国土生み・御子生みの神業が成ったので、顕津男の神は大前に跪いて座り、神人すべてのために祝詞を奏上し、天界永遠の無事を祈った。
その祝詞、
高天原の紫微宮にまします天之峯火夫の神、高鉾の神、神鉾の神をはじめとする、天津神国津神八百万の神たちの前に申して言う、
神々の身体の大本源とは、大きく集まり結びあって円となった最上の産霊(むすび)である。神々の身は、その大本源によって「ムスビ」の極み限りを尽くして霊妙にして霊瑞にムスビ成ったものなのである。
その地水火風空(すべての元素)は円く備わり、争うことなく、片寄ることなく、止まることなく、滞ることはない。身魂は澄み渡り、赤く照り輝いている。
そして、大いなる結び合った円には極みがなにので、底につくことはなく、高天原の限り存在しないところはなく、あらゆる所がすなわち自分の身である。また、自分の身が「自分」と限られることすらない。
だから、天も地も我が身の内にあり、日は心の内から世界を照らして落ちることなく、潮・風は廻る。
だから、羽ばたきのように心を起こすだけで、たちまち神と顕れ、身がわずかでも働けば直ちに森羅万象を形づくる。八百万千万の神々は、すべて心の内に現れたものなのである。
一つ心に思うところが即、億兆無量の神の心となり、無量無辺の神の心が、ひるがえって我が為となる。自分のために心を起こすことはまったくないし、我が身のために行うこともまったくないのである。
だから、神のことごとく、一柱も漏れる神はないのである。神々の司る世界それぞれ、天空だろうと、地中だろうと、海中だろうと、神の護り幸はい恵みがあるのであり、正しい身で行えば、たちまち成るのである。だから、億兆の祈りもすべてが成り、億兆の業もすべて遂げられるのだ。
無から現れて現世に形をむすんだすべてのものは、一つも欠けることなく、夜昼の活動に仕え、朝夕の活用にはたらくので、少しも身に乏しいことも煩わしいこともないのだ。
ヒト=神人と言うのであり、煩い病苦悲しみといった災いは、すべて神人(ひと)の道を失って禽獣虫魚のレベルに落ちてしまっているのである。穢れた道を行けば、終に神人の身を失ってしまうのである。
比類なく貴い神人(ひと)の身を産霊(むすび)得ながら、卑しき身魂に落ちてしまう道理を明らかに悟れば、これを畏み思って、我が身の過ちを清め祓い尽くそう。
そして神人の道に進み入って、私の思いを起こさず、我が身のために行うのでなく、神人の名のままに行う。迷うことなく欲することなく神人の道に入れば、紫微宮の⦿(ス)の大神二柱も、夜昼の守りに幸を賜う。
真言為す神人の道は、自ら願うがままになり、天界の本から備わった大いなる真の道は永遠に伝わって、天の日がすべてを照らすようである。
雲のごとくすべてを潤し世界の隅々を知る⦿(ス)の大神の大御倉は、天地日月と共に永遠に連動して少しも失われることがなく、諸々の神たちは子を産み継いで、それぞれの位のままに永遠に助け合いお仕えになっている。
神人たちが、それぞれの神業を守って⦿(ス)の大神に仕え奉り楽しみつつ、神人の道にそむくことがなく、僻地の小さな神でさえ餓えや暑さ寒さの悩みを知らず、上中下各位の神人が共に一つの歓びを受ける。
このような、真の大⦿(ス)の御国となりますよう、お願い奉ることを、高天原の紫微の宮居の三柱の神、百千万の神たち共にお聞き届けますよう、畏み畏みも拝み申します。
そして、御歌を歌って静々と大前を退き、居間へと帰っていった。
玉野比女、生代比女も顕津男の神について、一間へ退いた。
遠見男の神は玉藻山の頂上から国見をし、圓屋比古の神を三笠山の国守と任命し、国中比古の神を真鶴国の稚国原の守りとする歌を歌った。
すると国中比古の神が、玉藻山の新生と神々の功を喜び祝おうと、天の斑駒に乗ってやってきた。そして、稚国原を治めるにあたっての抱負を歌った。また、圓屋比古の神も、三笠山の国守としての決意を歌った。