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文献名1霊界物語 第68巻 山河草木 未の巻
文献名2第1篇 名花移植よみ(新仮名遣い)めいかいしょく
文献名3第2章 恋盗詞〔1726〕よみ(新仮名遣い)こいどうし
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ
スダルマン太子は、城に帰ってより、スバール姫への激しい恋の思いに囚われていた。

アリナは太子の命を奉じ、密かにスバール姫を都へ迎えようと、再びタニグク山へとやってきた。

明け方、谷川の下流の森でシャカンナのかつての部下、山賊のハンナとタンヤが恋愛論を語り合っているのを立ち聞きする。

ハンナ:恋愛至上主義者。「恋愛なるものはあまりに神聖すぎて、かれこれと論議する事さえも出来ない」恋愛は「一種の感激」「人間乃至人生に対する、大きな自然に対する溜息」

タンヤ:倫理道徳主義者。「倫理の点を考慮して初めて神聖な恋愛とも言える」

タンヤとハンナは盗賊の相談を始める。二人はスバール姫をかどわかそうと決意し、シャカンナの隠れ家のほうへ進んでゆく。

アリナは親娘の危難を救おうと密かに二人の後をつけるが、追いつけずに見失ってしまう。
主な人物 舞台 口述日1925(大正14)年01月28日(旧01月5日) 口述場所月光閣 筆録者加藤明子 校正日 校正場所 初版発行日1926(大正15)年9月30日 愛善世界社版27頁 八幡書店版第12輯 159頁 修補版 校定版27頁 普及版69頁 初版 ページ備考
OBC rm6802
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本文  政治学の研究や、新思想の探究に没頭し、タラハン国上下の現状を痛歎の余り心身疲労し、さしも明敏なりし頭脳も霞を隔てて山を見るが如く、朦朧として鮮明を欠ぎ外の見る目よりは、憂鬱病者かと疑はるる迄に煩悶苦悩の結果殿内深く閉ぢ籠もつて、父王の頑迷固陋なる骨董品的教訓を嫌ひ、又老臣共の時代後れの古風の頭より絞り出した、種々の忠告にも耳を借かず、左守の司の悴アリナを唯一の慰安者となし、己が思想の伴侶となし鬱陶しき日を送つて居たスダルマン太子は、偶々山野の遊びに山深く迷ひ込み、不思議にも、山奥に咲き匂ふ姫百合の花に恋の炎を燃やし、心を後に万斛の涙を心中深く湛え乍ら、アリナと共にタラハン城内へ帰つて来た。
 女と云ふものに対しては初心の太子、恋愛と云ふものに対しても尚更初心の太子、美の神の権化とも見るべき清浄無垢の乙女が、人間界をかけ離れた、浅倉谷の山奥に包まれて居た其容姿に憧憬し、数年来の沈鬱性は一変して、危いかな尊貴の身を保ち乍ら、暗雲飛び乗りの離れ業を演ぜむとし、山霊水伯の精になつた美人の相を、自らが得意の絵筆に描いて床の間にかけ、朝な夕な画像に向つて生きたる人に云ふ如く、何事か独語するに至つた。この画像こそ人間の命取り、男殺しの大魔者である。太子の煩悶は以前に百倍し、立つても居ても居られないやうな様子となつて来た。太子の御心ならば、仮令地獄のドン底でも、一つよりない命でも無雑作におつぽり出すと云ふ忠臣にして、唯一の太子の伴侶たる左守の悴アリナは、夜窃に命を奉じ、山奥の名玉、月の顔容、花の姿、温かき雪の肌に包まれた、天津乙女の化身を山奥より引きずり出し、秘に太子の御心を慰めむものと草鞋脚絆に身を固め、服装も軽き蓑笠の夜露を浴びて、主を思ふ心の一筋途、一筋縄では行かぬ左守のシャカンナを、夏の炎天に地上万物を霑す夕立の雨のふるなの弁を振ひ、邪が非でも、縦でも横でも頑固爺を納得させ、肝腎の玉を抱いて帰らねばおかぬと雄健びしながら、タニグク山の山口、玉の川の下流、岩瀬の深森に着いた。夜はほんのりと明け放れむとする時、路傍の岩に腰打ちかけ、二つの黒い影が何だか囁き合つて居る。谷川の岩にせかるる水音に遮られつつ、しかと言葉の筋は解らない。アリナは、谷道に直立して、頭を傾け思ふやう、……もはや夜明に間もない暁の空に二人の男が囁き、合点のゆかぬ事だ哩、噂に聞く左守のシャカンナが一ケ月以前迄抱えて居た山賊の片割ではあるまいか。何は兎もあれ足音を忍ばせ、様子を伺ひ見む……と息を凝らして進みよつた。二つの影は傍に人の寄り添ひ居るとは知らず、盛んにメートルをあげて居る。
ハンナ『オイ君、此間天帝の化身とか云ふ山子坊主が連れて来たダリヤ姫とか云ふ美人のことを思ひ出すと、俺のやうな恋愛観念の濃厚な色男に取つては、実に感慨無量だ。君だつて平素の偽善的言辞も兜を脱いで俺の持論に賛意を表したく成るだらう』
タンヤ『堂々たる天下の男子が、女々しい恋愛だの、神聖だなぞと騒ぎ廻つて風俗壊乱の火の手を煽ふり、自分も又その火中へ喜んで飛び込んで行く悲惨の状態を見ると、実に世の中の奴の腰抜け加減に愛想が尽きて了ふわ。ヘン、泥坊稼ぎの身分でありながら、恋愛の、神聖のとは臍茶の至りだ。オイ、ハンナ、そんなハンナリせぬ腰抜論は聴きたくないから、俺の前ではもう言つて呉れな。気分が悪くなるからのう』
ハ『ヘン、泥坊だつて恋愛論が出来ない理由はあるまい。先づ聞き玉へ、俺の名論卓説を』
タ『今日は僕も死んだ女房の命日だから、供養の為に、君の迷論に対し充分なる攻撃を試みる心算だが、得心だらうねー』
ハ『面白い、僕の恋愛論に口を入れる余地があるならやつて見玉へ。しどろもどろの受太刀が折れて、屹度僕の軍門に降るは火を睹るよりも明かな事実だ。オホン、日進月歩文明の今日では、恋愛論に趣味を持たないものは、最早人外の境域に自ら堕落して居るものだ。この頃僕が大に感ずる事は、性欲とか恋愛と云ふ事に関する議論が、著しく抽象的に成つて居ることだ。然し凡ての議論が反芻的で一度呑み込んだものを、わざと抽象的にして出して居る様に僕には見えて成らぬ。ヤレ恋愛は神聖だとか偏的だとか、性の問題は斯くあるべきものだとか、そんな風に恋愛を自由なものに考へては不道徳だとか、離婚は絶対に不可いとか云つて、婦人会連中が首を鳩めて決議までやつたと聞いて、僕は不可思議な心持ちがするのだ。恋愛とか性欲とか云ふものは、そんなに簡単に無雑作に片付けらるるものだらうか。今の所謂文明人間の言ふが如く、一で無ければ二、二で無ければ三と云ふやうに、簡単に、学問的乃至知識的に片付けて了ふことの出来るものだらうか。僕は何うも左様な考へは持てないのだ』
タ『ヘン、国家危急の場合に当つた今日、恋愛問題なんか唱へる奴の野呂さ加減に呆れざるを得ないわ。そんな問題は極めて簡単に片付けて了ふ方が余程人間らしいぢや無いか。アタ阿呆らしい、学問上道徳上から見ても恋愛なんか口にする奴は、僕は人間の屑だと思つて居る』
ハ『オイ、タンヤ、君は無味乾燥な心理を持つて居る様だが、世の中は理窟で何程押し通したつて、学問や知識でいくら攻めて行つたつて、恋愛と云ふが如き人間生涯に関する大問題を、さう易々と片付ける訳には行かないよ。却てそれは空想だ、徒労だ。どうしても人間には信仰と恋愛が無くてはならないのだから、此問題は極めて慎重に研究すべき価値が充分にあるよ』
タ『恋愛と云ふものは人に由つて霊の方面から観察し、或は肉の方面から見たり、自然から見たり、又は単なる物質から見たりするのもあるが、要するに道徳の範囲内に於てでなければ、神聖な恋愛を論議する事は出来ぬ。万々一道徳を度外したる恋愛を唱ふるものありとすれば、夫れは人間以外の動物の心理状態と云ふべきものだ』
ハ『それは君の無味乾燥な頭脳から割り出した一面の見方であるが、到底完全なる恋愛、または性を捕捉したものとは言はれない。恋愛は元来自然と同様に端倪すべからざる性質のものだ。極端に言へば、恋愛なるものは余りに神聖過ぎて、彼此と論議する事さへも出来ない位のものだ。恋愛を論議された時には、モハヤ其本当のものは何処かに去つて了つて居ると言つても好い位だ。換言せば、恋愛は霊も肉も自然も物質も凡てを打つて一丸と為した処にのみ、恋愛の髣髴が認められるもので、何も彼もが凡て同時にあるのだ。霊肉一致とは好く言つたものだが、夫れでさへ充分で無い程流動的なものだ。だから恋愛を論ずるに当つては君の説の様に、普通の倫理学的論法で、斯うだから彼だとか、彼だから斯うだとか云ふ事は出来ない。普通一般的の事実なら、どんな事でも結果から押して考へて行けば、答へは可成正確に出て来るが、恋愛だけに限つて、さう簡単に片付かないよ。知識や倫理的に成つた時には、最早恋愛とか性とか言ふものの粕屑であつて、君の如き学者や、論客が何程鹿爪らしい議論や意見を立てて、自分こそは古来の恋愛論の上に新しい、そして的確な、正当な、一見地を加へたものと自惚れて居ても、徒に粕屑を握んで金剛石の様に思つて大騒ぎをして居るだけで、恋愛の本体は何時の間にやら千万里の遠方へ滑つて逃げて往つた後なのだ』
タ『君の説は全然道徳を無視し、社会の秩序が紊乱し、家族制度が破壊されても、恋愛さへ満足にやつて行けば、それで天下は泰平だと云つたやうな悪思想だ。人間は自由も恋愛も必要のものだらうが、社会や家庭の秩序を紊してでも恋愛を神聖視するのは、動物性を帯びて、外道の主張だ。僕は賛成する事は出来ないよ。三角問題や、離婚問題が頻々として社会に続出するのも、君の如き悪思想のものが覇張るからだ。恋愛といふものは、成程神聖なものでは有るが、少しは慎みと言ふ事、又は倫理の点を考慮して始めて神聖な恋愛とも云へるものだと思ふ。君の恋愛論は所謂風俗破壊論の変態だ』
ハ『君の様に、恋愛を道徳的問題視し過ぎては、その本体は既に蔭も形も無くなつて了ふ。いつの間にか指の股から滑り落ちて了つて居るのだ。夫れにも気が付かず、後に残つた恋愛の粕屑許りを捉へて、彼此と論議して居る様だ。僕等は、モウ少し夫れを活動的存在物として、刹那々々に深く触れて行く事を念とせなくては成らないだらうと思ふのだ』
タ『恋愛は一夫一婦の厳守に由つて始めて神聖たり得るのだ。そして人間たるものは飽くまでも一夫一婦の道を守つて行かねば人間としての品格が保てない。故に何処までも倫理的で無くては、恋愛は成立せないと思つて、僕は泥坊稼の傍永年努力して居るのだ』
ハ『他人の婦女を強姦し、財産を掠奪するを以てモツトーとする泥坊稼の身で居ながら、一夫一婦論や、道徳心を以て此問題に対し、永年の努力を惜まない君の精神と勇気には大に感服するが、実際其場に臨んで、君の堅固な主張が守れるか守れないかは、第二の問題として、兎に角も努力しようとする其心懸けは僕は愛する。現に僕なども三角状態の苦しい立場に立ち、恋愛の好い加減でない事を痛感し、人間の魂の玩弄すべからざることを痛切に知つた時には、「矢張一夫一婦の制度が結構だなア。さう云ふ風に出来て居るのだなア」と云ふ風に独語せずには居られなかつた事もある。故に僕も愛情の濃かな、一夫一婦の仲、お互に他に目を移す余裕のない、円満にして且つ濃厚な夫婦の仲を尊敬する一人だ。併しそれは原則としてではない。唯好い事だと云ふだけに止めたいのだ。何故ならば自然はそんなに簡単に言つて了ふ事の出来るものでは無いのだ。又一夫一婦が如何に理想的であるからと言つて、皆の人間が訳もなく行ふ事が出来る様では、又出来るやうに此自然が出来て居ては、それこそ人生は単調になつて了つて、微妙な美の波動もなければ、細微な感情の渦巻もなく、全く色彩のない荒涼たるものに成つて了ふ。否夫れだけならまだ我慢が出来るとしても、それでは結局この人生が成り立つて行かない。悪く型にはまつて了つた様になつて、少しの余裕もなく、終には破綻百出するに至るものだ。また単に生殖と云ふ点から見ても、そんな事ではとても人生は成立して行かないのは好く判る。そこで君の一夫一婦説も悪くはないが、皆の人間が夫れになつては困ると云ふ形になるのだ。恋愛はモツト自由で溌溂として、さうした人間の理智や意識で拵へた、希望とか理想とか、道義とか品行とか云ふ型の様なものなどは、幾何出来ても、手早く且つ容易に内部から打壊して了ふ強い力を持たなければ成らないと云ふことになるのだ』
タ『君の如き自由恋愛論者の性欲万能主義者には、僕も大に面喰つた。開いた口が閉がらないわ。何なりと御勝手に喋舌つたが好からうよ』
ハ『誤解しちや困るよ。僕だつて決して自由恋愛主義者ではない。又単に性欲の満足のみを求めて世を乱さうとするものでもない。かつては僕は自然主義の唱道者として、獣類に近い無残な性欲を恣にするものだと云ふやうに、世間から勝手に定められて了つたこともあつたが、決して僕は性欲万能宗の信者ではない。唯僕は恋愛といふものは、さういふ自由な奔放なものだといふ事を主張するのだ。単なる知識になつて了つては、約り前にも云つた通り、粕屑的論議になつて了つては、溌溂とした流動的存在としては、到底そんな風に定めて了ふ事は出来ないと云ふ事を言ひたいのだ』
タ『君の説の如きそんな無検束なことは許せない。君がさう言ふ風に恋愛なるものを見るなれば、それだけでモウ立派な正札附きの自由恋愛論者ではないか』
ハ『その様にも浅く考へたら取れるだろうが、その点は実に難いのだ。そこに非常に深い細かい、ともすれば見落して了ひさうなデリケートな、心理的境地が存在して居るのだ。それは一種の理解であるとも云はれるが、又一種の感激だと言ひ得る。更に言ひかへて人間乃至人生に対する、大きな自然に対する溜息が在るとも言へる。約まり何うにも成らないと云ふ心持に近いものだ。恋愛なるものは到底見通しする事の出来るものではない。単純であつて、併も深奥なものだから、取らうと思へば直そこに在るが、扨て何処までいつても端倪されないものだ。この心持が約まり恋愛の純な所なのだ』
タ『全然君の説は二十世紀頃に生きて居た小説家の田山花袋の様なことを言つてるぢやないか』
ハ『当然だよ。実は田山花袋の恋愛説に心酔して居るのだ、アハヽヽヽ』
タ『オイ、もう夜が明けるぢやないか。恋愛論も、よい加減に幕を卸し、弥々これから本業に取かかるとせうかい。此間天帝の化身と称する玄真坊が連れて来よつたダリヤ姫も頗る素的な美人だつたが、然し彼奴は、既に鼻の先が割れて居る。そんな古めかしいものよりも、どうだ、甘く親分の所在を突き止めて、有らむ限りの胡麻を擦り、元の如く乾児に使つて貰ひ、隙を考へて、スバール姫を奪ひ取り、タラハンの町へそつと連れ行き、金にかへやうものなら、一万両や二万両は受け合ひの西瓜だ。どうだ一つ二人が協力して甘く目的を達成し、其金を以て立派な商売を営み、天晴紳士となつて世を送らうぢやないか。恋愛論も恋愛論だが俺に云はせれば花より団子だ。華を去り実に就くのが最も安全なるやり方だよ』
ハ『俺もお前と約束して此処迄やつて来たのだが、あのスバール姫はどことはなしに優しみがあり、あれ程の美人を娼婦に売るのは何だか可愛さうな気がする。甘く目的を達したら、あの女をそんな泥水に落さず、どうだ俺の女房にスツパリと呉れる雅量はないか。俺だつて何時迄も金鎚の川流れぢやあるまい。きつと頭を上げる時がある。其時にはお前に百万両でもお礼をするからなア』
タ『ヘン、甘い事を仰有りますわい。お前のやうな猿面野郎がスバール姫を恋慕するなんで性に合はないわ。そんな空想を描くよりも、甘く姫を奪ひ取り、お金にした方が何程徳だか知れないよ。又かりに、貴様の女房にスバール姫が成つたとした所で、貴様のド甲斐性では姫を満足さす事も出来まいし、終の果には……ド甲斐性なしだ、腰抜け野郎だ、馬鹿野郎だ……と姫の方から愛想尽かされ、捨てられるのは今から見えて居る。万々一山奥に育つた未通娘だから、お前の意思に従ふにした所で俺をどうするのだ。貴様が出世した時俺に報酬をやると云うたが、貴様の力ではミロクの世迄待つた所で到底覚束ない話だ。それよりも甘く手に入つたら売り飛ばすに限るよ』
ハ『俺とスバール姫とが円満なホームを作り、そして姫は天成の美人だから、立派な美人を生むに相違ない。世の諺にも出藍の誉とか云つて、あんなものがこんなものを生んだかと云ふ事もある。雀が鷹を生む譬もある。然るに況んや孔雀にも比すべきスバール姫、出来た子はきつと鳳凰以上だらう。その鳳凰を今から貴様にやる事の約束して置かう。貴様が夫を女房にせうと何万円に売り飛ばさうと勝手だ。暫く時節を待つてくれ。時節さへ来れば煎豆にも花が咲くと云ふからのう』
タ『ヘン、馬鹿らしい、俺だつて矢張男だ。貴様がスバール姫に恋慕した如く、俺だつて矢張恋慕の心は同様だ。お前は恋愛々々と議論許りで立派に喋舌り立てるが、いつも見事に成功した事はあるまい。十人口説いて一人応ずれば一割に当るから、まんざら捨てたものではないとお前は何時も云つて居るが、百人千人口説いたつて、其御面相では半人だつて応ずるものはあるまい。今迄一人でも成功したものがあるなら云つて見よ』
ハ『ヘン、偉相に云ふない。俺だつて恋愛については、聊か自信をもつて居るのだ。まづ僕の女に対する恋愛の実際は、今日迄の経験上、いつでも半分丈けは必ず成就して居るのだ。要するに恋愛なるものは、男女二人の間に合意的に成立つものだから、其合意的の半分、即ち男の俺だけは確に成功するが、未だ嘗て、女の方に、実際の事を云へば出来た事が無い。それだから僕の恋愛は半分は間違なくきつと成就するのだ』
タ『ウフヽヽヽ、ヘン馬鹿らしい。貴様はよい馬鹿だなア。馬鹿者の典型とは貴様の事だよ。議論許り立派にベラベラ喋舌るが天成の鈍物だから、否馬鹿野郎だからお話にならないわ』
ハ『どこやらの教へにも「阿呆になつて居て下されよ。阿呆程結構なものはないぞよ。阿呆になつて居らねば物事成就致さぬぞよ」と云ふ事があるぢやないか。阿呆は所謂馬鹿野郎だ。俺は馬鹿野郎をもつて天下の誇りとして居るのだ。良う考へて見よ。彼奴は学者だ、智者だ、才子だ、策士だと世間から云はれて居る小賢しい人間よりも、世の中は馬鹿野郎の方が最後の勝利を占むるものだ。天下に油断のならぬものは、美人の鼻声と、阿呆と、暗の夜だと云ふぢやないか。況んや現代の如き神経過敏の病的の世の中では、馬鹿でなくては、世に立つ事は出来ないよ。如何に猛烈なバチルスにも犯されず、バクテリヤにも左右されず、俗物共の相手にもしられず、万事がボーとして無頓着でトボケたやうな、馬鹿気た処に処世上、無限の妙味があるのだ。馬鹿なるかな、馬鹿なるかなだ。サアこれからお前と俺と一致してこの大馬鹿を尽しに行かうぢやないか。シャカンナに取捉まえられて、死損ねになるもよし、スバール姫に肱鉄をかまされて馬鹿を見るもよし、兎も角人間は馬鹿に場数を踏まねば何事も成功しないものだ。一層の事思ひ切つて浅倉谷の方面へ馬鹿力を現はし強行軍と出かけようぢやないか。こんな所に鳶の糞を頭から浴びて石仏のやうに取越苦労をして居るのも馬鹿らしい。サア行かう』
タ『よし、もうかうなりや仕方がない、馬鹿序だ。全隊進め オ一二』
と谷間の細路を小足に刻み乍らチヨコチヨコ進み行く。アリナは万感交々胸にたたへつつ、二人の話を聞いて飽迄追跡し……父娘の危難を救はにやならぬ。いや却つて父娘両人を都へ引き出すには好い機会が出来たのかも知れない……といそいそしながら進み行く。併し乍ら平坦な都大路を車馬の便によつて歩んで居たアリナの足の運びは、到底山野に慣れた山賊の足跡を追撃するには余程の困難を感ぜられた。二人の小盗児の影はいつの間にか山の裾に遮ぎられて見えなくなつて仕舞つた。
(大正一四・一・五 新一・二八 於月光閣 加藤明子録)
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