王仁DBβ版 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト 文献検索 画像検索 単語検索 メニュー開く
サイトの全面改修に伴いサブスク化します。詳しくはこちらをどうぞ。(2023/12/19)

文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名31 父ことよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c03
本文のヒット件数全 205 件/ノ=205
本文の文字数4141
これ以外の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい 霊界物語ネット
本文  父ことや、母むかしことは、母口から直接に私が聞かされたもです。私は、母そばに一番多くおりましたから、私はいつも、母に抱かれながら本当ことを話して聞かされました。
 私母、大本教祖に関していろいろとまことしやかなウソが伝わっていて、私はなんとかして本当ことと、真実大本歴史を今うちにハッキリさしてもらいたいと思っていましたが、なかなか出来ず、少しは紙にも書いておりましたが、こんど、岡山からこんじんさま御神体が入ってから、思っていたことが口をついて、すらすらと出るようになりました。
 やっぱり時節だと思います。
 それで、父ことから書き初めます。
 父は養子で政五郎といい、実家は綾部近在境で、今も岡八幡神社裏手に、当主四方順三郎といわれる方がついでおられます。四方家はゆうふくな百姓でありましたが、父は宮大工となりました。とても立派な腕方で、まだ汽車開通してないころでしたが、そころ、綾部近在十里四方で父名を知らない人はなかったということです。
 建築をたまれ、図面を引きに行っても、テンゴウ(じょうだん)ばかりいうて、アハハアハハと笑いながら図面を引かれ、それでいてまことに立派な図面が出来上がるに、皆ビックリさせられたそうです。
 腕がよく、どこからも、かしこからも─政五郎さん─政五郎さん─と注文にこられるで、大工仲間からは大変そねまれ、ある夜、石原村吉蔵という父一番弟子が上町喜兵衛という人前まで行くと、夏であるに戸をしめて、家中で大工仲間が集まって何かヒソヒソと話している声がふと耳に入ったで、戸外から縁にこしかけ、ソッと聞いていると、「……政五郎を殺してしまおう……」という相談でした。明治初め日本田舎ほまだこんなもが残っていたです。吉蔵はこれは大変とおどろいて父ところにかけつけてくれ、それで父は翌日、組頭に話してお酒を都合してもらい、それをもって上町大工等ところに行き、話をして事なくすんだということがありました。
 父は、大工仲間にはそねまれましたが、とても滑稽な面白い人でした。子供たちには阿呆口ばかりたたくで、ひどう好かれました。仕事に出かけられますときには、いつでも大工道具を手ぬぐいでグルグルとくくって手に持ち、それからわざとふんどしをプラリとさげ、ふんどし端に石をつつんだりして歩くというオチャリぶりで、父が外に出ると子供たちが追っかけてついて行くといったぐあい人でした。
 父が亡くなってからも、よく私たちは「政五郎さん子供とちがうかいな」と知らない人から呼びかけられ、「あんたとこお父さんはホンマに面白い人やった」と聞かされることがたびたびありました。
 父は、ことほかお酒が好きでした。しかし人からふるまい酒は他酒好きように呑まず、いつでも並松一本木「虎屋」という煮売酒屋が父一生酒呑み場所で、かならずそこへ呑みに行くことにきめておりました。
 そことで世間では虎屋おかみさんと父と間に情交があるように噂して、そっと母ところに告げ口にくる人もあったそうです。(もちろん、母はそような話に耳をかされるはずもなく、父が亡くなってから、母信じていたように父が清廉な生涯を送ったことが世間人にもわかったということを母は話しておられました)。
 父は建前ときにも定った祝いだけは呑みましたが、それ以上はほか大工ようにあとまで残って悪呑みは絶対にしたことがなく、与えられただけ頂くと、さっさと表に出て自分で虎屋へ出かけました。そこで自分金でこころゆくまで呑んでいたそうであります。
 父は家ことなどは考えずに思う存分に呑んでくるですが、母は明日頂く米がなくなっていても不平一ついわれず、父は母心中にも気づかずにただただ呑み暮したようです。
 家暮しがどうにもならないときであろうと、父は、仕事かえりに串柿を十二連(千二百個)もエッサ(沢山)買ってかえり、「ホラみんな食えよ」という工合でトンと家計ことは判らぬ人でした。
 またヒョウキンもで、綾部亀甲屋をうけおって落成祝いとき、そころ綾部に初めて芸者ができてお祝い席に出てきました。他大工は初めて芸者こととて恥ずかしがって顔を赤くし、芸者からおしゃくをしてもらうとキチンとかしこまってお酒をんでいたそうですが、おどけも父はデンと大あぐらをかいて、股間からチョコンと出し、そ先にご飯粒をチョンとひっつけ、知らん顔をしてお酒をんでいたという人でした。
 父と母とは、人もうらやむほど仲よい夫婦でしたが、母は無口なキチンとした方でしたで、父ような人は家で仕事をしていても窮屈だったでしょう。家にいるときは毎日いくたびか表に出て必ず近所家に行き、アーアーと背伸びして「ああ口に虫がわきおった」と言っていたといいますが、父と母とは全く正反対な性格人でした。
 あるとき父が、母福知山におられる妹さんが大病であるというで、そ見舞いに出かけたことがありました。父がつくと病人は危篤で、母実家では「すぐに綾部にいって姉おなおを呼んできてくれ」とたまれたで、父は承知助とばかり、さっそく綾部をさして急ぎました。ところが父は途中で村芝居に出会いました。昔はよくあったにわか小屋建てで、ちょうど石原村まで戻ったところでこ村芝居にぶっつかりました。悪いことには、これがまた父三度飯よりも好きなもで、ちょっと見ているうちにだんだん面白くなり、とうとう大切な用件を忘れてしもうて、こ村芝居に見ほれていただけでなく、巡業村芝居について、そ翌日も家に帰らず、そ間に病人は亡くなってしまわれ、福知山から飛脚が綾部に着いたときにもまだ父は村芝居を追っていたといいます。
 父はまた村集会に行っても、いねむりばかりしていて、「政五郎さん意見はどうや」と聞かれても「あゝよいよい、それでよい」という調子でした。
 そうした父とつれそった母は、八人子をかかえ、口にはだされなかったが、心中ハラハラとして大変なご心労をなされたことでしょう。
 組内人が、私困窮を見るにみかね、ひさ子姉さんが二才ぐらい時に、無尽をしてくれることになりました。昔は無尽をしてもらうと、組内人へ酒一パイもふるまい、食事をだし頭を下げよくよくお願いするです。明日はいよいよ組人が無尽ことでうちに集まってくれるというに、父はどこへ行ったか行方がわからず、いろいろ手配して探したところ、どうやら福知山へ行ったらしいということで、ともかく明日はどうしても父にいてもらわねば、集まってくれる人にすまぬと、母はひとり気をもんでおられましたが、夜十時になっても帰ってこず、つつしみぶかい母もジッとしておれなくなり、何とかして父を連れもどして明日朝、父不在が父恥とならぬよう、他人笑い者にしたくないとて、二才になったばかりひさ子姉さんをふところに入れ、雪しんしんと降る中を福知山に向かわれました。
 そ夜は、雪が道をかくし、寒さは寒し、夜は更けるなり、狐足あとでも、犬足あとでもあってくれたらと思われたそうですが、八幡さんところまでくるは来たも、どうにも動きがとれず、岡実家戸をほとほととたたかれ、夜更けに藁をたいてもらって、こごえる手足を温め、そしてまた道もわからぬまでに降る雪中を歩かれ、とうとう父をさがしあてられたです。
 母は、こことが他人に知れれば夫恥になると、ひたかくしにかくされましたが、組うち一人がどうして知ったか、「おなおさんはどうやら夕べ、あ中を福知山までいっちゃったらしいでよ」と話しているを耳にされ、非常に恥ずかしい思いをせられたということです。
 とにかく、父はそんな工合でしたが、名人肌人で、大工として生涯で、間違いは只一度、柱を一本少し短かく切っただけと聞いています。
 父仕事立派さはかいわいに名を売っていましたで弟子もいくたりかとりました。年期が来ると、そあと一年か二年はお礼奉公をさせるがそころ習慣でしたが、父は弟子が役に立つようになると、かえって年期よりも早く帰したもですから、弟子はみな栄えても、自分はいつも貧乏していました。あまりにお人好しで、貸したお金は催促もできず、建前を請負っても因業なこと出来ない人であったばかりでなく、仕事をすればいつも損をする、といった少しもお金をうちにもってかえることがありませんでした。そために、自分妻や子がどんな苦しい気持ちに堪えているか、というようなことは少しもわからないふうでありました。
 それでも母さまは一言不平もなく
「どんなに貧乏はしても心までは貧乏はせぬわいな」
 と言われてせっせと働かれたです。
 夜分、あたりが寝しずまっているころ父が「おなおや、今年は何貫貧乏したう。いくら借金したう」といわれると、母が「そうですなア」と、うなずいていられるふう寝物語り声が、近所きん助さん家に聞こえたことがあったそうです。
 私生まれたころには、土地や家倉もつぎつぎと人手に渡って、家にこったもといっては、いろは文字と同じ数四十八坪土地だけでありました。
 それが、艮金神さま神霊が初めてお降りになった坪屋敷であります。いまも綾部梅松苑大榎元井戸あるところです。私は三つくらいとき、清吉兄さんは十二歳くらいとおぼえていますが、艮金神さまが母体にかかられたころ母は饅頭屋を始めておられました。若いころ福知山饅頭屋に奉公されていたことがあり、鰻頭作りかたをおぼえられたです。
 夜なべをかけて、きちっとすわられた姿で、母ひかれる大きい石臼から、雪ように白い粉が吹きこぼれて、こころよい不断音が響いていた光景は、いまも目に新しく私に甦ってきます。そして、そ、端然と坐られた、も思い深げな姿が、世神がかかられた頃母につながる印象であります。
霊界物語ネットで読む 霊界物語ネット
オニド関係の更新情報は「オニド関係全サイトの更新情報」を見れば全て分かります!
王仁DB (王仁三郎データベース)は飯塚弘明が運営しています。 /出口王仁三郎の著作物を始め、当サイト内にあるデータは基本的にすべて、著作権保護期間が過ぎていますので、どうぞご自由にお使いください。また保護期間内にあるものは、著作権法に触れない範囲で使用しています。それに関しては自己責任でお使いください。/出口王仁三郎の著作物は明治~昭和初期に書かれたものです。現代においては差別用語と見なされる言葉もありますが、当時の時代背景を鑑みてそのままにしてあります。/ 本サイトのデータは「霊界物語ネット」掲載のデータと同じものです。著作権凡例 /データに誤り等を発見したら教えてくれると嬉しいです。
連絡先:【メールアドレス(飯塚弘明)
プライバシーポリシー
(C) 2016-2024 Iizuka Hiroaki