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文献名1幼ながたり
文献名2思い出の記よみ(新仮名遣い)
文献名36 尉と姥よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c34
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本文の文字数4785
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本文  私もこのごろは、すっかりとタバコを止めまして、タバコの代わりにお水を頂いとりますんじゃ。これはいくらいただいても、いただくだけおかげがありまして、まことにけっこうなものです。だいたい私はいぜんからお水が好きでして、冬でも夏でも汲みたてのお水を、どんぶり鉢にまけん大きなコップでしじゅうに頂いております。この大本は、月日と土の恩を実地に教えるところであります。人は月の神様のご恩でありますお水を頂いておれば、よいお蔭を頂くことが出来ます。
 きょねんの暮、亀岡天恩郷の大本の事務所が焼けました時、まことに不思議なことがありました。その時焼け跡から、木彫りの尉と姥のご二体が現われなさったのであります。あの晩は、舞鶴にも大火事がありまして、ツルとカメの両方から火の手が挙がり、暁のさし潮の時刻で、神界ではまことに芽出たい火事でありました。なににしましても非常に火の手が強く、机といわず本箱といわず木のケのものは大方は焼け焦げていますのに、その木彫りの尉と姥だけは、着物のがらまでそのままで残ったのであります。初めは灰をかぶって出てきましたが、お水で洗いますと、すっかり元のきれいなお姿が表われてきたというのであります。
 この尉と姥のうち、初め姥の方は警察に焼け跡から出てきた他のものといっしょに行ってられたのでありますが、帰っていただき、ここにご夫婦でおそろいになったのであります。
 これは不思議とかなんとか言うておったのではまことに申しわけのないことで、こんどできます大八洲神社に地の高天原のご神体としてお祭りさしていただこうと思うております。
 ごかいそのお筆先に──尉と姥とがあらわれて、松の根もとの、大そうじをするぞよ──というのがありまして、この松の根もとということは大本のことでありますから、わたしはこの筆先の意味はどういうのであろうと、なが年不思議に思うて来たのであります。そのなが年の謎が、このたびの尉と姥のできごとで解けたのであります。
 私はむかしから筆さき以外の本は、読ましていただいたことも、また他のほうめんのことを聞かしていただいたこともないのですが、イザナギノミコト、イザナミノミコトという名でおがんでいます神様が、尉と姥のご夫婦の神様のことであると思っています、又これは艮の金神さま、坤の金神さまのお活躍であります。これは私がじっと考えてきましたことであります。イズノミタマ艮の金神国常立之尊さまは丹後のメシマに、ミズノミタマ坤の金神豊雲野尊さまは播州の高砂沖の神島に世をしのんで、かげのご守護になっていたのでありますが、時節がきて綾部の新宮坪の内、元のお屋敷におかえりになることになったのであります。
 教祖が神懸りになりまして、
「でぐちが本で大島が入口、竜宮館の高天原の宮屋敷と相定まった、この神屋敷は、この方の住居をするところ、悪人どもが汚してしもうて、もとの神屋敷にもどしてしまうぞよ」
「ばっし(末子)のおすみどの、おきて下され、四方の屋敷にいって水をふってきて下され」
と叫ばれ、夜さりに起こされたのですが、言うことをきかぬと叱られるし、うろうろしていましたが、けっく、言い付け通りにしてきたのであります。近所では寝耳に水で教祖様にドなられ……なんぞおなおさんはわしらに怨みがあるのやろか……と言うていました。そのうち教祖さまの力になってくれる人ができて、神様のお還りになるこの屋敷を返してもらうことになったので、これにはいろいろ古い信者さんが骨をおられた苦労がとものうています。
 そうして綾部の神苑がだんだんとととのうてきまして、ある日、先生が“竜宮の乙姫の池”を掘れ、と言われまして、それが綾部大本神苑の金竜池のはじまりであります。そのころまだ信者は少ないし、神さまはせかれるし、大変なことでありました。高台の屋敷地でしたからサツマ薯が植えてありまして、いくら掘っても石ガラばかりでて、水が出ようはずがありません。町の人々は、
──金神さんの先生があんな高いところに池を掘ってナニするのやろう、水のないのに──と言うて、笑うていました。私も人間心で水が出なんだら神様はどうなさることかと心配していました。そのことを先生にいうと、
「神様が言われるから掘るんじゃえい」、「とにかく掘ったらええんじゃ」というわけです。ところが、どこまで掘っても水がでてきません。私は先生に、
「ほんまに阿呆なことして、よい笑われもんや、なした男やいや、この男は」と、そこは夫婦のことですから言うていましたが、先生は一生懸命です。
「まあおすみや、みておれい」というわけで信者さんを指図しておられました。当時は先生が京、大阪に宣伝にゆかれ、宣伝にゆかれる時、
「しっかり掘らしとけよ」と言われて出かけられましたが、神様の方では、いついつまでに掘ると決っていても、その理を言われんから、私は肉体心でさほどに思うていませんので、余りやかましく言わなんだのです。そうすると夜になって帰って来て、家にもよらず、
「池みにいってくる」と言うて、えらい勢いで池を見に行かれました。ところが自分の言うただけの仕事ができてないので、
「おれが帰るまでに掘っとけと言うたのに、まだ掘れとらん」
と、その時の先生はスサノオノミコトの神がかりで、私はトビ上がるほどに驚きましたが、大きな声で、
「どいつもこいつも出てうせい」
というように叫ばれて、それから池の工事場に大きな木をくべて、辺りがマッ赤になるほどの焚き火をして、役員、信者の老人も婦人も集めて夜なかの十二時ごろ、雪みぞれのふる中を大そうどうになり、私もびっくりして池掘りをしました。
 なんぼ神さまのお仕事というたて、この裏夜中にと思うて、小面にくいほどでしたが、あまり先生の勢いが強く、光秀のしたように、仕事中にまごまごしたり後ろ向いたら刀で首でも斬るというほどのケンマクでしたから、そのお蔭でとうとう池が掘り上がりました。そのころ綾部の町会議員や町の有力者が質山の水を引いて、防火用水にしようと工事をしていましたのが、その水路がどうしても大本の屋敷を通さんと困るというので、大本にそのことをたのみにきました。ちょうど金竜池の掘り上がったのと、質山から町の用水路が大本に入るのと同じ日でして、心配していた水も、池が掘れたその日からどんどん流れこむことになりました。そうして大本の池をとおって町に流れてゆきました。むかしから
──人の手をかり口をかり、でけんことをさしてみせる──
と言われていますが、あの時ばかりは、さすがに私もなんということだろうと思いました。
 それから又、土をやっともり上げて、おかしなものをこしらえてや、と思っていましたが、これが冠島山、沓島山、神島山になったのであります。
 オシマ、メシマ開きがあったのは明治三十三年であります。それから大正五年の五月ごろでした。わたしは門の材木に腰をかけ、尚江をだいて涼んでいましたが、先生は家の中の管長室にじっといて、眼をつぶったり、あけたり、また眼をあけたり、つぶったり、そんなことばかりしておられます。これは霊眼でなにか見てられるのでありますが、「先生、なにしていなさる」ときいても返事もなく、なんにも言わずにただ眼をあけたり、つぶったりしてられる。ちょっとみると気味が悪いのですが、それが大へん尊く見えるのです。これまで先生が何か言われると、私がよく反対したので、それで何にも言われんのかと思うて、「先生、反対せえへんさかい、言いないな」と私が言いましたが、同じことです。それからしばらくして先生は「わしは穴太の高熊山で神懸りの時にゆく先のことをすっかり神様から見せられたが、教祖さまが裏町の小さい倉をかりてられたことや、教祖さまといっしょに神さまの御用をするようになることや、大本の屋敷のことまで、一さいがそのとおりになって何んにも違わんが、高熊山で霊眼でみた時は金竜海の池にオシドリが浮かんどったが、いまはそのオシドリが居らんな」ということを言われました。私は「そうですか」と言いますと、また先生は「こん夜は、坤の方の沖あいにホウラクを伏せたような島があるのを神さまがみせなさる。ちょうど大八洲さんの池にあるのと同じ形の島が海のまん中に見えるのや」と言ってられました。
 それから眼の下のところがウズきだし、それが痛んで四十八日目にシャリ(舎利)になってでました。私はそのシャリを見ると神島さんの山と同じ姿ですので「先生神島さんの山と同じものですが」と言いますと、「大切にしまっといてくれい」ということでした。それから或る日「おすみ、今のところが知れた」と言って寝とられたのが寝まきのままで起きてこられ、早速にでかけるから誰にも言わんと用意をしてくれと言われて、出かけられました。これは大阪の谷前さんに、「こうこういう島があったら知らしてくれ」とたのまれてあったので、その返事が来たからであります。
 そうして四五日たって「カミサマノオトモヲシテカエル」という電報がきました。教祖さまが、どうしたことかとご神前にいっておうかがいをされると、
──尊い神様のお還りであるからオミトを開いてお待ちうけせよ──
ということでした。
 その時ふと私のこころに金竜海の神島の姿が浮んできましたので、私は神前においてあった草で神島の型をつくり、それを三宝にのせました。その草は教祖さまが弥仙山の岩戸がくれから出てこられた時に、弥仙山で採られた狐カズラが神前におかれたままになっていたものです。
 その狐カズラで神島さんが出来上がりました。そのとき、私のこころに、こんどはお月さまがお出ましになると思いましたので、お月さんの形の石を探していますと秋岡さん(故亀久雄氏)が、それなら私の家の庭にあります、と言って自分の持っていた石をくれました。その石で、ミロクさんが半分出かかったところの作りものが出来上がりました。その前に尉と姥をおき、松と梅をかざり、目出度いと言うので鯛を供え、そうして神島からミロク様がお上がりになるのをお待ちうけしました。これは考えてしたのでなく、その時ふと心に浮んだままを知らずしらずのうちに作っていたのです。
 先生は神島にかくれてられた坤の金神がのりうつられ、信者にはその眷族の神々がかかって、元屋敷にお還りになりました。そのとき先生が私に下された土産が高砂の尉と姥の絵ハガでありました。
 それから、播州の神島にお宮がたって、初めて教祖と先生がいっしょに参拝された時のことであります。この時に初めて教祖は先生がミロクの神さまであるということを神さまから聞かされなさって、非常に驚かれたのでありますが、祭典が終わって、参拝したものが、舟つき場のところに降り、そこで腰をおろして海の景色を眺めていますと、山の上から松の枝が二本降ってきました。これは先生が折って投げられたのでありますが、誰もなんのことか分からんので、うっかりさわって叱られでもしたらと言うので、そのまま浜の砂の上に落ちてきたままにしておきました。その時そこに遊んでいた私の娘の姉の一二三と妹の尚江が、ちょこちょこと出てきて、その松の枝を一本ずつ拾ってそこを掃きだしました。尚江がたしか三ツだったと思いますが、それをじっと見ておられた教祖さまが、
「おすみや、これを何と思う、こどもがしとるのでない、神さまが実地をみせていなさるのやわいな」と申されましたが、この時、一二三と尚江が尉と姥の型をしたのであります。

    ○

      すみ子

 末法の世の終わりなりみろくの世に
  なるもならぬも心なりけり
 日の御恩月のお恵み土の恩
  はなれて人の住むところなし
 地の神の恵みさとりて増産に
  はげめば悪しき虫も去りゆく
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