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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第3章 >2 第一審の公判(京都地方裁判所)よみ(新仮名遣い)
文献名3第一審の判決よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ533 目次メモ
OBC B195402c6325
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本文  大検挙以来四年三ヵ月の歳月がながれた。一九四〇(昭和一五)年二月二九日、京都地方裁判所の陪審大法廷において、いよいよ判決の言渡しがおこなわれることになった。公判がはじまってからでも、昭和一三年に佐藤善四郎(愛善)、一四年に国分周平、一五年の一月五日に湯川貫一が病死し、出口元男は公判を停止されるなどの犠牲があいつぎ、この日法廷に列席した被告人は五五人であった。被告人の入廷後、弁護人一同列席し、ついで庄司裁判長、大西・黒坂両陪席判事、立会の田辺検事が入廷した。九時一五分裁判長は開廷を宣し、まず判決理由の朗読に入った。一回の休憩もなく読みつづけ、最後に判決主文が言渡された。全被告人にたいし、つぎのとおりの有罪の判決があって午後一時一五分閉廷した。その判決は被告人と信者の期待を無残にもうちくだくものであった。

   主文
被告人出口王仁三郎ヲ無期懲役ニ、被告人出口伊佐男ヲ懲役拾五年ニ、被告人井上留五郎、東尾吉三郎、高木鉄男ヲ各懲役拾弐年ニ、被告人出口すみヲ懲役拾年ニ、被告人御田村龍吉、大深浩三ヲ各懲役八年ニ、被告人桜井同吉、西村昂三、森慶三郎、桜井重雄、河津雄次郎ヲ各懲役七年ニ、被告人湯浅斎治郎、広瀬義邦、藤津進、中村純一ヲ各懲役六年ニ、被告人出口貞四郎、田中省三、土井靖都、山県猛彦、藤原勇造、木下愛隣、瓜生鑅吉ヲ各懲役五年ニ、被告人出口新衛、北村隆三、細田東洋男、松田盛政、長野久洽、徳重敏雄、井上省三、細田市左衛門、国分義一、森国幹造ヲ各懲役四年ニ、被告人桐村満蔵、中野与之助ヲ各懲役参年六月ニ、被告人比村中、伊藤伊助、中部新助、鈴木常雄、岩佐守、木村貞次、吉野光俊、関由太郎、武田仙蔵、竹原弘、富井徳太郎ヲ各懲役参年ニ、被告人米倉恭一郎、波田野義之輔、浜中助三郎、笹岡康男、安藤武夫、児玉知二ヲ各懲役弐年六月ニ、被告人中野隆次、石山喜八郎ヲ各懲役弐年ニ処ス

※この判決に適用された治安維持法、不敬罪、出版法、新聞紙法等についての法律はつぎのとおりである。
(治安維持法─昭和三年六月二十九日改正)
第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス(第一項)
(刑法第二編第一章皇室ニ対スル罪)
第七十四条 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ処ス神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタルモノ亦同シ
(出版法)
第二十六条 皇室ノ尊厳ヲ冒涜シ、政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ紊乱セムトスル文書図書ヲ出版シタルトキハ著作者、発行者、印刷者ヲ二月以上二年以下ノ「軽禁錮」ニ処シ「二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ附加」ス
(新聞紙法)
第四十二条 皇室ノ尊厳ヲ冒涜シ、政体ヲ変改シ又ハ朝憲ヲ紊乱セムトスル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキハ発行人、編輯人、印刷人ヲ二年以下ノ禁錮及三百円以下ノ罰金ニ処ス

 諸新聞は一せいにこの判決を大きく報道した。「大阪毎日新聞」(昭和15・3・1)はほとんど一頁大の報道をし、そのなかでつぎのような「法廷雑観」をのせている。「妖教大本の断罪の日は来た。春まだ寒き廿九日、こゝ京都地方裁判所の法廷前には、定刻卅分前には緊張し切った元信者二百余が押しかけ、百五十枚の傍聴券が忽ち出切ってしまった。定刻九時には、全被告が紋付羽織、背広姿で行儀よく着席する。間もなく王仁三郎を先頭に伊佐男、すみの順に深編笠を片手で抑へながら羽織を着込んで、廷丁に導かれ入って来た。かつては部下として仕へた被告らに軽い目礼を投げ、被告席最前列に着席した。四年余の歳月に王仁三郎の頭髪はごま塩となり、半角刈に奇麗に剃り込んだ顔は、昔の艶々しさなど消へ失せてゐるが、独房の生活に廿二貫の体身が却つて引締つてゐるやう。伊佐男はこれも奇麗に刈込んだ半角刈に、そして昔の神経質な顔は幾分消へ失せて大胆な落着きさへ見せ、囹圄の生活が模範囚といはれた謹厳さを見せ、すみは銀杏まげ、廿三貫の肥満の体身に血色の衰へが微塵も見られない。九時七分庄司裁判長の入廷で一同起立敬礼すれば、裁判長は『長時間にわたるから着席したまゝで』と前置きし、直ちに判決理由書が読まれてゆく……傍聴席の最前列にゐる伊佐男の妻八重野の眸は、父や夫の背に焼きつくやうに注がれてゐる。十五名におよぶ林逸郎氏以下の弁護士は、或ひは腕組みに頬杖に熱心に聞き人つてゐる……時折大西陪席判事の差出すコップの水を口にしながら続けること実に三時間五十分、当裁判所開設以来の長記録をつくつて午後一時五分漸く終了。その間ぢつと聴入る被告席に、王仁三郎一人が汗を手拭でふきふき一番行儀か悪い。……一段と口調を高めた裁判長は厳かに被告全員に起立を促し、夕刊所報の如き判決文を朗読するや、法廷はサといひ知れぬどよめきを見せる。『出口王仁三郎無期懲役、出口伊佐男懲役十五年』と順々に言渡されるのを満廷固唾を呑んで聴入ってゐる。言渡し終るや林弁護士はすつくと立上り、『弁護団を代表して即時控訴の申立をします。ただ今の判決は弁護人の見解と全然相反し、有罪を失当とするによつて、刑事訴訟法第三百七十九条により控訴の申立を致します』と憤然といひ切るのを、裁判長はあたかも予期してゐたかのごとく一瞥も与へず、閉廷を告げて立去つた。四時間ぶつつづけの法廷は事件が事件だけに聊かのだれ気味も見せず、終始緊張、閉廷後も王仁三郎、伊佐男、すみの三人は他の被告人達になつかしさうにいひ寄り、廷丁に促されながらも傍聴席の元信者の顔を求めるごとくに眸をなげかけ、王仁三郎は判決に不服と見へて何やらブいひながら、再び深編笠をかむり肥満の体身を重さうに退廷」と報じている。
 弁護団はこの判決を不服とし、即日控訴の申立てをしたが、林弁護士は代表してつぎのように語った。「判決がどうであらうとも、輝く日本に一人の謀反人なしとの私の信念は微塵も動揺しない。さらに研究を加へ、論陣を新にし。て控訴に臨む決心である。……本日の証拠認定に当つて説諭された証拠は、私らを断じて承服せしめるものではないよって法律が定めてゐる限りのあらゆる方法によつて、あくまで真実の証拠発見に邁進する覚悟である」(「大阪朝日新聞」昭和15・2・29)。
 公判は一〇五回にわたって開かれ、被告人たちは予審訊問調書の事実に相違する点を強調してうったえ、弁護人もそれらを立証して弁論をおこなったにもかかわらず、判決では証拠としてほとんど予審訊問調書を採用した。庄司裁判長が法廷で被告人の弁明を「よく判つてゐるから」と途中で制止して聞かなかったこともしばしばあって、被告人はこれに期待をよせていたが、結局全員有罪になってしまった。また証人も被告人たちに有利な証言をしたが、採りあげられなかった。大本抹殺の既定の方針は、強大な国家権力を背景として裁判にも波及したのである。
 第一審における弁護事務所の活動は、この事件の総記録二六〇冊、一〇万一七〇〇枚(二〇万三四〇〇頁)のうちから、弁護資料として必要なものをつぎつぎと謄写し、これを弁護人に配布しなければならず、実に多忙をきわめていた。またぼうだいな大本文献のなかから有利な証拠を準備する作業もなみたいていではなかった。しかも徹底的に押収・焼却され、きびしい監視のもとにあって、ひそかに隠匿された信者の手許から大本文献をあつめることには、たいへんな苦労がともなった。これには主として波田野義之輔と木庭次守があたっていた。なお第一審判決書は一〇〇頁をこえるものであるが、その謄写には一七日間をついやし、これを弁護人・被告人の全員に配布し、第二審への準備とした。このころ弁護事務所は、資金の関係から、中京区竹屋町柳馬場西入ル南の山下彪方の差人事務所にうつされていた。
 またのちに、林弁護人が「当時は自動車はないし、汽車はすしずめでガタガタだし、だいたい汽車が少ないのだから、汽車には一番困った。にぎりめしを焼いて三食くらいもってゆかんとだめだった。……仕事がかけもちだったから、月水金と火木土と京都と東京にそれぞれ用事があって、寝台で往来し、どっちかで泊るようにしていた。今から考えるとよくやったね」(「林談話」)と語っているように、他の事件にたいする弁護とかけもちの多忙ななかを、一〇五回におよぶ公判をたたかいぬいた弁護人たちの労苦も大変なものであった。
 第一審のおわったころ、赤塚管財人に委託されていた大本管財会計は、動産・不動産や債権などの処分をすべておわり、収入源もうしなわれていた。しかも支出はかさむ一方で、弁護資金はますます涸渇しつつあった。そこで赤塚は第一審判決後整理をすまし、昭和一五年五月三一日をもって管財の会計を大本側の東尾吉三郎に引渡した。その収支は上表のとおりであった。
 この表でみると、処分された土地五万余坪、建物二〇〇余棟、現金・預金約一五万円、債権約一〇万円(『中村純一検事聴取書』)等による総収入は、わずか三二万四四〇六円にすぎない。しかも総支出三一万七九八一円の四四%にあたる一四万円が、財産管理事務費・建物碑石類破却費・租税公課・債務弁済などについやされ、信者の更生救済や被告人の差入費にあてられたものは全体の三三%の一一万八二七二円で、直接裁判に関係のある刑事訴訟費としては、わずか五万四九八九円、全体の約一七%が支出されたにすぎない。これは大本を根だやしにしようとする当局の圧力が、管財の末端にまでおよんでいたためである。しかし債務弁済・租税公課等に七万五一九五円が支出されて、債務・預り金の返済や買掛金・租税公課の支払いなどは一切清算され、第三者に迷惑がおよばないよう十分な配慮がなされた。これは王仁三郎の指示にもとづくものであった。
 なお大本関係の北国夕刊新聞社、および丹州時報社は昭和一一年七月七日それぞれ譲渡し、東京毎夕新聞社には丹羽野敏明が昭和一二年まで在社したが、ついに退社したので事実上の関係がなくなった。

〈日中戦争〉 一九三七(昭和一二)年七月七日、北京西南郊外の盧溝橋で、夜開演習中の日本軍と中国第二九軍の一部隊との間に衝突がおこった。それは第二次大本事件の予審訊問が本格化しはじめたころである。七月一一日、現地軍双方の間に停戦協定が成立したが、同日政府は軍部の強硬な主張をいれて、ただちに華北派兵の声明をおこなった。ここに局地的な解決の見通しはとざされ、全面的な戦争へ移行した。こうして日中戦争がはじめられ、七月二九日までに、北京・天津およびその付近の要地を占領し、八月一三日には上海で戦闘が開始された。
 一一月には杭州湾に大部隊を上陸させ、その年の一二月には首都南京を攻略した。昭和一二年中に日本陸軍は投入全兵力の三分の二を中国へ派遣している。戦争の拡大にともない日本軍の補給路ものび、列国との対立も激化していった。しかも中国民衆は抗日民族統一戦線のよびかけにこたえて、ねばりづよい抵抗をつづけた。南京陥落後和平交渉がおこなわれていたが、昭和一三年一月には和平交渉をうちきって、国民政府を相手にせず、新興政権の成立発展を期待するとの強硬な態度を表明した。こうして昭和一三年中に戦争目的の達成を目標とする無謀な軍事作戦をさらに強行していった。そして青島・厦門・徐州などの主要拠点をつぎつぎと占領し、一〇月には広東・武漢三鎮を占領した。しかし、中国側は政府を重慶にうつして、徹底抗戦をつづけた。
 日本の軍部強硬派や支配層の日中戦争にたいする判断は、中国は一撃のもとに屈服し、抗日運動はおさまるだろうとのきわめて安易なものであった。事実、杉山陸相は「この戦争は二ケ月でかたづけてみせます」と天皇に上奏したという。しかし、国共合作によって抵抗の組織は強化され、全力をあげて抗日救国運動を展開していた中国民衆による抵抗は、予想をはるかに上回るものであった。日本軍が広東・武漢を占領した時期には、すでに日本軍の「戦略的進行」はゆきづまり、遊撃戦を主とした中国側の反攻準備がととのえられてゆく。
 一方欧州の風雲も急をつげていたが、一九三九(昭和一四)年九月三日には第二次世界大戦がはじまった。昭和一一年一一月にドイとの間に防共協定を締結していた日本は、やがてこの破滅的な大戦争のなかにまきこまれていくのである。
 この間国内政局の変転ははげしく、日中戦争当初の第一次近衛内閣から平沼内閣(昭和14・1)、阿部内閣(同年・8)、米内内閣(昭和15・1)へと政権は交代した。日中戦争のゆきづまり、張鼓峰(昭和13)・ノモンハン(昭和14)での敗北、第二次世界大戦の勃発、日米通商條約廃棄による日米間の危機の切迫など、難局に直面した支配権力は、急速な臨戦・国防国家体制の実現をせまられていた。国民にたいする思想統制もますます強化され、昭和一二年四月には『国体の本義』が公けにされて国民教化の指針を示し、九月には国民精神総動員運動をはじめて、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」のスローガンのもとに、「国体の護持」「忠君愛国」が国民に強制された。
 共産主義はもとよりのこと、自由主義・民主主義にたいする圧迫もはげしさをくわえ、昭和一二年の第一次人民戦線事件、翌年二月の第二次人民戦線事件や東大教授大内兵衛らの治安維持法違反による逮捕、東大教授河合栄治郎の出版法違反による起訴、東大教授矢内原忠雄の追放などと、弾圧の嵐が吹きまくった。
 知識階層にたいし思想や信仰の統制をくわえて、戦争政策への協力を要請する一方、昭和一二年一二月にははやくも日本無産党・日本労働組合全国評議会を解散させ、メーデーも禁止された。労働者・農民大衆のうえにも圧力はようしゃなくくわえられたのである。
 時局の急迫によって戦争経済の確立がいそがれ、昭和一三年四月にはついに国家総動員法が成立した。国民生活の全般にわたって、支配権力による統制が独裁的に強行されてゆくのである。五月にはガソリンが配給となり、六月には民需用綿製品の製造・販売が禁止された。翌昭和一四年七月には国民徴用令が公布され、一〇月には賃金がストップされた。米の不足か目立ち、九月からは毎月一日を「興亜奉公日」とさだめて、梅干一つの「日の丸弁当」が奨励された。一〇月には代用食のいも・そば・うどんが登場し、一二月からは節米運動が全国的に展開されるにいたった。政府は、戦争経済による国民生活の窮乏を、「ぜいたくは敵」というスローガンによって糊塗し、消費節約と貯蓄奨励を説いたが、しかし事態は日ましに深刻化していった。
 戦争の長期化と拡大、ファッショ体制の確立、国民生活の窮乏化のなかで、政行はさらに民衆の思想統制を強化した。昭和一四年の七月には各道府県にもれなく思想対策研究会を設置して、言論思想の自由を形骸化させ、「国体変革」や「不敬」を国賊視する風潮は、さらにひろく国民の間に浸透せしめられていった。

〈判決の反響〉第二次大本事件の第一審判決にたいする社会の態度は、こうした時代風潮を反映してきわめてきびしかった。
 「京都日出新聞」(昭和15・3・1)は、その社説で「我等は犯罪の性質を社会通念的に判断し、一審の判決をもつて当然とするものである。恐らく控訴上告を重ねても之以上の減刑は望まれないであらう」とのべた。また一九四〇(昭和一五)年五月、司法省刑事局の発行した「思想月報」(第七一号)には、第二次大本事件の有罪判決にたいする、被告人や元信者および一般人の意向として、各地検事局や道府県の警察部から報告のあった主要なものを収録している。それには一般人として三〇人の言葉があげられているが、そのなかには極刑に処すべしというきびしい声がすくなくない。第二次大本事件の公判が非公開であって事件の真相がまったく国民に知らされず、しかも批判の自由をうばい、国民教化を強行していた当時にあっては、大本を国賊視する意見が大勢を占めるようになる。
 しかし三代直日によって、〝蟷螂の斧にも似たる憤り口惜しきかもよ力なき身の〟(昭和14年)、〝何の罪いかなる理由にいつとせを繋がる母か憤ろしも〟〝公平なる裁判はなきか今の世に大岡越前守はまさずやと思ふ〟と自己の心情を直截に歌にたくされているように、おおくの信者はこの判決や社会の批判にたいして臆することはなかった。右の「思想月報」には被告人二一人の言葉が掲載されているが、無罪を確信するとのべるものがおおく、ことごとくが第一審の判決を不服としていた。また元信者とみられる七六人の感想をみても、「無罪を信ずるもの」、「判決重きに過ぎるとするもの」、「大本は邪教にあらずとするもの」、「現時の社会情勢は王仁三郎の予言のごとく推移しつゝありとするもの」、「王仁三郎をいまなお偉人として尊敬するもの」など、四六人までが、調べにあたった検事局や警察官にたいして、判決にたいする自己の信念を卒直にのべているのが注目される。
 第一審判決にたいする信者の動静については、内務省警保局の「特高月報」(昭和15・3)にはさらにくわしくつぎのようにのべられている。それには、「各被告等にありては、依然悔悟の模様なく頻りに、……『弁護人や被告の主張を全然容れず、拷問と誘導訊問に依り作成された調書に基き濡衣を着せて了つだ』、『我々の行動は、皇室中心主義に基くもので何等不正なものでは無いから第二審では必ず無罪になる』等の言辞を弄し、以て判決が不純なる外部の勢力に依りて行はれたるが如くに宣伝し、或は偽装の皇道を云為して大本教義に毫末も不逞なかりしものゝ如く吹聴し、……大逆事件に容疑せられたる被告としての謹慎を欠き、不穏当なる言動に出づる者尠からざる状況なり。他方一般の元信者等にありても、未だ旧邪信に対する妄執を精算し得ずして、『我々は今猶出口先生を偉人なりと信じ、予言を信じて新しい希望の実現を期待してゐる』、『あれ程御利益のある教を何故弾圧するのか了解できぬ』、『神だなや御神体を警察の手に渡してから間もなく中風に罹り困つてゐる。若しあの侭信仰を続けて居たならば斯んなことにはならなかつたであらう』等云為し、或は『裁判長は四囲の情勢に押されて止むなく有罪にしたのだ』、『当局としても建物全部を取り毀してゐる手前、無罪にすれば大問題になるので有罪にした』等の言辞を弄して神聖なる判決を誹謗し、或は又教団再建を翹望して、『今の様な時世では時期を待つより外に仕方がない』、『将来必ず大本の正しい事の解る時が来る、その時こそ大本神の意の侭の世になる』、『控訴の結果出口さんが無罪になれば、以前にも増して信者は殖えるだらう』、『そのうちには時代も変り、結社禁止の解かれる時が来ないとも限らぬ』、『三千世界の梅の花一時に開いて、牢門は開かれ、神の光に浴するに至るであらう』云々の如き言動に出づるもの尠からざる実情なり」とのべられている。さらに「其の影響する所甚大なるものあるを以て、斯の如き迷蒙信者に対しては機宜再説得を加へ、不逞極りなき大本教義の邪悪性を悟らしめ、以て完全に離信転向せしむるの要あるべし」とも記されている。
 昭和一五年の二月末、第一審の判決直後に、王仁三郎・すみ・伊佐男の三人の保釈願を弁護人から提出されていたが、三月一日には却下された。そしてそのまま身柄は中京区刑務支所におかれていたが、四月一八日の早朝、王仁三郎・すみ・伊佐男は護送専用の大型自動車に乗せられ、数人の看守が同乗警護して、京阪国道をへて大阪北区刑務支所(大阪市北区若松町八番地)にうつされた。三人は同車していても、看守がそれぞれの間にいて一言も言葉をかわすことは許されず、車の窓にはカーテンがおろされていて外をみることもできなかった。そして大阪につくと囚人服に着かえさせられ、それぞれの監房に入れられた。まさに囚人のあつかいであった。しかし、翌日からは差入れの着物を着ることとなった。検挙以来、京都における警察および刑務所(未決)での生活は、王仁三郎と伊佐男は四年四ヵ月あまりであり、すみは四年一ヵ月あまりであった。
 つづいて四月二〇日には、第二次大本事件の予審調書・公判記録など関係記録二六〇冊、一八万六一一〇枚が京都地方裁判所検事局から大阪控訴院の検事局へ送られた。ついで四万七〇〇〇点におよぶ証拠品は、六三個の木箱と一二行李におさめられ、六月四日にトラックで大阪に移送された。いよいよ第二次大本事件の取調べは大阪控訴院にうつることになったのである。

〔写真〕
○第一審の判決は敗勢に屈して治安維持法を適用し極刑を宣告した しかし大本側はただちに控訴しつぎの法廷戦に憤然とたちむかった 判決をまつ55人の被告人 p534
・天の如き心を持ちて裁き給ふ人無きものかあはれ今の世に・ 裁判官の神社参拝が報ぜられたが しょせんは演出にすぎなかった p536○財産の強制処分による収入にも当局は圧力をくわえ 資金はわずか4年半で消滅した 管財人赤塚弁護士の収支報告書 p538
○昭和10年12月より15年5月までの大本財産処分収支表 p539
○日中戦争は泥沼へおちこみ民衆はさらにおおきな犠牲をしいられた 中国大陸で苦戦する日本兵 p540
○戦争政策が日ましに強化され国体思想が極度に高揚された当時 社会はこの判決に迎合し信者の前途はさらにきびしく深刻になった p543
○不屈の信念は信者の心底をつらぬいた 三代直日筆 p545
○事件は第一審から第二審へ 大阪へ記録証拠品の移送 p546
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