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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第1章 >4 信徒の指導と巡教よみ(新仮名遣い)
文献名3巡教よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ991 目次メモ
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本文 〈出雲・伯耆へ〉 教主就任後における初の巡教は島根・鳥取への旅であった。一九五二(昭和二七)年の五月三〇日、教主は日向良広を随行として天恩郷をたち、夕刻松江についた。島根別院(現島根本苑)で役員・信徒、中国地区各主会の代表者等多数の出迎えをうけ、旧五月八日(五月三一日)の記念祭典にのぞんだ。この祭典は島根別院が、一九四六(昭和二一)年聖師夫妻の全国初巡教をむかえた五月八日(新暦)を記念して、毎年執行してきたものであったが、このたびは、二代教主昇天(三月三一日)後間もないころであったので、旧暦の五月八日に日をあらためておこなうことになったものである。
 教主は六月一日菅田庵と楽山窯をたずね、茶わんをつくり皿の絵付などをなし、さらに夜は別院における信徒芸能の夕に出席した。二日地恩郷別院にむかい、別院の祭典に臨席したのち多数の信徒に面接した。みずから点じられた抹茶が信徒に供され、また揮毫がなされた。三日鳥取県法勝寺分苑中曽良逸邸につき、主会の春季大祭にのぞんで一泊し、付近信徒の陶芸家安藤明の工房をたずねた。分苑で揮毫ののち、大山村下種原の農場にむかい、夕刻には望郷楼についた。五日乗馬で四〇町歩の農場を視察し、開拓農民の労がねぎらわれた。六日馬で大谷まで下り、米子にでて帰亀した。教主はこの巡教中、信仰とともに生活のなかに芸術をもとめることの幸福を説いた。

〈紀州へ〉 一九五二(昭和二七)年七月一六日、教主は伊藤栄蔵・日向の随行で紀州巡教にむかった。主会からのむかえの人々や途中からの同行者もあって、信徒の送迎のなかに勝浦につき、湾内の中ノ島旅館におちついた。一七日、一行数十人と那智の滝を見物し、那智神社へ参拝した。那智神社の神紋とされているナギをめで、その苗木をゆずりうけて帰亀後、その苗木は花明山植物園に植えられた。三和崎からは付近支部の信徒百数十人の出迎えをうけ、快山峡の山本恒次郎の別荘(梅松館)に入った。ここは聖師の最後の巡教地となったところでもあった。ちようどその日が聖師巡教の記念すべき日にあたっていたので、信徒らは往時をしのんで記念祭典を執行した。一八日には新宮からプロペラ船で熊野本宮へ参拝し、ふたたび新宮へ下って速玉神社へもうで、熊野三社の参拝をおえた。こうして一行は中ノ島旅館にかえった。
 一九日勝浦会会所をへて正午串本の黒潮館につき、付近各支部の信徒等に面接し、浜木綿の咲く潮ノ岬を散策ののち、田辺市にむかい、主会長吉田光成宅についた。祭典後信徒三〇〇余人に面接し、二〇日、田辺をたって御坊の南蘭支部にむかった。二一日、支部で短冊・色紙に染筆の後、延寿浜の大松原を観賞し、和田支部にたちよって、湯浅分苑堤清彦邸につき、ここでも多数の信徒等にたいする面接がなされた。夜は教育会館で分苑主催の大本講演会がひらかれている。翌朝揮毫ののち、分苑をたって大阪阿倍野支部につき、二三日に帰亀した。
 この巡教は信徒への面接や揮毫などきわめて多忙な旅であったが、紀州には綾部とおなじ本宮・新宮などの地名があり、自然の景色にも、歴史のふかみがやどされていたし、その感懐は「開祖・聖師の労苦のおかげて、どこへいっても結構にしていただいて本当にもったいない」と、側近の者にもらされた。またその余暇には八雲琴の練習にはげまれている。

〈金沢歌祭り〉 一九五三(昭和二八)五月一日に、教主一行は亀岡をたって金沢へおもむいた。出口栄二夫妻・出口虎雄をはじめ多数の人々が、教主に同行した。駅頭では数百人の信徒が出迎え、教主は嵯峨保二の別邸山水居に入った。二日、教主は加賀宝生能楽堂における大本楽天社加賀分社主催の歌祭りにのぞみ、加賀宝生家元佐野吉之助らの奉納仕舞を観賞し、金沢分苑(現北陸本苑)では多数の信徒と面接がなされた。三日、分苑の春季大祭にのぞみ、もと、前田侯の家老邸であった分苑の広大な庭園での直会や、午後の信徒大会に列席した。
 四日と五日は山水居で古画・絵巻物・陶器を観賞、フロリダ山法師(アメリカ山法師)の下で作歌などをした。また白樺にかこまれたあずまやの炉辺での歓談はつきなかった。フロリダ山法師は、アメリカ・フロリダ州の山間に自生するミヅキ科の植物で、日本では一〇ヵ所程度しか移植されていないとされている。先年教主からめずらしい植物であるとされてわかったものである。六日金沢を出発し、片山津温泉柴山潟畔の矢田屋別館に入り、二泊して八日に亀岡へ帰った。

〈東北へ〉 金沢から帰亀してほどなく、五月一三日には教主は東北巡教の途にのぼり、沿線信徒の送迎をうけて、東京の千代田支部へついた。随行は日向、東京から先は竹内敬(花明山植物園主任)が同行した。一四日には、関東各主会の役員・信徒に面接し、一五日には東京をたって米沢についた。駅頭には小泉源一博士や信徒多数の出迎えがあり、教主は米沢支部の三段崎みち宅へおちついた。一九二二(大正一一)年、二代教主らとともに出羽三山の登山旅行のさいにたちよったその日からかぞえて、三二年ぶりのことであった。竹内は天恩郷から持参した桜の標本や写生図をもって小泉宅へむかった。桜についての権威者である博士は、その桜が新種であることをみとめ、教主の発見にちなんで「コノハナサクラ」として登録し、世界の学界に発表することを約した。
 一六日、教主は信徒と面接、各家に扇子、会合所には短冊を揮毫ののち、白布高湯温泉にむかい、東屋旅館で二泊した。付近の吾妻山・飯豊山一帯は植物の豊庫ともいわれているところであり、教主は山菜摘みに、また竹内は小泉博士の案内で、吾妻山・関根・赤湯・宮内・飯豊山一帯を採集してあるいた。そのさい採集された植物は亀岡天恩郷の花明山植物園へおくられた。教主は一八日関根会合所、一九日米沢・山形をへて山辺支部につき一泊、二〇日には肴町・小白川両支部へでむき近在支部の信徒らとの面接があって、染筆の扇面・短冊・花明山焼などが信徒にわたされた。二一日は同支部で信徒百数十人に面会して、赤湯温泉羽黒荘に一泊、二二日には、かつて月山登山のさいにたちよったことのある旅館近江屋にうつった。この日、赤湯支部では教主による信徒の面接があり、近江屋では巡教を機として、山形・秋田主会の宣伝使・信徒の研修会がもよおされた。
 こうして八日間にわたる山形県下の巡教をおえ、二三日朝、赤湯をたち、米坂線の今泉駅から乗車して新潟県に入り、新潟市の旅館小甚別館柳雪荘に入った。二四日には、揮毫百数十点ののち、海員会館で開催された新潟県信徒大会にのぞみ、二五日は、新潟・新潟白山支部、川上キン宅等にたちよって、上越線廻りで東京にむかった。途中沼田駅に下車し、上州三国山脈の奥山峡にある法師温泉で二泊し、仏法僧の嗚声や山菜摘みに旅情をなぐさめ、また作歌などがあって、二八日は前橋市桜井博宅、二九日には東京駿河台ホテルに泊った。三一日には、世界救世教明主岡田夫妻からの新設美術館の開館の招待に応じて、箱根強羅におもむいた。夜は箱根元宿の津田彦次郎宅に泊り、揮毫や信徒の面接をおこなった。六月二日には、小田原支部をへて熱海から亀岡へむかい、こうして二〇日間にわたる巡教がすまされたのである。
 その後、五月の巡教にもれた各県からの懇望があって、教主はふたたび、一〇月七日に東北巡教の旅にたった。随行は出口新衛・日向で、八日には金沢山水居に一泊の後、九日秋田へ直行して秋田支部長高橋栄二宅についた。一〇日、秋田支部で信徒に面接し、さらに秋田をたって、青森主会長佐藤雄蔵邸にむかった。一一日、青森では、北海道からたずねてくる信徒もあって、青森県宣信徒大会や茶会がひらかれ、一二日、十和田へむかった。信徒等は二台のバスに分乗して同行し、子ノロから遊覧船で紅葉の十和田湖をめぐり、休屋に到着した。教主は新築の科学博物館付属宿泊所へ二泊して、博物館の見学や十和田神社へもうでた。
 十五日に十和田を出発し五戸支部へたちよって、隣村の立花医学博士をたずねた。尻内駅から乗車して岩手県に入り、盛岡支部の中村伝七宅に一泊した。一六日は南部地方に古くからつたえられている紫根染・茜染・秀衡塗・南部釜・鉄瓶を観賞して、南部公城趾で記念撮影ののち、盛岡をたつ。稗貫支部をへて花巻温泉松雲閣に投宿し、信徒二〇〇余人に面接した。一七日は平泉にゆき史蹟毛越寺・中尊寺をおとずれ、本坊・金色堂・宝庫等を観賞して、宮城県松島について白鴎楼に泊った。一八日は松島湾を一巡し、塩釜をへて仙台につき、梅林旅館で大槻主会長ほか信徒二五〇余人の出迎えをうけた。梅林旅館では宮城県信徒大会がひらかれ、夜は教主の歌集『ちり塚』刊行祝賀会と茶会とがあった。一九日には福島県の白河につき、松平楽翁公の遺蹟南湖公園の宿に泊り、翌日は関所跡や蘿月庵(茶室)を訪問、二一日には、染筆ののち中野清行主会長・神宅等にたちよって、夕刻上野駅着駿河台ホテルに入った。
 東京では楽天社出張所「瓔珞」の開所式にのぞみ、東京本苑の候補地や建物の検分などがなされて、二七日には東京を出発し、二八日に帰亀した。この巡教によって遠隔の地方信徒等は教主にしたしく接する機会をえて感激した。教主は東北の農業や生活の実情にふれて、物心両面にわたってたちおくれている点をつよく指摘され、いっそう宣教・愛善みずほ運動につとめるようにとの教示があった。またそのさい、教団として、東京にしっかりした宣教の拠点をもつべきことを指示されたが、これを機会に、東京本苑の建設も促進されることになった。

〈東京本苑開設と箱根〉 一九五四(昭和二九)年三月、東京都台東区池之端七軒町一番地に本苑を開設(二章)することになり、教主は二二日に東上し、二五目に鎮座祭が執行された。教主は二八日まで滞在して信徒に面接し、二九日箱根の津田宅別棟の清明居完成式にのぞんで、三一日帰亀した。ついで五月一五日ふたたび東上して、一六日の東京本苑開設祝賀祭に臨席した。祭典には来賓、本部・全国各地区代表者、関東地区信徒等が多数参列した。祭典後は有楽町読売ホールで信徒大会、夜は人類愛善の夕のもよおしがおこなわれた。一九日、世界救世教明主夫人の岡田よし子にまねかれて箱根をとい、美術館を見学して、二〇日は瓔珞の春季特別展観にのぞみ、二一日亀岡へかえった。その後教主の上京の機会がおおくなり、一一月には世界連邦第二回アジア会議に列席し、そのおり金子孚水宅で国宝錦絵を観賞し、箱根強羅の美術館・世界救世教や津田宅にもたちよった。
 一九五五(昭和三〇)年五月には、信州巡教からひきつづいて東京本苑大祭と、水道橋能楽堂における第一回関東歌祭、一〇月には三越百貨店での花明山織込手東京展観にのぞむ。一九五七(昭和三二)年まで春・秋の東京本苑大祭ごとに東上されているが、昭和三二年には茨城主会天国の城分苑その他への巡教や、一一月には、三越での花明山焼作品展、根津美術館の観賞、さらに熱海・箱根の世界救世教本部の訪問などがある。
 一九六〇(昭和三五)年四月、教主は皇居園遊会に、宗教界代表の一員として招待され、一二日に木の花帯の服装で参列した。そのおりに、〝上も下もよくなれよとの大本の神のみ教へをしきりに思ふ〟との歌がよまれている。五月四日には、水道橋能楽堂にて宝生会創立七十周年の記念能のもよおしがあり、教主は能「猩々」、広瀬麻子は舞囃子「七騎落」、出口京太郎は笛に、それぞれ出演した。教主による演能は、これがはじめてのことである。その後、同年一一月六日には、水道橋能楽堂で「羽衣」、昭和三六年四月七日には京都観世会館で「藤」の出演がある。一方、昭和三五年一一月二七日には、東京本苑増改築完成祭にも臨席されているが、このように毎年の東京本苑の春・秋季大祭にはかならず教主の臨席をみるようになる。

〈山陰巡教と歌祭り〉 一九五四(昭和二九)年五月六日、教主は亀岡をたって綾部に一泊し、島根別院(現島根本苑)の歌祭にのぞんだ。随行には出口虎雄・日向がくわわり、八日に別院の大祭と歌祭が挙行された。参集者は五〇〇余人で、教主の献詠歌、〝赤山の里にふたたび歌祭仕へまつると集ふ神の子ら〟〝みろくの世の足音近づく赤山の山の松風おともさやかに〟〝赤山の山の松風人類の幾曲事を伊吹き払へよ〟の朗詠があって祭典をおわり、夕食後には教主によって赤山の舞台での舞囃子「草子洗」が舞われた。九日地恩郷別院で信徒に面会し、一〇日宇賀荘支部をおとずれ、父祖伝来の和染を観賞され、大山農場で二泊の後一三日亀岡へかえった。その間一一日には農場巡視ののち、教主参列のもとに二代教主の歌碑、〝ほうきたいせんすのおほかみのまちにまちたるこのしごと〟の除幕がなされている。
 その後の教主山陰への巡教は一九五八(昭和三三)年五月で、七日に菅田庵をたずね、八日の島根別院春季大祭にのぞんで、みろく台に記念植樹をなし、一〇日には大山農場開設十周年記念祭への出席があった。また一九六〇(昭和三五)年一二月一二日には、島根本苑開明殿の完成式、一三日には新穀感謝祭典に臨席した。この行事には、総長・本部関係者のほか各本苑長・近隣主会長、地元の官公庁・各団体の来賓等多数出席し、盛大に祭典が執行された。

〈北陸巡教〉 一九五四(昭和二九)年九月八日、北国新聞社本館竣成式・同社創業六十一周年還暦祝賀会がおこなわれることになったので、教主は、出口伊佐男総長・出口栄二・出口虎雄・出口光平・広瀬静水・金重七郎左衛門を同伴して、七日に亀岡をたって金沢へむかった。五日新社屋の会議室に大本皇大神を奉斎し、式は八日に本館屋上でおこなわれた。来賓には文部大臣大達茂雄、小田島日本新聞協会長、柴野石川県知事ほか全国・地方各界代表等一三〇〇余人で、教主は特別来賓として参列した。式場で嵯峨保二社長は、出口王仁三郎聖師を終生の師とあおぎ、「聖師なき現在は出口直日先生を師と仰ぎ、その導きによって私の人生の一切を処し」新聞人として平和社会の建設に努力したいと、大本の信仰に立脚した力づよい挨拶をのべた。教主は郊外の湯涌温泉・白雲楼での祝賀会にのぞみ、一〇日金沢分苑(現北陸本苑)の臨時大祭、一一日の山水居の月見の宴に出席し、一二日は庭園のすすきにむかって写生の筆をすすめ、一三日には亀岡へ帰着した。
 その後一九五五(昭和三〇)年五月一日、教主は亀岡をたって金沢の山水居で数日滞在して、フロリダ山法師の写生にいそしみ、六日には新潟の室長旅館に入って、信徒に面会、ゴッホ複製展を観賞し、早大名誉教授の会津八一をたずねた。八日には新潟日報ホールでひらかれた第一回新潟歌祭にのぞみ、九日には市内の新潟白山・新潟支部、川上宅へたちより、一〇日に帰亀した。
 一九五七(昭和三二)年三月三日には北国新聞社屋増築・北陸放送社屋竣成記念式・分苑臨時大祭に、また一九五八(昭和三三)年一〇月一九日には、北陸本苑設置・完成報告祭に臨席した。なお、二〇日には北国新聞社講堂で、本苑設置を記念して、出口伊佐男総長、D・M・ウース、牧野虎次元同志社総長の講演会がおこなわれ、一八日には嵯峨保二の還暦をいわって、教主から祝歌と手造りの茶碗六一・小皿一〇〇がおくられた。一九五九(昭和三四)年一〇月一八日には、金沢女子短期大学竣成式、本苑大祭・慰霊祭等にのぞまれたが、その年の一一月一八日に大本審議会議長・北陸本苑長の嵯峨保二がにわかに帰幽した。箱根でそのしらせをうけた教主は本部葬の礼をおくり、弔歌をおくって生前の功をたたえ、その霊をなぐさめられた。なお同年四月五日には参議でもと東海別院長の桜井信太郎が帰幽し、教主から本部葬の礼と弔歌がおくられている。
 一九六〇(昭和三五)年一〇月には北陸本苑の秋季大祭・宣信徒合同慰霊祭にのぞんだ。さらに一九六一(昭和三六)年には七月一四日富山へ巡教し、一五日呉羽山・大内・新湊・伏木・雨晴と大伴家持の遺跡をたずね、一六日立山弥陀ヶ原へ登山して本苑にたちよる。一〇月ふたたび金沢へ巡教し、一四日には直山与二邸(石川製作所・北日本紡績株式会社社長)にまねかれて、北国新聞社講堂での田中緒琴の八雲琴公開演奏会に臨席、一五日の本苑大祭にのぞんだ。なお一六日には嵯峨保二の墓に嵯峨家の遺族とともに参拝し、その後も北陸への巡教はしばしばなされている。

〈信州巡教と皆神山登山〉 一九五四(昭和二九)年九月、教主による皆神山登山があり、出口新衛・日向の随行で四日亀岡をたって金沢の山水居で一泊、二五日に長野支部長本道きせ宅についた。二六日皆神山登山のため松代町にむかい、山麓の栗林宅で少憩して駕籠で出発したが、この日は台風一五号が接近しており、時折りの降雨もあって、付近の村落では多少の被害もでたほどの天候であった。山路にさしかかるころより、教主による「神言」の奏上がつづけられ、山頂では祭典に臨席して人類平安の祈願がこめられた。祭典後社務所で「父の言葉によりますと、皆神山というところは、神代において素盞嗚尊が初めてヒラカを焼かれた処で、焼ものの発祥地であるということであります。父もこの山から帰って楽焼を始めたのであります。……私もこの後よい茶わんが作らして頂けるのではないかと、ひそかに喜こんでおります」と信徒に話された。拝殿では富山・新潟・長野三県の信徒等が北信連合会を結成して、一同松代に下山した。教主は栗林宅で少憩後、上田市の工藤友太郎宅に一泊、二七日から二九日までは霊泉寺温泉和泉屋に滞在した。入湯のかたわら、写生と八雲琴にいそしみ、三〇日には中込の長野主会長柳沢岩蔵宅で一泊、清遊の後、一〇月一日東京本苑へむかった。三日には観世能楽堂で観能ののち、五日亀岡へ帰着した。
 その後一九五五(昭和三〇)年五月の巡教では蓼科高原にのぼり、一九五六(昭和三一)年九月には長野主会と信越の宣信徒が協力して、皆神山に木花咲耶姫神社社殿が新築されたので、ふたたび教主の登山があった。一五日に亀岡をたって長野市に一泊し、一六日の完成祭に臨席した。地元松代町では商工会・氏子総代・松代大本会など全町をあげて協力し、祭典には八田町長・小林町会議長・町民・信徒等八〇〇余人が参拝、春原宮司が教主染筆の神体を、旧社殿の木花咲耶姫の木像とともに鎮祭した。祭典後、教主は松代町への社殿引渡し式をすまして、上田市へたちより、一九日に帰亀をみた。その後信濃路へは、一九五九(昭和三四)年六月に、東京をへて旅だたれている。

〈近畿地方へ〉 これまでにも教主の、京都・大阪への出向はたびたびあったが、大阪市西成区聖天下二丁目四番地に大阪別院(現大阪本苑)が設置され、一九五七(昭和三二)年八月一八日に京都・和歌山・播州等から信徒六〇〇余人が参集して、大神鎮座祭および開院式がおこなわれた。教主はこれにのぞみ、以後、大祭には参列または代理を派遣するなど、大阪への出向もおおくなった。

〈東海地方へ〉 一九五五(昭和三〇)年一二月中旬には東海分苑(現東海本苑)桜井信太郎邸および一色の高須安一宅の茶室(教主によって無私庵、羅孚庵とそれぞれ命名)開き、一九五七(昭和三二)年九月二八日には、定光寺の桜井秀之丞邸で竜神の祭典と舞台開きがあった。教主はこれらにのぞんで、愛知・岐阜県信徒等との面接がなされた。一九五八(昭和三三)年一一月二日、東海本苑の大祭に出席し名古屋分苑にたちより、二一日には大国以都雄・出口光平が随行して、吉原市富士別院の秋季大祭および二代教主歌碑建立七周年記念祭にのぞんだ。別院では祭典後、多数の風船に和歌をしたためた短冊をつるし、平和の祈願をこめて大空にはなった。一九五九(昭和三四)年一〇月一三日には、伊勢湾台風の被害地を見舞い、東海本苑で現地の報告をきき、全信徒に「七転八起のだるま」が染筆下付された。一九六〇(昭和三五)年二月二〇日、熱田神宮能楽堂での辰巳孝一郎追悼能で舞囃子「羽衣」をつとめ、故人の霊をなぐさめた。そしてその年と翌昭和三六年の秋の大祭には臨席されるなど、東海本苑へも度々出向をみている。

〈中国地方へ〉 一九五五(昭和三〇)年六月五日、教主は岡山県牛窓分苑の開苑式にのぞんだ。途中岡山市の後楽園廉池軒で信徒と面接し、また金重陶陽の案内で岡千代吉宅をたずねて秘蔵の陶器を観賞し、牛窓では一福旅館に宿泊した。一九五六(昭和三一)年四月二〇日には、出口新衛・伊藤栄蔵が随行して山陽巡教にたち、岡山北分苑・福山分苑にたちよって、二二日鞆分苑の地鎮祭にのぞんだ。二三日鞆からは海路尾道支部にむかい、広島駅に到着して、雨のなかを原爆慰霊碑の前に花束をささげて、広島主会についた。主会では信徒との面接・揮毫があって、二五日には厳島神社に参拝し、宝物・能舞台等を拝観して、紅葉谷の岩惣旅館に投宿した。二六日は山口県に入り、柳井分室をへて小月分苑植田瑞穂宅につき、分苑と主会にあつまる六五〇余人の信徒に面接し、二九日帰途についた。

〈四国・九州地方へ〉 四国へは一九五〇(昭和二五)年一〇月に九州からの帰途巡教がなされているが、教主就任後は一九五六(昭和三一)年七月に、香川・徳島県へ巡教し、白鳥分苑松風亭の茶室開きにのぞんだ。その後小松島の別院大祭や、池田分苑への巡教などがある。
 九州へは一九五〇(昭和二五)年一〇月、福岡から各県を巡教して秋の耶馬渓を観賞し、別府より四国への旅がつづけられる。一九五三(昭和二八)年一一月一四日、出口新衛・日向をともなって亀岡をたち、一五日に、福岡県京都郡椿市村の八千代分苑開苑式にのぞんだ。開苑式には九州各県・山口主会から多数の信徒があつまった。一七日には、山口県萩の山本市太郎邸につき、一八日指月城跡・松陰神社・松下村塾などをたずねて往時をしのび、支部へもたちよって、一九日に帰亀した。
 その後一九五五(昭和三〇)年一〇月二三日、八千代分苑の聖師歌碑「大道」「新生」の再建除幕式および分苑大祭・福岡主会物故宣信徒慰霊祭にのぞんだ。一九五九(昭和三四)年九月一日、八代支部沢田豊記宅へ泊り、二日夜不知火町永尾神社の麓西山共同館に宿をとって不知火を見学し、三日元八代藩主松井明之邸をたずね、能衣裳・陶器・書画・古文書などをみて日奈久温泉に一泊し、富田焼の窯場をたずねて五日に亀岡へ帰着した。

〈北海道へ〉 一九五七(昭和三二)年六月一五日、教主は伊藤を随行として北海道巡教の途にのぼり、一六日東京本苑大祭に出席して、五〇〇余人の信徒に面接し、銀座の人類愛善新聞社(北国新聞社東京支社内)をたずね、一七日羽田飛行場から空路干歳へ旅だった。札幌市では熊谷宅にたちより、山部駅へ到着、多数信徒の出迎えをうけ北海別院(現北海本苑)へ入った。一八日は別院で臨時大祭、一九日慰霊祭等にのぞみ、村長はじめ村の有力者や信徒に面会し、二一日記念植樹の後、山部を出発し札幌へむかった。札幌では長沢栄一宅の茶室八窓庵にたちより、魚澄為楽作の銅羅のすんだ韻に耳をかたむけ、洞爺の大和要蔵宅に泊って、二二日には昭和新山を見学し、二三日の夜、青森分苑についた。二四日、浅虫の東北大学臨海研究所をたずね、信徒面接に多忙な巡教をおえて、二五日帰亀した。
 教主は一九五二(昭和二七)年五月の山陰初巡教以来、全国各地へおもむき、大祭にのぞみ、多数の信徒と面接し、懇切な指導と、染筆の信徒への授与があった。この間歌祭・茶室開きにのぞみ、能舞台にたち、また日本固有のすぐれた芸能・古美術の観賞、史蹟や自然の探勝、槓物の採集などにも意をもちい、地方の風物にふれては歌をつくり、信徒へも作歌や茶道をすすめるなど、信仰と芸術がむすびついたゆたかな生活をするよう、折りにふれてこまやかにさとされた。巡教によって信徒はしたしく教主に面接して感激し、いっそう信仰をふかめ、かつ高揚したのである。

〔写真〕
○須臾の間も本を手に…… 巡教中の教主 p993
○自然をたずね……野の草花に詩情をよせて…… 小塚源一博士(右)とともに 吾妻山麓 白布高湯温泉 p994
○教主は皇居園遊会に木の花帯の服装でのぞまれた p997
○教主をむかえた信徒はよろこびにあふれ神業奉仕の誓を新たにした 島根本苑開明殿完成式 松江 p999
○熱田神宮能楽堂で舞囃子羽衣をつとめる教主 地謡左から辰巳孝 宝生九郎 p1003
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