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文献名1霊界物語 第48巻 舎身活躍 亥の巻
文献名2第3篇 愛善信真よみ(新仮名遣い)あいぜんしんしん
文献名3第12章 西王母〔1266〕よみ(新仮名遣い)せいおうぼ
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-05-27 12:18:40
あらすじ
高天原の大主宰神は大国常立尊である。またの御名は天之御中主大神と称え奉る。その霊徳が完全に発揮し給う御状態を称して天照皇大神と称え奉るのである。

この大神様は厳霊と申し奉る。厳という意義は、至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終にまします神という意義である。愛と信との源泉と現れます至聖至高の御神格である。

あるときには瑞霊と現れて、現界、幽界、神界の三方面に出没し、一切万有に永遠の生命を与えて歓喜悦楽を下し給う神様である。瑞という意義は、水々しということであって、至善至美至愛至真にましまし、かつ円満具足の大光明ということである。また霊力体の三大元に関して守護し給うゆえに三つの御魂と称え奉り、現・幽・神三界を守り給う。

神は宇宙にただ一柱ましますのみであるが、その御神格の情動によって万神と化現し給うものである。厳霊は経の御魂と申し上げ神格の本体とならせ給い、瑞霊は実地の活動力におわしまして御神格の目的(用)をなし給うべく現れ給う。ゆえに言霊学上、瑞霊を豊国主尊と申し奉り、また神素盞嗚尊とも称え奉るのである。

厳霊は高天原の太陽と現れ給うが、瑞霊は高天原の月と現れ給う。ミロクの大神を月の大神と申し上げる。ミロクは至仁至愛の意味である。その仁愛と信真によって宇宙の改造に直接当たらせ給うゆえに、漢字にて弥勒すなわち「いよいよ革む力」と書く。これによってこの神の御神業を知ることができる。

善悪不二、正邪一如ということも、自然界の法則を基礎としてはとうていその真相はわからない。これらの言葉は、自然界の人間が言うべき資格はない。ただ神の大慈大悲の御目より見給いて仰せられる言葉であって、その大愛に区別がないことを示しているのである。

人は自然界に身を置きながらも、霊主体従といって神を先にし愛の善と信の智を主として世に立たなければならない。しかし現代人はどうしても体を重んじ霊を軽んじて物質的欲念にかられて地獄に落ちやすい。

こうした現界の不備欠点を補うために、大神は自ら地に降りその神格によって精霊を充たし、予言者に天界の福音を宣伝せしめ給うにいたったのである。

人間は天人の養成器となり苗代となるべきもので、天人は人間の善徳が発達したものである。ゆえに人間は、現界の生を終えて天国に復活し、天国をますます円満ならしめるべく活動するために、大神の目的によって造られたのである。

大神の神格の内流は終極点である人間の肉体に来たり、そこに留まってその霊性を発達せしめ、しかして天国に復活し、ここに初めて天国各団体を構成するに至るものである。ゆえに人は天地経綸の司宰者といい、天地の花といい、神の生き宮と称えるゆえんである。

治国別と竜公は、言霊別命の案内によって第一天国に着いた。ここには得も言われぬ荘厳を極めた宮殿が立っている。これは日の大神の永久に鎮まります都率天の天国紫微宮であって、神道家のいう日の若宮である。

宮殿の前の広庭には天人が列をなして一行が来るのを歓喜をもって迎えていた。言霊別命はこの情景を指さして二人に示したが、二人はただ輝く光と天人の姿がかすかに見えるだけであった。

二人は言霊別命の後にしたがい、天人たちが歓迎する中、被面布をかぶって静かに進んで行った。言霊別命は門内に二人を待たせて奥に進んで行った。二人は園内の美しさに驚きに打たれて吐息をもらしている。

そこへ目もくらむばかりの光を放ち、ゆうゆうと入り来る天女があった。二人は思わず大地にしゃがみ敬礼を表した。この女神は西王母といって伊邪那美尊の御分身、坤の金神であった。

女神は言霊別命が奥殿から帰ってくるまで、二人に庭園を巡覧させようと桃畑に導いた。庭園は前園、中園、後園に区画されており、西王母は二人に桃園の説明をしながら案内した。

前園の桃は三千年に一度熟し、これを食う者は最高天国の天人の列に加えられる。中園の桃は六千年に一度実り、これを食う者は天地とともに長生きし不老不死の生命を続けることができる。後園の桃は九千年に一度実り、これを食う者は天地日月と共に生命を等しくする。

西王母はこの因縁の詳細を治国別に説いた。この密意は容易に発表することはできない。しかし桃は地上においては三月三日に花咲き、五月五日に熟するものであることは、この物語に示された。これによってこの桃にどんな御経綸があるかは推知できるであろう。

西王母はひとたび地上に降臨して黄錦の御衣を着し、数多のエンゼルと共にこれを地上の神権者にささげ給う時機があることは、現在流行の謡曲によっても推知することができるであろう。

西王母は桃園の案内を終わり、二人に別れを告げて神姿を隠し給うた。二人はその後ろ姿を伏し拝み、示された神界経綸の密意を覚り合掌して感涙にむせんだ。

そこへ、紫微宮の黄金の中門を開いて現れ来た美しい天女が五色の光輝に満ちた羽衣を来て現れ来たるその荘厳さとその円満の相は、二人にとっても天国巡覧以来初めてであった。

十二人の天女たちは無言のまま二人を差し招いた。今まで聞いたこともない微妙な音楽が四方から起こり、芳香馥郁として薫じ、二人は歓喜に充たされてかすかに天津祝詞を奏上しながら進んで行った。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年01月13日(旧11月27日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年10月25日 愛善世界社版175頁 八幡書店版第8輯 653頁 修補版 校定版182頁 普及版91頁 初版 ページ備考
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本文  高天原の総統神即ち大主宰神は大国常立尊である。又の御名は天之御中主大神と称へ奉り、其霊徳の完全に発揮し給ふ御状態を称して天照皇大神と称へ奉るのである。そして此大神様は厳霊と申し奉る。厳と云ふ意義は至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終に坐ます神の意義である。さうして愛と信との源泉と現れます至聖至高の御神格である。さうして或時には瑞霊と現はれ現界、幽界、神界の三方面に出没して一切万有に永遠の生命を与へ歓喜悦楽を下し給ふ神様である。瑞と云ふ意義は水々しと云ふ事であつて至善至美至愛至真に坐まし且円満具足の大光明と云ふ事になる。又霊力体の三大元に関聯して守護し給ふ故に三の御魂と称へ奉り、或は現界、幽界(地獄界)、神界の三界を守り給ふが故に三の御魂とも称へ奉るのである。要するに神は宇宙に只一柱坐ますのみなれども、其御神格の情動によつて万神と化現し給ふものである。さうして厳霊は経の御霊と申し上げ神格の本体とならせ給ひ、瑞霊は実地の活動力に在しまして御神格の目的即ち用を為し給ふべく現はれ給うたのである。故に言霊学上之を豊国主尊と申し奉り又神素盞嗚尊とも称へ奉るのである。さうして厳霊は高天原の太陽と現はれ給ひ、瑞霊は高天原の月と現はれ給ふ。故にミロクの大神を月の大神と申上ぐるのである。ミロクと云ふ意味は至仁至愛の意である。さうして其仁愛と信真によつて、宇宙の改造に直接当らせ給ふ故に、弥勒と漢字に書いて弥々革むる力とあるのを見ても、此神の御神業の如何なるかを知る事を得らるるのである。善悪不二、正邪一如と云ふ如きも、自然界の法則を基礎としては到底其真相は分るものでない。善悪不二、正邪一如の言葉は自然界の人間が云ふべき資格はない、只神の大慈大悲の御目より見給ひて仰せられる言葉であつて、神は善悪正邪の区別に依つて其大愛に厚き薄きの区別なき意味を善悪不二、正邪一如と仰せらるるのである。併しながら自然界の事物に就ても亦善悪混淆し美醜互に交はつて一切の万物が成育し、一切の順序が成立つのである。故に人は霊主体従と云つて自然界に身を置くとも、凡て何事も神を先にし、愛の善と信の智を主として世に立たねばならないのである。然るに霊的事物の何たるを見る事の出来ない様になつた現代人は、如何しても不可見の霊界を徹底的に信じ得ず、稍霊的観念を有するものと雖も、要するに暗中模索の域を脱する事が出来ない。それ故に人は何うしても体を重んじ、霊を軽んじ物質的欲念に駆られ易く地獄に落ち易きものである。かかる現界の不備欠点を補はむが為に大神は自ら地に降り其神格に依つて精霊を充し、予言者に向つて地上の蒼生に天界の福音を宣伝し給ふに至つたのである。凡て人間が現実界に生れて来たのは、云はば天人の胞衣の如きものである。さうして又天人の養成器となり苗代となり又霊子の温鳥となり、天人の苗を育つる農夫ともなり得ると共に、人間は天人其ものであり又在天国の天人は人間が善徳の発達したものである。さうして天人は愛善と信真に依つて永遠の生命を保持し得るものである。故に人間は現界の生を終へ天国に復活し、現界人と相似せる生涯を永遠に送り、天国の円満をして益々円満ならしむべく活動せしむる為に、大神の目的に依つて造りなされたものである。故に高天原に於ける天国及び霊国の天人は一人として人間より来らないものはない。大神様を除く外、一個の天人たりとも天国に於て生れたものはないのである。必ず神格の内流は終極点たる人間の肉体に来り、此処に留まつて其霊性を発達せしめ、而して後天国へ復活し、茲に初めて天国各団体を構成するに至るものである。故に人は天地経綸の司宰者と云ひ、又天地の花と云ひ、神の生宮と称ふる所以である。愚昧なる古今の宗教家や伝教者は概ね此理を弁へず、天人と云へば、元より天国に在つて特別の神の恩恵に依つて天国に生れたるものの如く考へ、又地獄にある悪鬼どもは元より地獄に発生せしものの如く考へ、其地獄の邪鬼が人間の堕落したる霊魂を制御し或は苦しむるものとのみ考へてゐたのである。之は大なる誤解であつて、数多の人間を迷はす事、実に大なりと云ふべしである。茲に於て神は時機を考へ、弥勒を世に降し、全天界の一切を其腹中に胎蔵せしめ、之を地上の万民に諭し、天国の福音を完全に詳細に示させ給ふ仁慈の御代が到来したのである。されど大神は予言者の想念中に入り給ひ、其記憶を基礎として伝へ給ふが故に、日本人の肉体に降り給ふ時は即ち日本の言葉を以て現はし給ふものである。科学的頭脳に魅せられたる現代の学者又は小賢しき人間は「神は全智全能なるべきものだ。然るに何故に各国の民に分り易く、地上到る所の言語を用ひて示し給はざるや」と云つて批判を試み、神の遣はしたる予言者の言を以て怪乱狂妄と罵り、或は無学者の言とか或は不徹底の言説とか何とかケチをつけたがる盲が多いのは、神の予言者も大に迷惑を感ずる所である。
 高天原と天界は至大なる一形式を備へたる一個人である。さうして高天原に構成されたる天国の各団体は之に次げる所の大なる形式を備へたる一個人の様なものである。さうして天人は又其至小なる一個人である。人間も亦天界の模型であり、小天地である事は屡述べた所である。神は此一個人なる高天原の頭脳となつて其中に住し給ひ、万有一切を統御し給ふ故に、又地獄界も統御し給ふは自然の道理である。人間も亦其形体中に天国の小団体たる諸官能を備へ種々の機関を蔵し、而して天国地獄を包含してゐるものである。
 扨て高天原の如き極めて円満具足せる形式を有するものには、各分体に全般の面影があり又全般に各分体の面影がある。其理由は高天原は一個の結社の様なものであつて、其一切の所有を衆と共に相分ち、衆は又一切の其所有を結社より受領して生涯を送る故である。かくの如く天界の天人は一切の天的事物の受領者なるによつて、彼は又一個の天界の極めて小なるものとなすのである。現界の人間と雖も、其身の中に高天原の善を摂受する限り、天人の如き受領者ともなり、一個の天界ともなり、又一個の天人ともなるのである。
 治国別、竜公両人は言霊別命の案内によつて第一天国の或個所に漸く着いた。此処には得も云はれぬ荘厳を極めた宮殿が立つてゐる。これは日の大神の永久に鎮まります都率天の天国紫微宮であつて、神道家の所謂日の若宮である。智慧と証覚と愛の善と信の真に充されたる数多の天人は此宮殿の前の広庭に列をなし、言霊別一行の上り来るを歓喜の情を以て迎へて居たのである。言霊別命は遥か此方より此光景を指さし、
『治国別様、あの前に金色燦然として輝いてゐるのは、エルサレムで厶ります。さうしてあの通り巨大なる石垣を以て造り固められ、数百キユーピツトの城壁を囲らしてあるのを御覧なさいませ』
『ハイ、有難う厶ります、如何したものか吾々は円満の度が欠けて居りまするために、エルサレムは何処だか、石垣は何処にあるか、城壁の高さも分りませぬ。只私の目に映ずるのは赫灼たる光と天人の姿が幽かに見ゆるばかりです。さうしてエルサレムとか仰有りましたが、それは小亜細亜の土耳古にある聖地では厶りませぬか』
『エルサレムの宮とは大神様の御教を伝ふる聖場の意味であります。又高き処の意味であつて即ち最高天界の中心を云ふのです。石垣と申すのは即ち虚偽と罪悪との襲来を防ぐ為の神真其ものであります。度と申すのは性相其ものであつて、聖言に云ふ、人とは凡ての真と善徳とを悉く具有するものの謂であります。即ち人間の内分に天界を有するものを人と云ひ、天界を有せないものを人獣と云ふのです。ここには決して人なる天人はあつても現界の如き人獣は居りませぬ。然し私が今人獣と云つたのは霊的方面から云つたのです。凡て神の坐します聖場及び其御教を伝ふる聖場を指して貴の都と云ひ、或はエルサレムの宮と云ふのです』
『さう致しますと、現界に於けるウブスナ山の斎苑館を始め、黄金山、霊鷲山、綾の聖地及び天教山、地教山、万寿山其他の聖地は凡て天国であり、エルサレムの宮と云ふのですか』
『さうです、実に神格によつて円満なる団体の作られたものは凡てエルサレムとも云ひ、地上に於ては地の高天原と称ふべきものです。地上の世界は要するに高天原の移写ですから、地上にある中に高天原の団体に籍をおいておかなくては、霊相応の道理順序に背いては、死後天国の生涯を送る事は出来ませぬ。サア之より最奥天国の中心点、大神の御舎に御案内致しませう』
と先に立つて歩み出した。二人は足の裏がこそばゆい様な気分に打たれ、いと恥かし気に従ひ行く。路傍に堵列せる数多の天人は『ウオーウオー』と手を拍つて叫び、愛善の意の表示をなしてゐる。二人は言霊別命の背後に従ひ、被面布を冠りながら心落ち着き、静々と日の若宮の表門を潜り入る。
 言霊別命は二人を門内に待たせ置き悠々として奥深く入り給うた。二人は門内に佇み園内に繁茂せる果樹の美しきを眺めやり、舌うちしながら頭を傾け『アーア』と驚きに打たれ吐息を洩らしてゐる。暫くすると庭園の一方より目も眩むばかりの光を放ち悠々と入り来り給ふ妙齢の天女があつた。二人は思はずハツと大地に踞み敬礼を表した。此女神は西王母と云つて伊邪那美尊の御分身、坤の金神であつた。西王母と云ふも同身異名である。女神は二人の手をとりながら言霊別命の奥殿より帰り来る間、庭園を巡覧させむと桃畑に導き給うた。二人は恐る恐る手を曳かれながら芳しき桃樹の園に導かれ行く。此処には三千株の桃の樹が行儀よく繁茂してゐる。さうして前園、中園、後園と区劃され、前園には一千株の桃樹があつて美はしき花が咲き且一方には美はしき実を結んだのも尠なくはない。此前園の桃園は花も小さく又其実も小さい。さうして三千年に一度花咲き熟して、之を食ふものは最高天国の天人の列に加へらるるものである。さうして此桃の実は余程神の御心に叶つたものでなければ与へられないものである。西王母は二人に一々此桃の実の説明をしながら中園に足を踏み入れた。ここにも亦一千株の桃の樹があり、美はしき八重の花が咲き充ち又甘さうな実がなつて居る。之は六千年に一度花咲き実り、之を食ふものは天地と共に長生し、如何なる場合にも不老不死の生命を続けると云ふ美はしき果物である。西王母は又もや詳細に桃畑の因縁を説き諭し、終つて後園に足を入れ給うた。此処にも亦一千株の桃樹が行儀よく立ち並び、大いなる花が咲き匂ひ、実も非常に大きなのが枝も折れむばかりに実つてゐる。此桃の樹は九千年に一度花咲き実り、之を食ふものは天地日月と共に生命を等しうすると云ふ重宝至極な神果である。西王母は此因縁を最も詳細に治国別に諭し給うた。然し此桃の密意については容易に発表を許されない、然しながら桃は三月三日に地上に於ては花咲き、五月五日に完全に熟するものなる事は、此物語に於て示されたる所である。之によつて此桃に如何なる御経綸のあるかは略推知し得らるるであらう。西王母は一度地上に降臨して黄錦の御衣を着し、数多のエンゼルと共に之を地上の神権者に献げ給ふ時機ある事は、現在流行する謡曲によつても略推知さるるであらう。
 却説、西王母は桃園の案内を終り、二人の手を引きながら元の門口に送り来り、
『治国別殿、竜公殿、之にてお別れ申す』
と云ふより早く桃園内に神姿を隠し給うた。二人は其後姿を伏し拝み、王母が説明によつて神界経綸の深遠微妙なる密意を悟り、思はず合掌して感涙に咽びつつあつた。
 かかる所へ紫微宮の黄金の中門を開いて現はれ来る美はしき天女、五色の光輝に充ちた羽衣を着しながら出で来る其荘厳さ、天国の天人は何れも美はしく円満の相を具備すれども、未だ嘗て斯の如き円満なる妙相を備へたる神人を見るのは二人とも天国巡覧以来初めてであつた。
 因に羽衣とは決して謡曲にある如き中空を翔ける空想的のものでない。最も美はしき袖は手より数尺長く、裾は一二丈も後に垂れてゐる神衣の事である。
 扨て十二人の天女は、無言の儘二人を指し招き、前に六人、後に六人、二人を守りながら黄金の中門を潜つて迎へ入れるのであつた。此時今まで聞いた事もない様な微妙な音楽四方より起り、芳香馥郁として薫じ、二人は吾身の何処にあるやも忘るるばかり歓喜に充されながら、微の声にて天津祝詞を奏上しつつ欣々として進み入る。
(大正一二・一・一三 旧一一・一一・二七 北村隆光録)
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