各国には、その国に合った建国の精神があるように、日本には固有の大和魂というものがある。
吾(出口聖師)は、明治三十一年より、その大和魂の宣揚に努めてきた。今、大和魂を奉じる団体が沢山現れてきたことは、喜ばしいことである。
東方に位置し、万世一系の国家として他に類を見ない日本国とすれば、自身が持っている国民精神=大和魂に基づいてこそ、日本の文化文物の特異性を世界に訴え、賞賛を受けることができるのである。
今日、大和魂を発奮して国民が覚醒しなければ、その輝きも徳も失われてしまう、と叫ぶ向きもあるが、堅固で純粋な大和魂はそう簡単に消えたり磨り減ったりするものではない。むしろ、常に明るく澄んで、磨かれつつ光を放っているのである。
では、大和魂がどのようなものであるかというと、忠孝、信義、友愛、大侠、義勇、正義、自由、それぞれが、純真な意識的行動によって、発現される=大和魂なのである。
日本の比類ない国体を護り、国家を支持する精神はすべて、このような国民性が持っている、誇りと矜持なのである。それこそが、日本人の国民性のみが占有する、独占的な特質なのであり、他のいかなる国民も、真似をしたり奪ったりできないところである。
たとえて言えば、これは大和魂が約束する、絶対に侵すことの出来ないひとつの手形である。もしもこの手形を手放す者があるとすれば、大和魂=国民的精神は奪い去られ、精神的財産は跡形もなく消えうせるということになる。
現代日本に生を受け営みつつ、これを手放す精神的亡者があるとすれば、それは日本精神を賊し冒涜するものであり、筆者としては心外千万の沙汰である。
顧みて、欧米の文明が日本(精神)に何をもたらしたか。理知や物質的・機械的なものは先走り、上滑るほどに盛りだくさんであった。欧米文明の心酔者は、それに幻惑され、愛溺し、重宝がった。その結果残ったのは、思想の偏りと荒廃くらいなものである。そんな状況の中、ややもすれば、この思想の変遷を助長し促進して、とんでもない方向へ脱線し奔放をほしいままにする一部の国民さえ現れたのである。
基本的に、欧米文明の長所を取り短所を大和魂で補う、ということの正しさは、いかに古臭い学者といえども、もはや否認する道理もない。しかし、短を補うのではなく、あまりに長所を盲信し、機械と物質のロボットと化してしまったことによって、脱線・奔放をほしいままにする「似非自由主義者」という怪物が、のさばり出すようになってしまった。
つまり、常軌を逸した状態が、ただ政治や経済組織の上に見られるだけでなく、人間の思想の上にも存在するようになってしまった。まことに呪わしい世相・人間世界となってしまったのである。
具体的に、どのような異常状態が、現在の人間精神にあるかと言うと、欧米文明をあまりに広範に取り入れてしまった結果、欧米文明の長所が本来どこにあったか、という指標が狂ってしまった。そうして終に、脱線し歯止めがなくなり、ありのままの姿をさらけ出してしまった。その結果が左翼化、共産主義化である。
左翼・共産主義が、資本主義の是正を叫び、統制経済の確立を叫ぶのは、既存の組織のあり方を正すという点では、一つの努力とみなすことはできる。しかし、大局的に大きく物事を見たときに、果たしてそのような方向で大和魂は、発揚したり、その豊かな味わいを発揮したりできるのだろうか。
左翼的・共産主義的な是正ではなく、先祖に報い始めに返る精神で是正をしていかなければ、日本の国民精神は滅亡してしまうかもしれない。
このような事態の中、皇国日本の真の精神と、天壌無窮の皇室の尊厳とをあまねく国民に現し、そうすることで、この非常時に直面している国民同胞を迷いから醒ますために、『天祥地瑞』の神書を著したのである。東洋、特に日本の天地開闢・宇宙創造説を、西洋諸国と比べて見ても、海外のものは根拠のない神話物語であり、これを見ても非文明的である理由がわかるであろう。
さて、この巻は、八柱の御樋代神の一人、朝香比女神が、スウヤトゴル山で太元顕津男の神と再会し、英雄的活動により大曲津見を言向けやわし、新しい国土を経営し国魂神を生み出でますという、紫微天界での大活動の序幕の物語である。