文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名35 父の死よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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父が病気になりましてから、私たちは遊ぶにも、近所で遊ぶことにして、もし用ができてひさ子姉さんが呼んだら、直ぐに帰って手伝えるようにしていました。
明治二十年の正月がすぎてあるとき、父は「もう一ペん、一杯の酒を心ゆくまで飲んでみたいなア」と、しみじみ言っておりました。母は「はい、今すぐ買うてきますから」と言われて出掛けられましたが、本当は酒を買われるどころか、その日は一文もありませんでした。母はいつでも父に、「早くよくなっておくれなされ、しつかりしとくなされ、欲しいもんがあったら何んでも言うて下されや」と言われて、何を買う金でも始終持っているふうに言われ、ずっと無理をされていましたが、とうとうその日は大切な商売道具の秤を売り払う決心をされました。しかし質屋では、そんなものは質種にならぬと断わられ、屑屋仲間の一人から、二銭を貸してもらわれ、酒を求められることができました。
父は母のまごころのこもったお酒を飲みほしますと「あゝうまい、これでもう思いのこすことはない」と、身も心も充ち足りた表情で話しました。これが父の最後の言葉として、私の耳に残っています。
それからしばらくして父の手足に浮腫があらわれてきました。これを見られて母はびっくりされ、隣りの大島の房はんのところにゆき、「うちの人は死ぬのではないだろうか、もしそうなったらどうしよう」と、心配されていたそうです。父は母の手厚い看護にもかかわらず、明治二十年旧二月七日に六十一才で国替えをしました。
私はその時たしか六つでありました。母はひどく力を落とされまして「天にも地にもかけがえのない唯一人の良人も亡くなってしまわれた。生命は助けて頂けんまでも、せめてもう少しお世話がしたかった」と申されたことをおぼえています。
何を申しましても、その日その日を人一倍働かねば家族を食べさせてゆかれなかった母は、家にもどられるのもおそくなりがちでしたので、父が「おなおはまだか、わしは腹がへってたまらんが」と言われていたことを、あとあとまで気にされていました。
母は父のためには、父が普請にゆかれる後からついて行って、壁下地やら、瓦持ちやら、土運びなど手伝われ、また、父と二人して山から材木を運ばれて、新宮坪の内の屋敷にささやかなその時の家を建てられたなど、その他女手でよくもと言われるまでつくされましたが、父の葬りの式がさびしかったことを嘆かれていました。
父が亡くなりますと、ひさ子姉さんは八木へ奉公に行くことになり、教祖さまが働きに出掛けられますと、ひっそりした家の中で私とおりょうさんとが留守をしていました。