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文献名1霊界物語 入蒙記 山河草木 特別篇
文献名2第3篇 洮南より索倫へよみ(新仮名遣い)とうなんよりそーろんへ
文献名3第20章 春軍完備よみ(新仮名遣い)しゅんぐんかんび
著者出口王仁三郎
概要
備考2024/1/20出口王仁三郎全集第6巻を底本として校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-01-20 03:38:55
あらすじ
四月二十四日午後、ようやく五台の台車に武器が満載されてやってきた。それにつれて仮司令部の中も活気付き、兵士たちの士気も上がってきた。日本人側もようやく安堵し愁眉を開いた。

奥地は難所が多いために荷物を軽くしていくことになった。日出雄も霊界物語や支那服・日本服は洮南に送り返し、ラマの法衣のみを着ていくことになった。また日出雄と真澄別は宗教家として武器は携帯しなかった。

あけて四月二十六日、公爺府を出発した。日出雄は蒙古救援軍の総督太上将として索倫山に出発することとなったのである。

公爺府を出て八十支里、見渡す限り目も届かない大原野に、風景よき四方の岩山、柳や楡の古木が密生している。トール側の清流を隔てて岩山に金鉱を掘った後があり、その横にラマ教の金廟の壁が白く輝いている。珍しい鳥がさえずり、牛馬、山羊の群れが愉快そうに遊んでいる。

日出雄はかつて霊界において見聞した第三天国の光景にそっくりだといって喜んだ。

公爺府より西北の日出雄が通過した地点は、たくさんの木材が天然のままに遺棄されてあり、水田に適当な肥沃な野が、手持ち無沙汰に際限もなく横たわっている。

日出雄と真澄別は、こんなところを開墾して穀類を植え付け、鉄路を敷いて樹木をきり出し鉱物を採掘したならば、実に大なる国家の富源を得られるであろうと話しつつ、進んでいった。

四月二十八日早朝、ヘルンウルホの宿営を出発し、下木局子まで進むことになった。午前九時二十分、無事に下木局子に安着した。盧占魁は司令部に一行を案内した。
主な人物【セ】源日出雄、岡崎鉄首、曼陀汗(張桂林)【場】-【名】張海鵬、王元祺、盧占魁、老印君、真澄別、長栄号、守高、名田彦、坂本広一、猪野、何全孝、憑虎臣、秦宣、白凌閣、温長興 舞台 口述日1925(大正14)年08月 口述場所 筆録者 校正日 校正場所 初版発行日1925(大正14)年2月14日 愛善世界社版180頁 八幡書店版第14輯 614頁 修補版 校定版181頁 普及版 初版 ページ備考
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本文  四月二十四日午後洮南府第二十七師長張海鵬の副官が二十二名の騎馬兵を従へ、五台の大車に武器を満載し送り来る、又轎車三台を列ねて奉天側の参謀がやつて来た。
『王元祺が麻雀に耽り、阿片を喰ひ、ゴロゴロと寝てばつかりゐよる。盧の奴ア仮司令部で、此奴も亦武器も到着せないのに気楽相に阿片を喰つてゐる。其外の参謀の奴ア、ど奴も此奴も阿片を喰ふ位だから、碌な奴ア一匹もけつからぬ。こんな事で何うして軍隊の操縦が出来るか……』
と口角泡を飛ばし真赤な面で怒つてゐた岡崎将軍も、洮南府から武器が来たのを見て、俄に機嫌が直り直に仮司令部に走つて行つた。
 茲に於て公爺府滞在の将卒は頓に活気づき、鼻息が荒くなつて、歩き振迄が変つて来た。何れの兵士も武器が来たのを見て、あゝ力が来たのだ……と喜んだ。岡崎は笑壺に入り乍ら、ソロソロ鼻息が高うなり、
『公爺府の餓鬼や、老印君の爺奴、ゴテゴテ吐すとモウ承知せぬぞ。今迄吾々を馬鹿にしよつた』
と傍若無人の言語を放つてゐる。日出雄、真澄別其他の日本人側もヤツと安心して愁眉を開いた。
 翌二十五日正午頃盧占魁を招いて奥地行の相談をした。曼陀汗が一緒にやつて来て、
『奥地は大変に難所が多いから、沢山の荷物は到底携帯することは出来ませぬ。それ故必要品のみを持つて行くこととし、其他の物は奉天へ送り返す方が安全です』
と云つた。そこで日出雄は沢山の霊界物語を初め、支那服や日本服全部を轎車に積んで、先づ洮南の長栄号に送り届け、喇嘛の法衣のみを着て行くことになつた。盧占魁は索倫山の奥、興安嶺には七千人の赤軍が割拠してゐるから、必ず衝突戦が起るであらう、それだから凡ての荷物を軽うしておかねばならぬのだ……と口を添へた。
 此日午後盧占魁は大事な物を日出雄に預けおき張桂林事曼陀汗の先頭が数十騎及び二百の歩兵を率ひ索倫へ向つて進む事となつた。守高、名田彦の両人には十連発のモーゼル銃を一挺づつ携帯せしめ、坂本には軽機関銃とモーゼル銃を携帯せしめ、其他の日本人にも一々武器を与へて出発の用意をなさしめた。但し日出雄、真澄別は宗教家として武器は携帯しなかつたのである。それから岡崎は一先づ猪野を従へ奉天へ帰り、後の準備を整へて再び索倫山に向ふ事とした。
 あくれば二十六日、何全孝を団長となし、馮虎臣を護衛長となし、二百の将卒を引きつれ、日出雄、真澄別の両人は二台の轎車に分乗し、公爺府を出発した。此日は旧暦の三月二十三日で大本の月並祭当日である。日出雄一行が公爺府を去らむとする時、数多の老若男女が見送つて来て、別れを惜み、中には地に伏して涕泣する者さへあつた。臍の緒切つてから初めて軍隊を引率し、蒙古救援軍の総督太上将に推されて索倫山に向ふ日出雄の感想は、果して何んなものであつたらう。彼方此方の楊柳の樹は、或は紅く、或は黄く、金赤の水引きを立てた如うに梢を飾つてゐる。四十支里を経たる桑噶爾巴と云ふ部落の、ウフンシークの家に休んで昼食を喫し、一時間許り息を休め全部隊の到着を待つた。それより轎車を走らせて午後五時三十分阿布具伊拉に安着し、農家を徴発して宿営することとなつた。四五名の家族で比較的富裕な家庭と見えた。家人四五名が代る代る日出雄や真澄別の前にやつて来て、活仏の来臨と崇敬し、土に跪いて礼拝するのであつた。当家に宿泊した者は日出雄、真澄別、守高、名田彦、秦宣、王元祺、坂本、白凌閣、温長興、馮虎臣等である。其他の将卒は附近の部落の民家を徴発して宿営することとなつた。此夜の口令は春軍と発布した。公爺府を去ること正に八十支里の地点である。見渡す限り目も届かぬ大原野を巡らす風景よき四方の岩山に楊柳、楡の古木が密生し、楡の古木には白き花が咲きほこり、楊の芽は紅く得も言はれぬ風情である。西北に当つて洮児河の清流を隔て、風光の佳い古木の交つた岩山に金鉱を掘出した跡があり、其稍横の方には喇嘛教の金廟の壁が白く夕日に輝いてゐる。何とも彼とも言はれない気分の良い風が吹いて来て、珍らしい鳥は林間に囀り、牛馬、山羊の群は安らかに愉快相に遊んでゐる。
 古人の言つた『初春柳含烟』の句も当地に於ては適用しない様である。凡ての柳は紅い小枝を真直に天に向つて伸ばし、遠目には秋の紅葉の林を見るやうである。『春来柳含火』と言つた方が適当であらう。日出雄は嘗て霊界に於て見聞したる第三天国の光景にそつくりだと言つて喜んだ。『春の山姫は緑紅こき交ぜて我神軍を迎へ玉ふ』と云つて真澄別は勇んでゐる。日出雄はこの曠原を天の原と命名し、裏山の大なる岩窟を天の岩戸と命名した。
    ○
 翌日午前八時天の原を轎車に乗り、二百の兵士を引率して出発した。蒙古の河には一つも橋が架つてゐない。それ故、広い深い河を騎馬にて渡らねばならぬ。日出雄、真澄別の乗つた轎車は浅瀬を考へて、やつとのことで幾つも幾つも河を渡り、四十支里を経たるヘルンウルホに宿営することとなつた。斯かる所へ洮南から後を追つて来た轎車が三台、又もや色々の食料品を積んで来たのに途中で会つた。此間の道筋は実に麗しく大公園の中を通過する様であつた。途中で唐国別からの手紙五通を受取つて、奉天や日本の情報及び新聞の切抜きにて、露、支、蒙の関係を知つた。
 公爺府以西北の日出雄が通過した地点は、沢山な木材が天然の儘に遺棄されてあり、水田に適当な沃野が開闢以来、手持無沙汰に際限もなく横はつてゐる。こんな所を開墾して穀類を植付け、又は鉄路を布いて樹木を伐り出し鉱物を採掘したならば、実に大なる国家の富源を得られるであらうと、日出雄、真澄別は道々話しつつ進んで行つた。此日は都合に依つて僅か四十支里の行軍にとどめ、日出雄一行はヘルンウルホの公園の如き麗しき原野の中を衛兵等に先綱を取らせ、騎馬にて愉快気に駆け廻りなどして、半日を費した。山羊、豚、犬、牛馬なども沢山に飼つてある。此等の家畜を友として、暖かき春の日を送つた。此処には露人と蒙古人との中に生れた十歳位な愛らしい色の白い混血児が一人あつた。そして其母親といふのは、少し許り垢抜けのした女であつた。此夜の口令は完備と発布された。東西南北の山々は火事を起し、都合五ケ所から天を焦して燃え上り、炎の先がチラチラと雲を舐めてゐるのが見える。そして此夜は満天墨を流した如く曇り、一点の星影も見えず、犬の吠ゆる声、殊更かしましく聴こえて来る。坂本氏のオチコ、ウツトコに関する無邪気な話や、名田彦が内地にある妻を追想して、オチコ、ウツトコ、ハテナの話に面白く一夜を明かした。
 あくれば四月二十八日午前五時半、ヘルンウルホの宿営を出発し、幾度も河を横切りて下木局子に向つて進むこととなつた。世界各国の言語に通じ、柔術の達人、米国理髪学士、乗馬の達人と言うて居た名田彦の騎馬姿は却つて危く見え、まだ一度も馬に跨つた事の無い真澄別、守高の両人は、チヤンと姿勢が備はつて今迄に乗馬を練習した人と見えるなどと、兵士が口々に評し乍ら、長い行列を作つて西北の空を目当てに進み行く。索倫山迄行かねば乗馬が揃はないので、徒歩の兵士が沢山あつた。そこらに遊んで居る驢馬を引つ張つて来て之に跨り、木局子の近辺迄行つて驢馬の首を東南へ立直し、尻をポンと叩いて放ちやつた。驢馬は一目散に元来し道へ馳せ帰り行く。二十支里程の此方から索倫山の頂が見えて、白く雪が光つてゐた。護衛兵の馮虎臣は日出雄に山頂の雪を指し、
『あの山の麓が最早や木局子で厶います。モウ少時で御座いますから御安心なさいませ』
と云ふ意味を支那語で語り聞かせた。日出雄一行は勇気頓に加はり、轎車を出でて駒に鞭ちつつ午前九時二十分に無事下木局子に安着する事を得た。総司令盧占魁は二百許りの兵士を引きつれて我一行を迎へ、直に手を取つて司令部へ案内した。此の司令部は広大なる城廓構へで、四五年前迄は露国兵が駐屯し木材の税金を取つて居た所だと云ふ。普通の蒙古の家屋と異り、建築物も余程宏荘であり、美麗である。今は黒竜江省の管轄に属し、黒竜江から官吏が出張して事務を執つて居る。
(大正一四、八、筆録)
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