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文献名1聖師伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名36 幼少年時代よみ(新仮名遣い)
著者大本教学院・編
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-04-20 03:19:45
ページ 目次メモ
OBC B100800c06
本文のヒット件数全 62 件/ノ=62
本文の文字数1221
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本文  喜三郎さんは幼少頃から「喜三やん」と愛称されていましたが、神童だとか、地獄耳、八ツ耳だとか言われたくらい、記憶力がよく、どんなことをきかれても即座に立派な答が出来るで、村人達もみな驚いたということであります。
 喜三郎さんが七歳とき、父吉松氏は船岡産土神社祭礼に参拝するために、喜三郎さんをつれて生家へ帰って行きました。そついでに、船井郡雀部漆さし家に立ちより、無病息災ためといって、喜三郎さん腹部へ十数点漆をさしてもらいました。そうすると、身体一面に漆が伝播してカユくてたまらず、さらに瘡になってしまいました。それがために学齢が来ても学校へ行くことが出来ないで、祖母宇能子さんが平仮名から五十音、単語篇に百人一首、小学読本と次々に教えられました。それで十歳春、入学した時には大へん学力がついていました。
 祖母宇能子さんは、か有名な言霊学者・中村孝道家に生まれたで、言霊学造詣がふかく、喜三郎さんは十歳ぐらい時から祖母口から厳霊妙法を説明されて、何時とはなく言霊研究に趣味をもつようになり、人いない山や野に行って大きな声で『アーオーウーエーイー』と唱え、時々人に見つかって笑われたり、発狂人と誤られたこともありました。
 喜三郎さんは、少年時代は他少年らと同じように兵隊ごっこをしたり、川遊びをしたり、相撲をとったりして遊ばれました。
 喜三郎さんは十二・三歳頃から、おぼろげながら社会不正に対して疑いを抱かれるようになりました。みるもいぶせき水呑み百姓伜として、中産以上児童や百姓や地主から、しいたげられた喜三郎少年姿は、そ「破衣」と題する詩一節によく現れております。

    破  衣

 麦と米とたきまぜ飯も
   ろくに食えない百姓せがれ
 足袋は目をむき着物は破れ
   寒さ見にしむ片田舎
 わし人生はこんなも
    ○
 愛宕尾根に白雲かかり
   次第次第にひろがりて
 み空はくらく雨は降る
   農家せわしき田植時
 夜から夜へと働いて
   聞くも楽しいほととぎす
    ○
 冬夜霜にふるえてなくか
   声も悲しい寒狐
 こんこんこんと咳が出る
   人薄ごろも
 如何にしがんこ浮世
    ○
 花は匂えど秋月照れど
   遊ぶに由なき小作せがれ
 若い時から面やつれ
   営養不良悲しさに
 からだいためし秋
   冷たいうきよ風が吹く
 これでも私人生か
    ○
 僕人生はどこにある
   小作せがれぞと
 地主富者にさげすまれ
   父名までも呼び捨てに
 されてもかえす言葉なし
   待て待てしばし待てしばし
 俺にも一つ魂がある。
   (歌集「故山夢」より)

 今に自分が壮年になったなら、小作階級を救おうと考えられたは、こ頃でありました。貧しい家に生まれながらも、喜三郎少年は何か一つとした大きな希望中に生長されたでありました。
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