様を初めとし  其形態に思索して
 ある程度迄上天に  於ける天人諸々の
 言説し居る状態を  遥に悟り得らるなり
 最高奥の天国は  いと円満に具足して
 神光輝きみち渡り  中天界に比ぶれば
 円満の度はいと高し  次に最下の天国に
 下るに及んで其度合  一層低きを加ふべし
 又甲天の形式は  神より来る内流に
 よりて全く乙天の  ために永久に存在す。
 高天原の形式を、其細目に亘つて了解する事や、又此形式が如何なる情態に活動し、如何に流通するかを会得するのは、現在天国にある天人と雖も能くし得ざる所である。これを譬ふるならば、最も聰明にして神の智慧に富んだ人が、人体に於ける種々の事物の形態を検査し、これより推して考へる時は、高天原の其形式に関して、或は其大要を悟り得る事が出来るであらう。高天原の全体の形式は、一個の人身に似て居る様である。又人身中に於ける万の事物は総て高天原の事物に相応するものである。故に高天原の形式が如何に人間として解し難く、又説明し難きかは、人間各部を連結する所の神経や繊維を見たならば、略察知する事が出来るであらう。是等の神経繊維は抑何物なるか、又如何にして脳髄中に活動し流行し居るかは、如何なる医学博士と雖も、肉眼を以て、或は顕微鏡をもつて見得るものではない。人間の頭脳中には無数の繊維があつて、交叉する様や其集まれる所より見れば、実に柔かき連絡した一つの固まりに似て居るけれど、意性及び智性よりする所の個々別々の活動は、皆此繊維によつて行はれて居る事は無論である。総て是等の繊維が肉体中にあつて、如何にして相結束し活躍するかは種々様々の中枢機関、例へば心臓肺臓胃腸、其他のものを見れば明かである。又医学上に於て、神経節と呼ばれて居る神経の束を見れば、数多の繊維が各其局部より来つて此処に集まり、茲に交雑し、又種々に連結したる後、再び此処を出で往き、外にあつて各其官能を全うするものである。而して斯の如きもの一再にして止まらない。又各臓腑や各肢体各筋肉にあつても此通りである。証覚者の目を以て是等の事物と其数多の不可思議とを考査する時は、唯々其幽玄微妙なる活動に驚嘆するの外はないのである。併しながら以上は肉眼にて見得る所のほんの僅少の部分的観察に過ぎないのである。其自然界の内面にかくれて、吾人の視覚の及ばない所にある物に至つては、更に一層の不可思議を包んで居るのである。以上の身体上の形式の、高天原の形式と相応すると云ふ事は、其形式の中にあり、之によつて働く所の智性と意性とが、万般に対し発作するを見ても明かである。人間が其意に決する所があれば、皆自らにして此形式の上に発作するからである。又人苟くも何事か思惟する所があれば、其想念は最初の発作点より末端に至つて神経繊維の上に環流せざるはなく、是よりして茲に感覚なるものがある。さうして此形式はやがて想念と意思との形式である故に、又智慧と証覚との形式なりと云つてもよいのである。故に天界の形式は、人体に於ける総ての諸官能の活動に相応するものなる事を知り得らるるのである。又天人の情動と想念とは悉く此形式に従つて、自ら延長するものなる事を知り、彼等天人はこの形式の内にある限り、智慧と証覚とに居るものなる事を知り得らるるのである。併しながら高天原の形式は、其大体の原則すら充分に探究すべからざる事を、自然界の科学万能主義者に知らさむために、人間の身体を例に引いて見たのである。
 高天原には三つの度ある如く、各天人の生涯にも亦、三つの度があつて、最高第一の天国及霊国にあるものは、第三度即ち最奥の度が開けて居り、中間の天界と最下の天界とは塞がり、又中間天界に居るものは、第二度のみ開けて、上天と下天とは塞がれ、又最下層の天界にあるものは第一度のみ開けて、中間天界と上天界とは塞がつて居るのである。故にもし上天国の天人にして中天国の団体を瞰下して、之と相語る事あらむには、上天人が有する第三度は忽ち塞がつて了ふのである。而して其閉塞と共に証覚迄も亡ぶのである。何故なれば、上天国の天人の証覚は、第三度に住し、第一及び第二の度に居らないからである。瑞の御霊の聖言に、
一、屋上にあるものは、其家のものを取らむとて下るなかれ。田に居るものは、其衣を取らむとて帰るなかれ。
一、其日には人屋上にあれば、其器具室にあるともこれを取らむとて下るなかれ。又田畑にあるものも帰るなかれ。
と示されたるは右の密意を示されたる言葉である。さうして下層の天界より、上層の天界へは神格の内流なるものがない。それは神の順序に逆らふからである。神は一名順序と讃へ奉つてもよいものである。故に上天界より下天界に向つては内流がある。さうして上天界の天人の証覚は下天界の天人に勝る事万と一とに比例するのである。是亦下天界の天人が上天界の天人と相語る事の出来ない理由である。仮令下天界の天人が仰ぎ望む事あるも、更に更に其姿を見る事を得ず、唯上天界は尚雲が頭上にかかつて居る如く見えるばかりである。これに反し上天界の天人は、下天界の天人を見る事が出来る。併し乍らこれと相語る事は出来ない。もしも下天界人と相語るやうな事があれば、忽ち其証覚を失ふものである。高天原に於ける諸々の団体中の天人は、善と真とに居る事何れも同様なれども、其証覚には様々の程度がある故に、必然の理由として高天原にも又統治の制度が布かれてある。諸天人は何うしても、其順序を守らねばならぬ。さうして順序に関する百般の事項は、どうしても破壊する事は出来ぬ。それから高天原の統治の制度は決して一様ではない。其団体々々に於ける個々の制度が布かれてある。瑞の御霊の大神の司り給ふ霊国即ち月の国を構成する団体にも亦一種の統治制度が布かれてある。各団体の職掌の異るにつれ、其制度にも亦不同あるは止むを得ない。併し高天原に於ては、相愛の制度を外にしては別に制度なるものはないのである。
 高天原に於ける統治制度を称して正道と云ふ。大神に対する愛善の徳に住して行ふ所を総て正道と云ふのである。この統治制度は唯大神のみに属するものであつて、大神が御自身に諸天界の天人を導き、又之に処世の事物を教へ給ふ公義上の理法とも云ふべき種々の真理に至りては、各天人中の心中に明かに記憶さるるをもつて、天人として之を識り又之を知覚し、又之を感得し得ないものはない。故に公義上の事件に就いては争議上の種とはならないけれども、正道上の事件即ち各天人が実践躬行上の事件のみは時々疑問となる事がある。斯の如き正道上の事件の起つた時には証覚の少きものより是を自己より勝れたる天人に正し、或は之を直接大神に教を請うて、其結着を定むるものである。故に天人は唯正道に従つて、大神の導き給ふが儘に生息するのをもつて自分等の天界となし、又極秘の歓喜悦楽とするのである。次に大神の霊国即ち月の御国に於ける制度を、公義と云ふ。霊国の諸天人は霊善に居るからである。霊善とは、隣人に対する仁の徳を云ふのである。さうして其実性は真である。而して真は即ち公義に属し、善は正道に属するものである。今茲に月の国と云つたのは、現在地球上の人間が見る月球の事ではない。神の神格によつて構成されたる霊的国土である。この国土に住める諸々の天人は亦大神の導き給ひ、統治め給ふ所なれども、直接ならざるが故に茲には統治者なるものが出来て居る。其統治者の多寡は、各其所属団体の必要によつて設けらるるものである。又茲には律法が制定せられて諸々の天人は之に従ひて群居して居るのである。統治者は其律法によつて数多の事物を統制するの任務に当つて居る。さうして、是等の天人は何れも証覚あるにより、その律法をよく解し、万一疑ふ所あれば、大神が下らせ給うて、之に明白なる解釈を与へ給ふ事になつて居る。天国即ち日の国にあるが如き、善によつて行はるる統治を正道と云ひ、霊国即ち月の国にあるやうな真によつて行はるる統治を公義と云ふのである。天国、霊国の各団体の統治者は現代に於ける各国の統治者の如く、決して自ら尊大振るものでない、却て卑下し且つ謙譲の徳を充たして居るものである。さうして其団体の福利と隣人の事を第一に置いて、自己の福利を最後におくものである。けれども其統治者は非常なる名誉と光栄とを有して居る。是等の統治者は自分に与へられたる光栄と名誉は全く大神の与へられたるものたる事を自覚し、他の天人が自分に服従するのは、これ全く大神の御稜威なる事を知つて居るから、自然に謙譲な徳が具はり尊大振らぬのである。
(大正一二・一・九 旧一一・一一・二三 加藤明子録)
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