本巻物語の主人公である初稚姫および高姫の霊魂上に位置およびその情態を略叙して参考に供することとする。
初稚姫は清浄無垢の妙齢の娘である。現代のごとく学校教育を受けたのではない。幼少より母を失い、父と共に各地の霊山霊場に参拝し、あるいは神霊に感じて、三五教の宣伝使と共に種々の神的苦行を経たため、霊魂の光が光輝を増し、黄金時代の天的天人の域に向上していた。
宣伝使としても地上の天人としても実に優秀な神格者であった。ゆえに初稚姫は大神の許しあるときは、一声天地を震撼し、風水火の災いをも自由に鎮停しうる神力を備えていた。
初稚姫は身に備わった愛善の徳により容易に神力を表すことを好まなかった。姫の精霊は大神の直接神格の内流に充たされ、霊肉共に一見して凡人ならざることがうかがわれるのであった。
それゆえ八岐大蛇の跋扈する月の国へただ一人出征しても、神を親とし主人とし、愛善の徳と信真の徳を杖となし糧となして恐れるものもなかった。
目に触れるもの身に接近するものことごとく親しき友となし、これらの同士となって和合帰順悦服の神力を発揮しつつ進むことを得たのである。かつまた理性的にしてものに偏せず、中庸の真理も超越していた。理性は、神愛と神真が和合した円満な情動によって獲得されるのである。
さて、真理には三つの階級がある。人間はこの三階級の真理に居らなければ、神人合一の境に入ることは不可能である。
低級の真理とは、法律・政治の大本を過たずによく現界に処し最善を尽くすことである。中程の真理は、君臣・夫婦・父子・兄弟・朋友・社会に対して五倫五常の完全な実を挙げることである。
しかしいかにこれらの真理を解し説き、説示するといえども、実践しない者はいわゆる偽善者であり、無知の者にもかえって劣ると霊界では定められている。
最高の真理とは、愛善と信真に居り、大神の直接内流を受け、神と和合し外的観念を去り、万事内的に住し得るものをいうのである。
これに照らせば、現代の人間が理性的とか理知的とか言っている言説や著書も、ひとつとして理性的なものはないのである。
不完全な自然界の知識に立脚し、地獄界より来る自愛や世間愛に基づく偽りの知識によって薫陶されたものであるので、彼らは精霊界に至れば生前の虚偽的知識や学問を全部剥奪され、残るは恐怖と悲哀と暗黒のみである。
霊的および神的生涯の準備がなければ、精霊界に至った時にかえって無知な人間にも数等劣ってしまう。むしろ、現界において無知なる者は、おぼろげながらも霊界を信じかつ恐れるがゆえに、驕慢の心無く心中常に従順の徳に居る。そのような者は、霊界に入りし後は神の光明に浴し、神の愛を受けるものである。
現界においては、到底その人間の真相はわからに。初稚姫のように肉体そのままで天人の列に加わった神人であれば、その人の面貌・言語・動作に触れてその生涯と人格を洞察し得るのである。
しかし現代人は肉体の表衣に包まれてその真相を悟ることはできない。偽善者を見じゃとみなし聖人とみなして賞揚する例は沢山にある。
瑞月はかつて高熊山の修業のおり、神の許しを得て霊界を見聞した時、過去の智者賢者、英諭豪傑と言われる古人の精霊に会い、その情態を見聞して以外の感に打たれたことがしばしばあった。彼らは自愛と世間愛に惑溺し、自尊心強く神の存在を認めざりしため、霊界にあっては実に弱き者、貧しき者、賤しき者として遇せられていたのである。
現代の政治家・智者学者と唱えられる人たちに対しても、これを思えば実に憐憫の情に耐えないのである。かれら憐れな地獄の住人を救い上げようと焦慮しても、彼らの売文が神に向かって閉ざされ、地獄に向かって開かれているため、これを光明に導くのは容易な業ではない。
初稚姫の神霊はふたたび大神の意志を奉戴し、地上に降臨して大予言者となって綾の聖地に現れ、その純朴無垢なる記憶と想念を通じて、天来の福音をあるいは筆に、あるいは口に伝達し、地上を五六七の天国に順化せしめんと計らせ給うこと、三十年に及んだ。
されど頑迷不霊の人間はこれを恐れ忌むことはなはだしく、これを嫉視し憎悪していた。このような有様においては、百の天人は大神の命を奉じていかなる快挙に出で給うやもはかり難いのである。
次に高姫の霊界上の地位について少しく述べる必要がある。宇宙には天界、精霊界、地獄界の三界がある。精霊界は霊界と現界の中間に介在している。
まず、精霊界には自然的・肉体的精霊なるものが団体を作り、現界人を邪道に導こうとしていることを知らなければならない。肉体的精霊にはいろいろな種類があり、天狗、狐狸、大蛇、妖魅など暗黒な現界に跋扈跳梁している。
これらは地獄界でもなく、一種の妖魅界または兇党界と称し、人間にたとえれば浮浪の徒である。かれらは山の入り口、川の堤、池の岸、墓場の付近などに群居している。暗迷にして頑固な妄想家のすきを窺い、その欲望に付け入って入ってくるのである。
肉体的精霊は人間の想念と和合せず、体中に侵入し来たり、その諸感覚を占有し、口舌を用いて語り、手足をもって動作する。その精霊は憑依した人間をすべて吾が物と思っている。
あるときは人間の記憶と想念に入って大神と自称し予言者をまねる。その人間はついに自らを真の予言者と信じるに至ってしまう。されどこうした精霊は少しの先見の明なく、一息先のことも探知しえない。
このような精霊に憑依された人間が、たとえば開祖の神諭を読みふけり、記憶し想念中に蓄え置くとき、侵入してきた悪霊はこれを基礎として種々の予言的言辞を弄し、頑迷無知な世人を籠絡して邪道に引き入れようとするものである。
悪霊の矛盾に気が付いて反抗的態度に出ても、悪霊に説伏されたり肉体上の苦痛を与えられたりしてついに悪霊に感服するに至ると、もはやどうすることもできなくなる。いかなる神の説示も認めることはできなくなり、自ら天下唯一の予言者であるなどと狂的態度に出ることになる。
この物語の主人公たる高姫はこの好適例である。ゆえに高姫は、自己の記憶と想念と憑霊の言葉のほかには一切を否定し、数多の人間を熱狂的に吾が説に悦服せしめようと焦慮するのである。
高姫はいったん改心の境に入ったように見えたが、ふたたびつきまとえる兇霊は肉体の隙を見澄まして侵入し来たり、大狂態を演じるに至ったのである。
兇霊が憑依した偽予言者に魅入られた人間は、いかなる善人であっても相当に思索力を有する人物でも、その術中に巻きこまれてしまう。いったん迷わされた人間は容易に目が醒めるものではない。
されど神はあくまでも至仁至愛にましますゆえに、弥勒胎蔵の神鍵をもって宝庫を開き、天国の光明である智慧証覚を授け、愛善の徳に包んで救い上げ、一人でも多く天国の生涯を送らせようとなし給い、予言者に聖霊を充たして天国の福音を伝えさせることになったのである。
祠の森に杢助を名乗って現れた妖怪は、兇悪な自然的精霊にして高姫の心性に相似していたために互いに相慕い求め、狂態を演出して神業の妨害をなした。ついには神律に照らされて根底の国に投げおろされるまで、その暴動をやめないものである。