大正十年二月十二日に、晴天白日の空に、上限の月と太白星が白昼燦然と大阪の空に異様の光輝を放った。この日はまさに、大本事件の勃発した日であった。
下って大正十三年二月十二日、同日の天空に楕円形の月と太白星が、やはり白昼燦然と輝きだしたのであった。
これよりにわかに蒙古入りの決心を定めると、その夜のうちに出発することを、数名の近侍の役員に伝えた。祥雲閣の主人・中野岩太氏に別れを告げるため、二三の従者とともに訪ねて行くと、東京より来合わせていた佐藤六合雄、米倉嘉兵衛、米倉範冶をはじめ、十数人の熱心な信者が期せずして集まっていた。
日出雄はこれらの人々に蒙古入りの決心を打ち明け、演説を試みた。
大本は既成宗教のように、現界を穢土として未来の天国や極楽浄土を希求するものではない。
国祖の神のご神勅により、大神様のご神示を拝し、上は御一人に対し奉り、下は同胞の平和と幸福のため、東亜諸国ならびに世界の平和と幸福をきたすべき神業に奉仕する責任を、大本信者は持っているのです。
大正十年の節分の後、変性女子の御魂を人が行かないところに連れて行く、という神諭は、まず第一次事件による勾留で実現し、また今回蒙古入りにあたって、示されたように考えれらてならないのです。
日出雄は日本建国の大精神を天下に明らかにする所存です。万世一系の皇室の尊厳無比なることをあまねく天下に示し、日本の建国精神は征伐ではなく、侵略でもない、善言美詞の言霊をもって万国の民を神の大道に言向けやわすことにあると、固く信じます。
大正五十一年には日本の人口が一億人を超えると言われており、食糧問題への対処から、政府は植民政策でメキシコ、南米、南洋諸島、米国ら遠方の国へ農耕移民を進めています。
国家の長計から言うと、これではまだ足りないのであって、満蒙の地への開発・殖民こそ、地政学上からも埋蔵資源からも最も重要な課題と考えられます。
そこでいよいよ神勅を奉じて、二三の同志と共に徒手空拳、長途の旅に上ろうとしています。
日出雄は祥雲閣のふすまに書をしたため、発車の間際まで嬉々として東亜の経綸を談じつつ、しきりに筆紙を動かしていた。