谷間を通り抜けて広大な草野に面した山すそで、開魯の軍隊から威嚇射撃を受けた。その間、真澄別はゆうゆうとその様を見物しており、日出雄は車の中で悠然と寝転んでいた。
盧占魁は応戦するなと言ってその場を駆け抜けた。十五日にはまた山間の通路で王府の兵が攻撃を仕掛けてきた。今度は盧占魁の部隊は応戦の構えを見せて追い払った。
続く六月十六日には、民家の付近で休息を取っている間に後方を王府の兵に襲われ、盧占魁の右腕である曼陀汗が戦死したため、盧占魁はいたく力を落とした。
真澄別は再び盧占魁に行く先を糾したが、盧は「先生方は安全地帯に滞在していただき、その間に自分は奉天に帰って、張作霖の誤解を解いてくる」という返事であった。
十八日に沼地にでくわし、盧占魁自らが御者となっていた日出雄の車はたちまち土中に半分ほどもめり込んでしまった。引き上げようもなく、仕方なく解体してようやく全部を復元すまでには、かなりの時間を費やしてしまった。
日出雄は神勅に、パインタラに行くのは薪を抱いて火に飛びこむようなものだ、と出たので、盧占魁に伝えた。盧占魁はただ、大丈夫です、と言ったのみであった。真澄別は神勅に敬意のない盧占魁の態度に不安を覚えた。
その夜、露営所に日本人が集まって評議がこらされた。猪野軍医は従卒の蒙古人に村民の噂を調べさせたところ、パインタラには盧占魁討伐の軍が数千も出動準備をしているということだったという。猪野は銭家店まで案内するから、道筋を変えたらどうか、と提案した。
一同は盧占魁を呼んできて、猪野軍医の報告と提案を告げた。しかし盧占魁は、自分を討伐するなんてありえない、自分が安全なところまで連れて行くので心配するな、と言うのみであった。
六月十九日、ラマ廟を出発してパインタラに向かう日の午後、パインタラ方面から吹き来る風はますます強くなり、姿勢正しく馬上にいることに危険を感じるほどであった。日本人一同は、不吉な予感を感じていた。
宵闇の中、日出雄の一隊は進めども進めども、同じ場所に戻ってしまい、先頭部隊との間が離れてしまった。真澄別は白孤が気をつけているといって心配したが、日出雄は進まなければ仕方がないと答えた。
翌朝、盧占魁の伝令によって呼び起こされることになった。