文献名1暁の烏
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3(四)瑞月聖師の肉筆(書画)についてよみ(新仮名遣い)
著者井上留五郎
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ページ127
目次メモ
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聖師様の肉筆についての霊的現象は、第一章中に申し上げておきましたから、ココには左の事実をお話いたします。
大正十二年夏、聖師様九州行きのおみやげとして頂いたお杓子(お杓子は聖師様の御手と同様のもので現今これを御手代と称う)、また本宮山上に伏せてある平板岩(聖師様ご揮毫の大本教旨が彫刻してあります)亀岡天恩郷の平安石の霊験は、実際驚くべきものがあります。御手代を用いて病気を癒した実例はあまりに多く、もはや普通事となりておりますが、平板岩、平安石についても実に驚くべきものがありまして、ただ一日あるいは二、三日これを撫でて祈願するばかりであるが、不治の大患が全治した例が多くありまして、かのキリストの奇跡的霊能が思い出さるるのであります。要するに御手代にも聖石にもすでにミロクの大神様のご分霊が籠もりているのであって、信仰の程度、祈願の熱誠いかんによりて相応のご神徳をいただくことになるのであります。聖師様ご入蒙当時の説示に、
「本宮山上の吾が筆跡ある平板岩は、吾が再臨の時まで建碑すべからず。大病人その他の心願あるものは、この聖石を撫し、かつ拝跪すべし。吾が精霊たちまち降下して、奇瑞奇蹟を顕現すべし」
神徳も桶伏山の頂上に
手あとのこして月はかくるる
とありまして、最早お互いは病気その他について何の顧慮するところなく、万事を神様におまかせして各自の業務に勤しみ、神業に奉仕しておればよいのであります。また本宮山は未だ桶伏の時代でありまして、やがてこの平板岩が建立された時が本宮山の意義を現すこととなるのであります。
また聖師様は本年二月より亀岡天恩郷において陶器楽焼(真如楽焼と称されている)をお始めになり、茶碗、盃などを沢山造られつつありますが、楽焼の代表者とされておる齋入と云う名工が、今より約五百年前初めて焼き出した一種の硬度結晶即ち齋入焼と云う天下の珍品が続々焼き出されて来たので、専門家を驚倒せしめ、今や斯界の問題となりております。そして聖師御作の茶碗または盃にて茶、水などをいただくと、病気が治ったり酒癖が直ったりする顕著なる実例が随所に頻発しております。
その他聖師様の言霊の威力、また何でも判らぬことのなき理由等は、第一第二章中に大略申し上げておいたから省略しまして左の面白いお話を添えておきます。
大正十三年旧正月三日の教主殿における出来事でありますが、ドウした機会か鼠が一匹聖師様の懐中に飛び込んだまま逃げないのであります。この年は稀に来る甲子の歳、しかも正月三日に鼠とは面白いことであると、そのままにして並松河畔の祥雲閣に行かれ、鼠の曲芸とでも云うように一同大笑いのうちに半日を過ごされ、日暮れに教主殿へお帰りになり裸になって逃がしてやられたのであります。この時も人々が珍しがって見ていたのであるが、普通の家鼠でありました。
聖師様の霊能について、主なる事実は前述の通りであります。その他、開祖様も聖師様も人の心の底まで見え透くのはもちろん、遠き未来まで見通しであり、またどんな難解しい古今の文字でも記録でも直ぐその意義が判るのでありますが、さて、かかる大霊力はそもそも如何なる理由によって来るや、このことはその神格の点また本章ならびに第二章に説くところによってほぼ悟ることが出来るわけでありますが、さらに霊界物語舎身活躍、亥、四十八巻第九章によりその一端を窺知することが出来るのであります。左にその中の一節を掲げておきます。
「……大本神諭の各言句の中に人をして内的証覚に進むべき事項を含蓄せしめある所以は、神格に充たされたる天人即ち本守護神の言語は情動と一致し、一々その言語は概念と一致するものである。また天人の語字(第十五巻第一天国の章参照)はその想念中に包含する事物の直接如何によって無窮に転変するものである。なおまた内辺の天人は言者の音声及び云うところの僅少なる語字によってその人の一生を洞察し知悉し得るのである。何となれば天人はその語字の中に含蓄する諸概念によって、音声の各種各様に変化する状態を察し、これに依ってその人の主とする所の愛と信、及び智慧証覚の如何なるものなるかを知るものである。現界の人間でも少しく智慧あり証覚あり公平無私なる者に至っては、その籍を生きながら天人の団体においているものであるから、対者の一言一句の中に包める意義によってその人の一生の運命を識別し得るものである。人間の想念及び情動はその声音に現れ、皮膚に現れ、如何にしても霊的智者賢者の前にはこれを秘する事が出来ないものである。この一言は愛を含むとか、この一句は親なりとか、彼の一句は勇とか、この一句は智とか、凡て一言一句の際にも顕現出没して、如何なる聖者といえども心中の思いを智慧証覚者の前には隠す事は出来ない。これ即ち神権の如何にしても掩うべからざる所以である。心に悪なく、欲なく、善の徳に充たされたものは従って智性も発達し情動の変化も非常に活溌なるが故に、対者の腹のドン底まで透見し知悉し得るは容易なれども、もし心に欲あり悪を包み利己心ある時はその情動は鈍り智性は衰え、意思は狂い、容易に対者の心中を透見する事は出来ない。故に人に欺かるるものは皆その心に悪と欲と自利心が充満している故である。決して愛善の徳に充たされ信真の光に充ちた聖人君子は、自然界の体欲に迷い悪人に欺かるるものでない。要するに欲深き我よしの人間が相応の理によって貪欲な悪人に欺瞞され、とり返しのならぬ失敗を招くものである。云々」
大正十四年一月十日号神の国(六十五号六十五頁)に、北海道小樽名所、手宮岩洞の岩石に刻してある古代文字を即時に説示された一例が掲載してあります。