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文献名1霊界物語 入蒙記 山河草木 特別篇
文献名2第3篇 洮南より索倫へよみ(新仮名遣い)とうなんよりそーろんへ
文献名3第16章 蒙古の人情よみ(新仮名遣い)もうこのにんじょう
著者出口王仁三郎
概要
備考2024/1/15出口王仁三郎全集第6巻を底本として校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-01-15 22:06:29
あらすじ
蒙古人は剽悍武勇であり、朴直慇懃で、親しみやすい。喜怒哀楽を直にあらわし、子供のように単純である。支那人やロシア人には近年圧迫されたため、彼らを敵視しているが、日本人には憧憬の念を抱いている。

日出雄は公爺府王の親戚に当たる、白凌閣(パイリンク)という十九歳になった青年を弟子となし、また彼から蒙古語を研究した。

蒙古人は嘘をつかず、一度この人と信じたならばその人のために生命まで投げ出すという気性の人種である。日出雄は蒙古人の潔白な精神に非常な満足を覚えた。
主な人物【セ】-【場】-【名】成吉思汗、源日出雄、巴彦那木爾(公爺府王)、白凌閣、老印君 舞台 口述日1925(大正14)年08月 口述場所 筆録者 校正日 校正場所 初版発行日1925(大正14)年2月14日 愛善世界社版141頁 八幡書店版第14輯 599頁 修補版 校定版141頁 普及版 初版 ページ備考
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本文  蒙古人は昔から慓悍勇武であり、成吉思汗の鉄騎が天地を震撼せしめた事は誰も知る所である。現今に於ても其容貌や風俗には昔の面影を残して居るやうである。朴直で慇懃で親しみやすいと同時に又感情的にして喜怒哀楽は忽ち色に現はし、其の一面に於ては愚鈍にして、行蔵頗る粗野淡白で、さながら小児の様である。併し乍ら近年支那人や露西亜人にいろいろと圧迫せられたので、両国人を見ること蛇蝎の如く嫌ひ、支那人露西亜人の奥地に入るものは、何れも無事に帰る事は出来ないのである。彼蒙古人は支那人、露西亜人に対しては不倶戴天の仇の様に思うて居るが、之に反して日本人に憧憬することは実に案外である。彼等は大部分は今や全く生存競争の圏外に超然として、更に利害の観念なく、牛馬、羊豚、駱駝などを唯一の伴侶として、茶を呑み、煙草を吸ひ、年が年中ねむつたり、食つたり、或は経を読み、仏を念じ、死後の冥福を祈る外余念なきが如く、敢て複雑な人生の苦難を知らぬのである。然し乍らもし何等かの動機に依つて、之を刺戟し、其性情を反撥するものがあれば、其処に必ず祖先の遺伝的性情を喚発するであらう。彼等が駻馬に鞭つて際限もなき広野を疾駆し、男も女も縦横無尽に鞍に跨り勇壮なる活動をやつて居るのを見れば、転た古の勇敢なる民族の気象を偲ばせるものがある。蒙古人は人に接する甚だ親切で、其同族知己の間に於ては勿論、外来未知の日本人に対しても一度相識るや一家挙つて之を款待するの風がある。日本人と聞けば仮令一人旅でも親切に宿泊せしめ、一家挙つて同情歓迎し、些しも障壁を設けない。併し乍ら西洋人や支那人に対しては或は恐怖し、或は卑下し容易に家へ入るを許さない。
 日出雄が公爺府に入るや公府の兵士を初め、役人や村民などが嘻々として集り来り、隔意なく親切に茶を汲んだり、煙草をすすめたり、又炊事の手伝をしたりして非常に款待し、村人は一人も残らず日々訪ねきて、言語が通ぜないにも拘はらず、鶏肉や鶏卵や牛乳の煎餅や、炒米などを携へて来て親切に世話をした。公爺府の喇嘛僧は日々日出雄の傍に出て来て、鎮魂を受けたり、日本服を珍らしさうに眺めたりして帰つて行く。さうして蒙古の婦人は朝から晩まで日出雄の身辺を取り巻いて嬉しさうに遊んで居る。日出雄は公爺府王の親戚に当る白凌閣と云ふ十九歳になつた青年を王の承諾を得て弟子となし、此の男に就て蒙古語の研究を始めた。白凌閣は蒙古人に似ず公爺府の役人から学問を習ひ、支那字や蒙古字をよく知り、且つ支那語をもよくした。日出雄は此白凌閣や村人と十日間程遊んで居る間に蒙古語を大略覚え、蒙古人と談話を交換するには余り差支へない程度に迄進んだのである。
 日出雄が公爺府に着いた二三日目の正午頃、協理老印君の館に遊んで居ると、王様が管内の巡視を終へて数十人の兵士と共にラツパを吹かせて帰つて来た。さうして王様の方から老印君の宅へ出張し、日出雄に面会し、通訳を介し種々と挨拶をした。此王は宝算正に二十三歳、さうして位は鎮国公で、巴彦那木爾と云ふ人である。色の白い凛々しい好男子であつた。日出雄は王様に土産として懐中電燈一個を贈つた。王は珍らしがつて幾度も押戴き嘻々として受け取つた。此の王様は未だ独身で奥さまが定つて居ない。先年巴布札布の挙兵の時に其居城を支那兵に荒され、且つ財産を奪はれ、今は非常に財政困難に陥つて居るので、それ故妻君を娶るとなれば、王として非常な費用が要るので見合せて居ると云ふ事である。それに此の若い王様は北京へ参勤した際、支那芸者から梅毒をうつされ、大変困つて居るとか云ふ話であつた。それから二三日たつと公爺廟の活仏が巡錫して来て日出雄に面会したいと云ふので、日出雄は老印君の宅で会見した。此の活仏は三十前後の男で、公爺府の王様の姉や妹三人迄妙な関係をつけて居ると云ふ生臭坊主である。此活仏は日出雄が蒙古の救世主として現はれたと云ふので敬意を表しに来たのである。四五日すると蒙古の各地から、救世主来れりと云ふ噂を聞いて遠きは二百支里位の所から、大車や轎車に乗つて老若男女が救ひを求めに来る。余り忙しいので守高が俄喇嘛になり、澄ました顔で彼等に鎮魂の手伝ひをして居た。
    ○
 蒙古の此地方の家屋は総て矮小で不潔である。さうして男も女も若布の行列か襁褓の親分か、雑巾屋の看板尻でも喰へと云ふ様なボロを身に纏ひ、平気の平左でやつて来る。又女は前頭部にいろいろの宝石を飾り、耳には宝石の環をぶら下げて居る。さうして家柄の良い所の女は環を三条下げ、中流は二条、下流は一条の環をブラ下げて居る。娘は皆下げ髪であるが、結婚すると同時に髪を巻いて頭の上にクルクルと束ねて居る。さうして下女には耳に環が無いので、一見して其婢たる事が判る。蒙古人は家の中であらうが門口であらうが、痰唾を吐き、手涕をかみ、手についた涕を自分の着衣に無造作にこすりつけて居る。何れの家にも牛馬、羊豚、鶏などが沢山に飼うてあり、朝になると家の周囲に寝て居る牛馬などは、蒙古犬に導かれて遠い遠い山野に草を食ひに行き、日没前になると又犬に守られてノソリノソリと家の周囲に帰つて来て寝て了ふ。沢山の牛馬が処構はず糞をひるので、蒙古人は牛馬の糞をかき集めて大きな山を作るのが何よりの仕事である。そして家の壁や垣などに牛糞をベタリと塗り、又高粱や炒米の容器は楊の枝を編んで籠を作り、牛糞で目をつめて、食糧品の容器として居る。温突を焚くのも茶を沸かすのも、高粱の粥を煮るのも、皆牛糞である。これだけ牧畜の盛んな蒙古に於て、牛糞を焚かなかつたら、蒙古の民家は牛糞で埋まるであらう。牛糞の山は到る所に築かれてある。さうして内地の牛糞のやうに妙な臭気は無い。羊肉をあぶつて食らふのも鶏肉をあぶつて食らふのも、皆牛糞の火を用ひるのである。潔癖な日本人は土地に慣れる迄は、何れも顔をしかめ鼻をつまんで困つて居る有様だ。
 蒙古人は日本の古代人のやうな魂が残つてゐて、嘘と云ふ事は決して知らない。それ故に嘘と云ふ言葉もなければ、違やしないかと云ふ疑問詞もない。此点に於ては実に気持の好い国人である。だから蒙古人は一度此人と信じたならば、其人が如何なる悪人であらうとも、そんな事には頓着なく因縁だとあきらめて終身其人の為に生命までも擲出すと云ふ健気な人種である。之に反して最初に此人はいけないと思つたならば、其人が後に如何程改心して善人となつても信用しない。日出雄は彼所此所から招かれて公爺府の民家を一戸も残らず訪問し、種々の款待を受けて、面従腹背、阿諛諂侫の内地人に日夜接近し、不快でたまらなかつた日出雄は、此蒙古人の潔白な精神に非常な満足を覚えた。蒙古人に小さい飴一個を与ふれば大きな男が喜んで頂き、嬉しさうに舌鼓を打つて幾度も感謝の意を表し、まるで内地の三つ子のやうである。さうして空気は非常に乾燥し、寒国にも似ず雪は余り沢山降らない、何程深雪だといつても高が一寸位積るのが通例である。さうして風は非常に寒いが其割には身体を害せない、又呼吸器を傷つけない妙である。
 蒙古の喇嘛や貴人はハムロタマガと云ふ宝石製の径一寸位な香器を携帯し、初めての人に接する時には、其器の中から非常に香の好い粉末を取り出して客に嗅がすのを非常の待遇として居る。朝から晩まで風は激しく、黄塵の立ち上る蒙古では第一鼻がつまつて困る。然るにこのハムロタマガの香粉を鼻に塗りつけると、不思議にも鼻が透き通り気分がよくなる。蒙古人は非常に柄の長い太い煙管を携帯し、朝から晩迄茶を飲んだあいまには煙草をくすべて居る。小さい盃の様な雁首の皿で、銀製、真鍮製のものが多い。さうして吸口の方は硨磲、瑪瑙、翡翠などの宝石をもつて作つて居る。蒙古人は此の煙管に最も金を費すと云ふ事である。
 蒙古人は一夫多妻主義である。長男を太子と云ふ、太子のみが妻帯して家を継ぎ、次子以下は残らず喇嘛になつて了ふ、これは仏教の信仰からだと云ふ。それ故止むを得ず一夫多妻となり、老印君の如き六十七八歳にもなつて七人の妻君を持つて居る。さうして妻君を貰ふのには牛を五頭或は六頭、極上等の美人になると十頭と交換する風習である。白凌閣の妻君は牛五頭と交換されたと云ふ事であつた。男子は十八歳でなければ蒙古の人数に入れない。さうして女は残らず人口から除外されてゐる、夫故蒙古の人口は完全に調査する事は六ケ敷い。葬式など至つて簡単で、親や兄弟を後に残して死んだものは不孝者だと云うて山の谷に棄てに行き、沢山の喇嘛がゴロついて居ても御経一つ上げてやらない風習である。蒙古人の容貌は男女共日本人に酷似し、些しも支那人に似てゐないのは不思議である。支那人は妻が男客の傍へ行く事を非常に嫌ふが、蒙古の男子は一切無頓着である。それ故自分の家内や娘を安心して外来の客の世話をさせる。その代り蒙古の婦人は極めて朴直で夫を持つた以上は決してその他の男に関係しない。それ故いつも蒙古の婦人が交る代る日出雄の無聊を慰めむと毎日胡琴を弾じ、美声を張り上げて面白き歌を謡ひ、日出雄の身辺には何時も春陽の気が漂うて居た。又日出雄の書生白凌閣や蒙古兵等も日々胡琴を弾じ、歌を謡ひ軍旅にある日出雄を慰むる事に勉めたのである。
(大正一四、八、筆録)
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