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本文 　杢助に化けた妖幻坊及び千草の高姫は高砂丸の破壊沈没に命許りは助からむものと、両人共手早く着衣を脱ぎすて、真裸体となつて海中に飛び込んだ際、妖幻坊は全く元の正体を現はし獅子と虎との混血児たる怖ろしき姿となつて了つた。高姫も真裸体となつて毛だらけの妖幻坊の首に喰ひつき、浪のままに漂ひ乍ら老木茂れる一つの離れ島に漂着した。
　高姫はホツト一息し乍ら、
『アヽこれ杢助さま、大変な暴風雨に遭ひ、妾はもう命が無くなるかと思つて居ましたのに、お前さまの変身の術で此の荒湖を乗切り、お蔭で命が助かりました。何とマア貴方は偉い隠し芸をもつて居らつしやるのですねえ』
　妖幻坊は高姫に正体を見附けられ、大変に心を痛め、如何云ひ訳をして胡魔化さうかと思つて居た矢先、高姫の方から却つて感賞の言葉を受け、心の底から善意に解して居る事を悟つたので、わざと得意の面をしやくり乍ら、
『オイ、千草の高姫、俺の魔術は偉いものだらうがな、まさかの時になれば獅子とも虎とも分らぬ斯ういふ怪体な形相に変化するのだもの、天下に怖れるもの一つも無しだ。俺も斯う云ふ美人を女房にして居る以上は、一つの不思議な妙術を使つてお前の信用を得ておかないと、何時東助の野郎に鞍替せらるるか分らない危険区域に置かれて居るのだから、お前を助ける為に斯う云ふ醜い肉体に変化して千草の高姫女帝に忠勤を励んで見たのだよ、アハヽヽヽ』
高姫『アタ憎らしい杢助さまだこと、二つ目には東別だの東助だのと、そんな旧めかしい話は止めて貰ひませうかい。東助なんて淡路の洲本で船頭稼ぎをやつて居つた、渋紙面をして色の黒い独活の大木みたよな体見倒しですよ。何一つ離れ業を知つて居ると云ふでもなし、八島の主のお鬚の塵を払ひ、お尻の臭を嗅いで喜んで居るやうな代物は、仮令十千万両の金を積んで倒になつて歩いて見せても靡く千草の高姫ぢやありませぬよ。東助なんて云ふのは勿体ない、彼奴は豆腐の助で結構だ。此高姫の指一本で、潰さうと破うと自由自在ですもの、オホヽヽヽ』
妖『これ高チヤン、随分法螺を吹くぢやないか、斎苑の館で東助に肱鉄砲を打ち出され脆くも敗北し、泣く泣く河鹿峠を渡つて祠の森に逃げ込み、世を果無むで燻ぼつて居たぢやないか、些と頬桁が過ぎるぞや』
高『頬下駄を履くのは呆助位が適当ですよ。いや朴下駄でも東助なら過ぎて居る、この千草の高姫はトルマン国の女帝だから、桐の下駄か伽羅の下駄が性に合つて居るのですよ。ヘン、朴下駄が過ぎるなんて余り人を軽蔑して貰ひますまいかい』
妖『オイオイ高チヤン、さう履き違をして貰つては聊か迷惑だ。話が脱線して仕舞つたよ、ほうげたが過ぎると云つたのはお前の口が過ぎると云つたのだ』
高『ヘン、口が過ぎるなんて馬鹿にしなさるな、妾だつて口すぎ位は立派に致しますよ、男の一匹や二匹位遊ばして養つてやりますワ』
妖『アハヽヽヽ、益々分らぬぢやないか』
高『益々分らぬの、別れぬのと、それや何を云ふのですか、お前さまは此高姫に別れようと思つてゐらつしやるのでせう。盛装を凝らし髪を立派に結つてお白粉でもつけて居た姿を見て、お前さまは岡惚をやつて居たのだらう。斯う難船して保護色の衣類は浪に攫はれ、髪はサンバラに乱れ、要塞地帯が丸出しになつた姿を見て愛想が尽きたのでせう。ヘン、これでも、
　（都々逸）お前嫌でも又好く人が
　　無けれや妾の身が立たぬ
と云ふ俗謡の通り男のすたり物はあつても女のすたり物は三千世界何処を探しても滅多に有りませぬぞや。ヘン、嫌なら嫌ときつぱりと言つて下さい、此方にも考へがありますからな』
妖『アヽ益々困つた事を云ふぢやないか、ハハー分つた！　読めた！　この杢助が妖術を使ひ過ぎ、斯んな姿に化けた姿が女帝のお目に留り、秋風が吹いたのだな、よし、それならそれで此方にも考へる余地は十分にある筈だ』
高『又しても、お前さまは妾を術無がらすのかいなア、エヽ腹の悪い人だこと、そしてあの曲輪の玉は如何なさいましたか。よもや湖に落しはなされますまいなア』
妖『ウン、それや心配すな、湖に飛び込む際腹の中へ呑み込んでおいたから大丈夫だ』
高『マアマア呑み込んだのですか、ヘーン、何故妾に呑まして下さらないの、本当に貴方は水臭いお方だワ』
妖『お前に呑ましたいは山々だが、咄嗟の場合、そんな余裕があつて堪らうかい、失礼乍ら杢助の高天原にチヤンと納めておいたから、何時か又吐き出す時があるであらう、さう心配はするに及ばないよ』
高『成程、抜目のない杢助さまだこと、それでこそ高姫が最愛の夫、末代迄の旦那様だワ。併し杢助さま、此島に着くは着いたが、斯う裸では道中も出来ないし、曲輪の法でも使つて立派な着物を一枚拵へて下さる訳には行きますまいかなア。貴方だつてさう毛だらけの変化姿では人中へも出られますまい』
妖『成程、お前の云ふ通りだ、俺の聞く通りだ。雨蛙が木に止まつて鳴く通りだ、書き出しは右の通りだ。俺も此通りだ、両手を土について正に高姫の君に謝り参らする通りだ。アハヽヽヽ』
高『これ杢チヤン、笑うて居る場合ぢやありませぬよ。何程春ぢやと云つても斯う寒くつては、やりきれないぢやありませぬか、何とか工夫が御座いますまいかなア』
妖『ヤア、此処に船が一艘繋いである。これから考へると、誰か此島に上陸して居る人間がある筈だ。一つ其奴の皮を剥いて、お前と俺とが身に纒ふ事とせうでは無いか』
高『全然り追剥のやうな事をするのですか、それでは時置師の宣伝使とは言はれますまい。妾だつて何程寒くつても泥棒した衣類を身に纒ふ事は嫌です。そんな事をすれや日出神の神格が薩張地に落ちて仕舞ひますワ』
妖『てもさても馬鹿正直な女帝様だなア。昔から譬にも背に腹は替へられぬと云ふぢやないか。大善をなさむとすれば、小悪は時と場合により止むを得ないだらうよ。アヽ寒い寒い、斯う俄に強い風が吹いて来ては、俺も耐らない。何処かに好い竹藪でもあれば、すつこんで風を避けたいものだ』
と云ひ乍ら、「高姫続け」と一声残し、篠竹のシヨボシヨボと生えて居る竹藪の中に身を隠して仕舞つた。其実漸くに顔だけ人間らしく化て居るものの、身に一片の布片も纒つて居ないので苦しくつて耐らず、顔までが元の妖怪に還元しさうなので、そんなエグイ面を見せては、流石の高姫も愛想をつかすだらうと思ひ、この竹藪に飛び込み第二の変化術を施す為めであつた。此藪は百坪許りの面積があつて、其中へ入るや否や忽ち白胡麻のやうな蟻の群が数知れず登りつき、如何なる人間と雖も身体中を噛み破り、忽ち身体は腫上り痛痒うて耐らない。さうこうして居る中に、足の一尺もある怪しい蜘蛛が幾万ともなくやつて来て尻から粘着性の強い糸を出し、身体をぎりぎり巻にして仕舞ふと云ふ怖ろしい魔の森である。それとも知らず妖幻坊が飛び込んだのだから耐らない。荒くたい毛の間に幾万とも知れない蟻が噛みつく痛さ、遉の妖幻坊も悲鳴をあげて虎の唸るやうな呻吟声で高姫の救ひを求めて居る。高姫は其声を聞きつけて藪の傍に立ち寄り中を覗いて見れば、妖幻坊は蟻に責められ七転八倒の苦しみの真最中であつた。高姫は気も転倒せむ許り打ち驚き乍ら竹藪の後の方に廻つて見ると、一寸小高い塚が在つて、其上に周囲三丈もある大銀杏が天を摩して立つて居る。銀杏の根本には小さい祠が立つて居て、若い男女が何事か欷きしながら祈つて居た。抜け目のない高姫は、早くも男女二人の着衣を失敬して東助の難を救ひ自分も着用せむものと、銀杏の木の後に隠れて両人の話を聞いて居た。
女『もしフクエさま、どう致しませう。何程貴方と妾と恋におちて悩んで居ましても、強欲な継母が、貴方との恋を許して呉れないのですもの。スガの港の呉服屋へ嫁に行けと、煙管で畳を叩いての日夜の折檻、生の両親は既にこの世を去り、継母の手に育てられた妾、その恩義を思へばどうして恋しい貴方と、天下晴れて添ふ事が出来ませう。又妾の家はスガの呉服屋さまに大変な借金があり、それを返さなけれやなりませず、返す金はなし、母も大変に心配致して居ります。若し妾の縁談を断りでもせうものなら、恋しきスガの里に住む事は出来ませぬ。だと云つて貴方を思ひ切る事は如何しても出来ませぬ、何とか此の銀杏の神様の御利益によつて円満な解決をつけて貰ひたいもので御座います』
と又もや欷く。
フクエ『オイ岸子、さう悲観したものぢやない。此神様は女神様だと云ふ事だから、きつとお前に同情して下さるに相違ない。私ぢやとて未だ主人持の身の上、どうする事も出来ぬみじめな有様だが、お前と別れる位なら、一層ハルの湖へ身を投げて死んだが増しだよ』
岸子『此神様に一切の衣服をお供へすれば屹度願を叶へて下さると云ふぢやありませぬか、上衣だけなりとお供へして帰りませうか』
フクエ『成程上衣の一枚位お供へしたつて別に苦しくはない』
　斯く話す折しも、銀杏の木蔭より、優しき女の声、
女『妾こそは、銀杏姫の命で御座るぞや、今より千五百年の昔、恋男に逢はむ為め盥の船に乗つて、この離れ島に夜な夜な通ひ、折柄の暴風雨に遇ひ、惜しき命を湖の藻屑となし、其精霊凝つて茲に裸姫となり、名も銀杏ケ姫の命と改め、衣類一切を吾に献ずるものには、如何なる恋も叶へ得させむ縁結びの守護神であるぞや。そち達両人の恋はこの千草オツトドツコイ銀杏姫の命が請合うて叶へてやらう程に、衣類一切を此処に脱ぎ捨て、其上この魔の藪に飛び込んで、悩める一つの生物を真裸の儘救ひ出せよ。さすれば其方の願望は必ず必ず今日只今より叶へて遣すぞや、夢々疑ふ勿れ、夢々疑ふ勿れ』
と云ふ声は千草の高姫である。二人の男女は実の神の言葉と信じ、両人一度に惜気もなく、下着迄残らず脱ぎ捨て銀杏姫の命に奉り、神勅の如く魔の藪に飛び込んで、白蟻に悩み苦しめる妖幻坊をやつとの事で引き出して仕舞つた。不思議にも白蟻は藪の外一歩出づるや否や、一匹も残らず、身体より落ちて藪中に逸早く姿を隠して仕舞つた。二人の男女は甘々と高姫の計略にかかり真裸にせられ、其上妖幻坊を救ふべく藪中に飛び込んだ為、身体一面白蟻に集られ身動きならず、七転八倒の苦しみをして居る。
高『ホヽヽヽヽ、オイそこな若い二人の呆け共、こなさまは銀杏姫の命でも何でもないんだよ。よつく耳を浚へて聞いておきや、ウラナイ教の大教主千草の高姫さまだよ。二人が真裸で白蟻に噛み殺されるのも前世の因縁だ。その代り潔く蟻共に喰つて貰つて死になさい、屹度最奥第一の天国に此の贋の銀杏姫に衣類を献じた徳によつて救ひ上げてやらぬ事もないぞや、……これ杢チヤン、何を呆けて居るのぢや、確りなさらぬかいな』
妖『ヤア高姫、よう助けて呉れた。思はず知らず魔の森に飛び込んで一つよりない命を棒に振る処だつた。お前の縦横無尽の智略によつて此の杢助も一命が助かつたやうなものだ。いや感謝するよ』
高『ホヽヽヽヽ、これ杢チヤン、曲輪の玉の神力は如何なつたのですか、まさか白蟻の奴に奪られたのぢやありますまいなア。神変不思議の妙術を使ふお前さまが、蟻なんかにしてやられるとは、些つと均衡が取れぬぢやありませぬか』
妖『甘いものには蟻が集る、辛い奴には蟻が集らぬと云ふぢやないか。兎に角俺は人間としては最上等だ、さうして女に甘いだらう。血液も人一倍甘いなり、何分身魂が勝れて良いものだから蟻の奴、有難がつて吸いついたら離れぬのだよ。お前だつて俺に吸ひついたら容易に放して呉れまいがな』
高『成程、道理を聞けば御尤も千万、迂つかり杢チヤンは、これから蟻の居る所へは行つて貰はないやうにせねばなりませぬワ。妾だつてきつと蟻につかれる体に違ひありませぬからなア』
妖『それやさうかも知れぬ、いつも喋々喃々と甘い囁きを聞かして呉れるからなアー。併し俺を救けて呉れた二人の男女は可愛さうだから助けてやらうぢやないか。何と云うても俺の命の親だからのう』
高『杢チヤン、それや何を云ふのですか、お前さまの正体を見附けられた以上、こんな者を置いては後日の妨になるぢやありませぬか。あの通り蟻に喰はしておけば、別に人殺の罪にもならず、蟻は喜んで腹を膨らすなり、蟻の為めには吾々は救世主ですよ。蟻だつて人間だつて同じ事ですよ、たつた人間二人の命の代りに数百万の蟻の命を救へば、何程功徳になるか知れませぬよ。そんな宋襄の仁はおよしなさい。折角喜んで居た蟻が困りますよ。サアサア二人の衣類も胡魔化して剥いたから、貴方は男の方をお着けなさい。妾は嫌だけれど阿魔女の方を暫時着てやりますワ、何と智慧程世に尊いものがあらうか、杢助さま、千草の高姫の器量はちと分りましたか』
妖『烏賊にも、蟹にも蛸にも足は四人前だ、ヤア感心々々、お前の腕前には時置師の杢助も恐れ入谷の鬼子母神だ。呆れ蛙の面に水だ、ウフヽヽヽ』
フクエ『もしもし私を助けて下さいな、余り殺生ぢや御座いませぬか』
　高姫腮をしやくり乍ら、
高『ヘン頓馬野郎奴。それや何を云ふのだ。最前あれだけ丁寧に引導を渡して置いたぢやないか、マア悠りと其処に両人が寝て喰れて居たらよからう、有難うと感謝しなさい、お前の体は忽ち蟻ケ塔になるぞや、朝から晩迄働いても働いても喰へぬ世の中に寝とつて喰れるとは幸福な人間だ、オホヽヽヽ』
と憎らしげに腮を突き出し、尻を三つ四つ叩いて一目散に杢助と共に船着場に馳せ帰り、二人の繋いでおいた小船に身を任せ、浪なぎ渡る春の湖面を鼻歌謡ひ乍ら甘き囁きをつづけて何処ともなく漕いで行く。
（大正一五・六・二九　旧五・二〇　於天之橋立なかや旅館　加藤明子録）

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