文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名313 蘿竜の話よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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OBC B124900c15
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本文
先生は蒙古で清吉兄さんの娘であるという蘿竜という人に会われたというのです。
お筆先では、清吉兄さんは死んでいないと言うことになってましたので、これは死んでしまってもう居ないということであると言う人と、まだ死んではいない、生きていると言うことであると言う人もありましたが、私は清吉兄さんはお筆先で、日の出のご守護となっていましたから、なにか深いご守護のもとに、お仕組のことで支那に渡られたように思えてならなかったので、私は先生からラリョウの話を聞いたとき、人とは別な気持ちで驚かされたのであります。
先生の蒙古入りのことは、ずっとあとで詳しく述べますが、大へん深いお仕組でまだ先でないと、このことを言うても、たれにも通じないことでありまして、やがてこのお仕組が実地にまわってくるのであります。
先生が入蒙されたときは、方々から馬賊と言われておるものが、先生の徳を慕うて集ってきたのであります。馬賊と言いましても、あの時に先生を一番援けてくれた慮占魁にしても、みな馬賊といわれておりますが、あの人も立派な方でして、あの時分の満洲としてはああいう形で働いていたので、慮占魁も馬賊と言われることを残念がっていたそうです。
そういう人びとが集ってきた中に蘿竜という女馬賊の頭目がおりまして、それは蒙古のようにまだ開けておらないところにおいておくのは勿体ないほどの美しい人であったそうです。そのラリョウが先生を一目みるなり、なんとなく先生を慕うてきまして、先生の理想を聞くと、大へん喜びまして、先生のために三千の部下をつれて生命がけで尽くしたいと言ってきたのであります。それが上手な日本語で話してきましたので先生も不思議に思われたと言うことです。
それから夜になってラリョウが先生と二人きりで話しをしたいと言うので、テントの中のラリョウの部屋に行かれましたとき、初めてラリョウの身の上ばなしを聞かれたのであります。
ラリョウの父は王文泰という名でした。
王文泰という人は北清事変の時に日本の新聞にも載った人で、先生もその時の新聞で王文泰のことを読まれたときハッと感じておられたそうです。それで先生が蒙古に行かれた時、日本人であることを秘すため、王文泰と名乗られたのであります。まずラリョウが驚いたのは自分の父の名と同じ名の人が出てきたことでありました。そのことをラリョウが先生に言いましたところ、先生が、私は本当は日本人でデグチ・オニサブロウというものだと言われたので、ラリョウは更にびっくりして私の母は蒙古人でしたが、父は日本人でデグチと申しておりました。父は初め台湾にいたことがあったようです。蒙古ではラシンキチ(蘿清吉)と名のっておりました、と打明けたと言うのです。
デグチ、ラ・シンキチ、タイワン
不思議ですなア、先生が北清事変のころに王文泰という名を新聞で見て感じておられたことが本当であったのであります。
先生は蒙古で清吉兄さんの娘さんに会われたのであります。ちょうどその晩はよい月夜でありましたそうで、ラリョウはコキュウというものを弾いて先生にきかせたそうです。
清吉兄さんは台湾から上海の方にわたり、それから北京の方でも仕事をされ、蒙古で先生の考えておられたと同じようなことを目的にして仕事をされていたそうです。蒙古というところは、神界からは理のあるところでありまして、大本にあることは不思議なことばっかりであります。先生が蒙古にわたられました三年ほどまえに、蘿清吉と言うておられた清吉兄さんは張作霖の軍隊にとらえられ、そうしてそのまま帰ってこられなかったと言うことです。そのあとラリョウも先生のパインタラの御難のとき盧占魁という方といっしょに、可哀そうなことになったのであります。
この清吉兄さんと同じように、私たちのきょうだいは、教祖さまの子と生まれ、それぞれにみな神様のお仕組みでいろいろのことをさせられています。私の兄姉にあらわれていることの中には、世間ではいみきらわれていることがでてきますが、これはみんな神様から世界の型をさせられていたので、その一つ一つに理があるのであります。神様は他の人にはさせられない一ばんいやな悪の型を、教祖さまの子にそれぞれ負わせられたのであります。このことは教祖さまの筆先にも、
「誠善一つの御道は、他にキズは附けられんから、わが血統に厭なことはさしてありたぞよ。未だに出口なおのひっぽうにさせてあるから、何事もよく出口なおの血筋の所作がらを見ておいて改心をいたさんとわれ好しの行り方では……これまでは好きなようにして行けたなれど、二度目の世の立替えをいたしたら、全部行り方を代えてしまうから、云々」
とあるとおりであります。こういうことの小さな型は世の中で悪人と言われている人のなかにもあることで、人としては善い人でも悪の行を負わせられ、させられているという人もありましょう。一がいに人を頭から悪人じゃときめることができない理もここにあると思われます。しかしこれは身魂の因縁というてなかなか難しいことであります。
私の兄や姉にでてきますことは、入りくんでいますが、まことにあらましのことだけを書きわけておきます。