王仁DBβ版 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト 文献検索 画像検索 単語検索 メニュー開く
サイトの全面改修に伴いサブスク化します。詳しくはこちらをどうぞ。(2023/12/19)

文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名323 牛飼いよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c25
本文のヒット件数全 445 件/ノ=445
本文の文字数9709
これ以外の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい 霊界物語ネット
本文  これは明治二十九年頃ことです。私はキサイチというところへ奉公にゆくこととなりました。キサイチというは今何鹿郡作賀村私市です。明治中頃はこ村は非常によく働く所でした。山も耕地も少ないところで、男衆は灘とか伏見へ、酒造り蔵男になって働き、また宇治茶どころへ茶もみに雇われてゆき、村百姓仕事はおおかた女が主になって働きました。そ上、山や野少ないにもかかわらず牛飼いをして収入足しにしていました。
 私が奉公したは、大島万右衛門さんという家でした。私市にゆくことになったは、教祖さまが神懸りになって、私たち暮らしことをかまっておれなくなったからです。それと、私少女時代仕上げ修行を神さまからさせられるためでありました。
 私市にゆく途中、鳥ガ坪というところがあって、ここに茶店がありました。教祖さまはここまで私を送って来て下さいまして、鳥ガ坪茶店主人岡という人に声をかけられて、先には入られると、
「おすみや、ここで一休みさしてもろうてお行き」
といわれ、暗いしずかな土間に私たち親子は一ぷくしました。私はそころ神さまことは少しも分かりません。──こさき母さんはどうされるだろう──と思えば、心配でありましたが、ただ母としてまことに優しい、人として正しい立派さに、私奥深いところでは安心していまして、こ茶店しばらく時間を楽しんでいました。私も王子で大へんな目にあっているで、又こ先どういうことがおこるやも知れない複雑な種々気持ちもありましたが、ただ母といる仕合わせにひたっていました。
 教祖さまは私に菓子を買うて下さいました。王子以来、私はこういう街道一文菓子屋店先に立って、店中に旅人休んでいるところを見るが楽しみでありました。しかし、私は店先に売ってある菓子を買うて食べたことがないで、こ時、教祖さまに菓子を一つ買うてもろうたことは大へんな喜びでした。こうして茶店に腰かけ、菓子をほおばっているところを、誰か近所子供が見ていてくれないが一つ残念なことでありました。
 これは後になって教祖さまからそことを聞いたですが、そ時私は茶店アメ玉を盗みかねまじき性悪い眼付きでいたそうです。王子で暮らしは私心をいためていたです。これを思うとそ本性は良くても、子供ころ悪い環境に育てば、知らず知らずうちに気持ち荒むということが分かります。神さまが叫ばれています立替え立直しは、改心が第一ですが、それには環境改造ということ、政治とか経済立替え立直しということがともなわなければなりません。次々とそうなってゆくことを教えられています。
 私市で仕事は主に牛飼いでありました。ここで初めて百姓生活を知り、手機を習ったであります。ここでなじんだ機織りが、私一生を、染め織楽しみに打ち込ませる発端になったとも言えます。
 私市には二年あまり、足かけ三年もいました。朝は二番鶏が鳴くとヒヤッとしました。二番鶏が鳴くと起きねばならんからです。さあ二番鶏声を聞いて起きると、次々と目廻るように使われ、一日中働き通して、そ苦労は並み大ていではありませんでした。
 しかし、こ時に私は、実際生活上で大切な五つ原則を身につけ得たです。そ原則といいますは、早起、早喰、早便、早浴、早睡です。これだけことが出来れば、それにともうて一切ことはみなテキパキとはかどり、そういう主婦をもった家は、自然に繁栄してゆきます。
 早起きは昔から一年計は元旦にあり、一日計は朝にありといいまして、朝寝をしては、それだけでそ一日は敗けであります。今時代ようにいくら男女は同権といいましても、一家主婦が朝寝をしているようでは家しまりがつきません。私は私市ころ、誰よりも早く起きて、朝準備をさせられたで、いまでも早起き習慣がついて、そため何事によらず人におくれをとらないようになれました。私は農家女中として、主人やおかみさんやそ他七人ほどご飯や汁お給仕をして、一ばん終わりに膳につくですが、ゆっくり食べていては次仕事がつかえてきますから、急いでご飯を頂かねばなりません。三度食事を味わいながら頂くということは大切なことでありますが、それは心持ちかたことです。長い時間をかかって頂くは特定場合だけで、ふだんはやはり早く頂く方が体にもよい。自分仕事に夢中になっておれば自然食事も早くなるもです。世にはソシャクとかいうて良く噛んでたべるとよいと言われますが、本当はどちらでも良いで、ひどい病人は別として元気なもがかんで食べると、胃仕事がなくなるで、丈夫な胃でもしまいには弱くなって働けなくなるもです。暴飲暴食で無茶に胃を酷使すればともかく、普通に腹八分に食べるもは早喰いをする方が、かえって胃も強くなります。それから人間体にとって大事なことは排便で、これは必ず一日一回ないといけません。これもゆっくりと時間をかけないと排泄できないはそれじたい、体どこかに故障があるです。丈夫なもは、すぐに気持ちよく終わるもですから、これも早くすませるようになることです。早風呂も長命秘訣一つでして、床に入れば直ぐ寝つくということも大切なことです。これらは一切を神さまにまかせ、自分勤めに一心こめて働く人には、自然にそうなるもであります。
 私市ころを今想い出すと、ほんまに懐かしいもです。私が私市に行った初め、村人たちは、
「可愛らしい子が来た、町子やろ、こんな子に牛飼わせるもっ体ないなア」とみんな私を見ると珍しがりました。
 大島さん家は、私市大百姓でしたが、そ頃、家増築をしていたで、しつかり財力をこしらえんならんで、家中が大変な働きぶりでした。家にはお爺さん、お婆さん、娘さんほかに男衆と私でした。水田は広い田他に小さい田が幾枚もあり、畠は山畑など入れて広く作っていました。昔百姓は自分食べるは小米や芋などを主に食べ、当たり前お米を食べることは、祭り時か何か時だけでした。これは、主人も召使いも一緒で、小米一升に六、七合麦と大根刻んだもを入れ上手にかきまぜて炊きます。炊き上がるとそ一番白いところを主人が食べ、私等になると大根が大方ところになりました。他に芋や団子が一日に五回もありました。ただ、ご飯時、おかずないが馴れないうちは変なもでした。
 朝、二番鶏が鳴くと「おすみさん、起きてくれよ」と起こされます。
「へい」
と返事して私は直ぐに起きました。二度と言わしたことはありません。こ日々やり方が上手で休むひまなく仕事がありました。次掃除は夜うちにしてしまうがならわしで、夜なべにかかる前には雑炊が出て、それを頂くと毎夜糸紡ぎにかかります。糸つむぎがおわると、拭き掃除がはじまります。ことにカラブキところは力が要るで大へんです。昼間、山へいって雨に降られ、髪も着物もぬれ、けれども着替えるがおっくうなとき、こカラブキ仕事をしていると着物が乾きましたほどです。夜は奉公人は板間で寝ました。次朝二番鶏が鳴くと起き、畠で一仕事して、朝餉を頂きます。朝餉がすむと、村中が、めいめい牛をつれて草刈りに行くです。みんな篭を背に負うて、手綱をもって、
「シッチョイ シッチョイ」
と牛を追いながらゆくです。朝陽きらきらとまぶしい村道を、あちら家からも、こちら家からも出てくる牛が列をなして山に向かって追われてゆく姿は、見事なもです。私市は山地も少ないところで、そ狭い山草で牛を飼うです。山につくと先ず牛を放してやります。牛どもはワレ先にと山に上り、山草をムシッムシッと気持ち良い音をたてて喰べます。そ間に牛草を刈るです。短かい草まで上手に刈りとってゆきます。一寸ばかり伸びた短かい草でも刈りとります。上手な人は短い草をあますところなく刈ってゆくですが、私はどこぞ良いところはないかとアッチにウロウロ、コッチにウロウロして刈るで、なかなか草もたまりません。草を一荷刈り終わると、
「ベエ ベエ ベエー」
というて牛を呼びます。方々から牛が呼び主声を聞いて戻ってきます。ところが私主人牛だけは「ベ……ベエ」と呼ぶと反対に逃げ出し、ますます山へ上ります。近づけばさらに逃げます。これには私も泣き出したい程でした。皆はこ牛を「万右衛門牛」と呼んで性悪い牛として有名なもでした。
 私市は上私市と下私市とに分かれていて、少ない草を守るため山にも半分ずつ仕切りをして、お互いに犯さない定めになっていました。そして両方から山番を出して、いつもグルグル廻っていました。万右衛門牛は、そ境界をこえて、どしどしゆきます。私が牛につききりで番をしていては草を刈ることができません。そうかといって草を刈っていると、よそように、おとなしい牛と違いますから勝手に出歩きます。境界を越えられてはかなわんで牛番もせねばならんし、草もどんどん刈っておかんと日が暮れます。そ困り切ったことは、さすが私も、情けない思いをしました。牛をくくっておけばよいと思われる人もありましょうが、そうすれば家に帰って、
「牛腹が小さい、何しとった」と叱られます。ちょっと油断をしていると牛姿が見えません。やっと見つけてそばにより手綱をとろうとすると、トット、トットと迸げだし林中へ消えてしまいます。すぐさま後を追って、耳をすましていると「ムシン、ムシン」と草を食っています。私は足音をしばせて、そおっと近づきハッと早いとこ綱をつかまえ、やれやれと連れてかえります。これが毎日ことですから、こ牛飼いぐらい手こずったことはありません。こういう苦労も、修行させられていたことを、後になって、神さまから直じきお声で知らされたであります。
 それで万右衛門という人も村で評判、綾部あたり言葉でいうエグイ人でありました。
 夏日も昼寝をさしてもらえん、それだけ昼飯をおくらかして働かせます。そうですから村では仕事がおくれて昼食がおそくなると、誰いうとなく「“万右衛門昼”にしようやないか」と言ったもです。
 雨降る日は家中で仕事をします。夜さりはカラウスをひく。
 それでいつも身体が冷えどおしたで、えらい熱が出てジンゾウ病になりました。蚕をかっている頃でした。便所が近くなり、近所人が豆をおいてカンジョウしてみなと言ってくれたで、一粒ずつ豆をおき朝になって勘定しますと二十八あり、一晩うちに二十八回も便所に通ったことが分かりました。こ病気が出たために私は私市をやめ綾部に帰ることになりました。
 教祖さまは大へん心配なされて、神様に祈って下さって、お松とお土を煎じて飲まして下さいました。教祖さまが祈って下さいますと、すっかり治ってしまいました。こ時、神さまは、
「永らく修行さしたが、ここで一ペん楽にして上げる」
というような言葉で私に話しかけられました。
 私市で一番楽しかったは機織りです。戦時中に棉を植えたことある人は知っているように、棉実から糸をとるです。機械でとった糸ように細くそろっていませんが、手引きには手引きよさがありまして、なんとも言えんよいもです。それを、山つつじ、そよご、かりやすなど材料でいろいろ色に染め、織りにかかるです。トンカラ、トンカラと、ヒすべる音とカマチを打つ音とが調子よくつづくときは、まことに気持ちよいもで、ことに好きな縞目に上がったときは、織っていて機から下りるがつらいもで、いつまでも織りつづけていたいと思います。
 私市で一番かなわなんだは、山で草を刈った後、友だちが集まって、家自慢をはじめるときです。私家はなくなっており、教祖さまもどこにおいでるか分からんころですし、家ことを聞かれるごとにヒヤヒヤしました。ことに綾部水無月祭りはこ辺りでも有名で、みなお参りにゆくです。
「こんどミナツキさんに綾部へいったらアンタウチによるでなあ、どこや教えといて」と言われ、どう返事しようかと思うたが、帰ってもよるところは西町姉さんところですから、
「ワシは西町や」
といいました。
「西町かいな、こんどよるで、なんかこしらえてもらっといてよ」
と言われてひやっとしたもです。
 盆十六日は奉公人休みで、近所人もみな家へ行ったり、来たりします。私もこ日は綾部に帰ります。丁度そころおりょうさんも福知へ女中にいっていたで、鳥ガ坪まで急いでゆき、そこでおりょうさんが福知から来るを待ちました。私がおそい時は、おりょうさんが鳥ガ坪で待っててくれました。明るい夏鳥ガ坪で待ち合いをして帰ったことは今でも眼奥にきりきらと映ってきます。おりょうさんが日傘をさして着物裾をはしおり、向こうから歩いてくるを見つけると「オーイ、オーイ」と呼ぶです。おりょうさんも日傘をあげて「オーイ、オーイ」と返事をします。こうれしさ、二人で、
「オーイ」「オーイ」と呼び合って近づく時気持ちは私たちだけしか知っていないうれしさです。土用田向こう森には蝉時雨がこもっていました。
 私達は綾部に帰るといつでも、自分家がないで、二人で相談します。
「おすみ、どこへゆくや」
「母さん、どこにおってんか」
「さあ、わしも知らんで」
「こん夜どこで泊ろう」
「西町へゆこうかいや」
というと気弱いおりょうさんは、
「わしはかなわんな」
というを無理にひっぱって、綾部広小路におりょうさんだけを待たして、私一人が西町大槻鹿造家へ、交渉にゆきます。
 大槻鹿造という人は、金ある時は元気があって「おすみきたか」と機嫌良い顔をしてくれますが、金廻り悪い時は長煙管端を口にくわえ、しぶい顔で、私が「オッサン」と呼んでも知らん顔をしている人です。私は恐るおそるソーツと西町家をぞいてみましたが、度胸を決めてつかつかと内に入り、
「オッサン今夜泊めてんか」というと、鹿造は「ウン」とうなずいてくれました。私は──やれ嬉しや──と広小路に立っているおりょうさんを手招きして、鹿造ところでおりょうさんと寝ることが出来ました。二人で一晩中しゃべってしゃべって双方が疲れて睡ってしまいました。
 教祖さまは、私達が鹿造家で泊ったと聞かれると、そ日数だけ米とオカズ代は必ずキチンと払われますで、それで私もいくらか気楽に西町ご飯を頂けたです。
 私市にはまだまだ色んな思い出が残っております。
 上私市人は上私市人たちと一緒に、下私市人たちは下私市人たちと一緒に、めいめい篭を背負い鎌を腰に差して、朝露をふみつつ牛を追いながら山へ草刈りに行くでした。
 みんなが一荷刈り終わる頃になると、
「出来たかい」
「出来た出来た」
「そんなら一服しようやないか」
と呼び交しながら、一ところに寄り集っては、四方山ばなしに興ずるでした。こ草刈りに出て来るは、大てい他所からこ私市へ働きに来ている女子でして、一服話といえば、きまって故郷自慢話や、盆や正月に薮入りしたおり愉しかったことを繰り返し懐かしむでした。
 そんな時、休みになって帰る家なかった私は、何とも言えぬ淋しい気持ちに襲われるを、表面はさりげなく笑ってまぎらしておりました。みんなにはたとえ、あばら家にしろ休暇に帰ればお父さんも、お母さんも揃って迎えてくれる家があるに、当時私には、それがなかったです。
 教祖さまは、病人などがあって、神様に拝んであげられると、大へんお蔭が立って、どんどん癒って行くところから、福知山金光教会青木さんからたみに来たり、綾部金光教会足立さんに招かれたり、ご自分家がなくなっているで、福知山と綾部を行ったり来たりしておられたであります。それで私市に奉公に出ている私には、教祖さまが何処におられるかも判りませんでした。
 足立さんは教祖さまお気に入らず、というは神様お気に入らず、そため足立さんところにいても、すぐ福知山青木さんところへ行ってしまわれます。青木さんは、それはそれは教祖さまを大事にされたそうです。何故かと申しますと、教祖さまが行かれると、福知山金光さんにゴヒレが立って、信者がみんな大変おかげを頂けるからなです。ゴヒレというは、御神徳ことです。ですから、青木さんは、教祖さまが行かれると喜んで喜んで、なかなか教祖さまを離そうとしないです。しまいに教祖さまを離そまいとして、私を息子若先生嫁にしようと考えて、いろいろ手をつくしておったそうであります。それ程にされると教祖さまも何となく、人情的に気がひかれておられたらしいです。
 一方、綾部足立さんは教祖さまに帰ってもらわんことには、ゴヒレが立たんで、しきりに迎えにやって来ます。青木さんは、帰ってしまわれては困りますで、居ってくれと頼みます。二人で教祖さま奪り合いをしておったとことです。
 そうしたわけで、青木さんは、私を息子お嫁さんにしようとするし、足立さんは足立さんで、私を自分お嫁さんにしようとしていました。私が久し振りで私市から休暇で綾部に帰った折り、教祖さまは、
「みんなうまいことを考えとるわい。けれども、そんなうまいことにゆかんじゃ。お前は神様お世継ぎで、今はこうしてあらんかぎり修行を神様がさしてござるが末になって見い、神様が“艮金神お世継ぎは末子おすみじゃ”というてござる」
と笑っておられました。
 こように二人が奪り合いをするもですから教祖さまは、福知山へ行ってみたり、綾部に帰ったりしておられましたが、そ間、ずっとお筆先を書きつづけておられたであります。
 そ頃、姉おりょうさんは、福知山新町にあった醤油屋桝井という家に、女中奉公をしておりました。そお給金といえば、一年に七円ほどですから、半期にしますと三円五十銭か四円足らずでした。しかしおりょうさんは、大変冥加よい、つましい人で、そ僅かお給金を頂くと、自分では一文もつかわず、教祖さまに、「これでお筆先紙を買って下さい」といって送っておりました。おりょうさんは、綾部四方源之助さんところ子守り奉公をしていた頃も、以前ミロク殿建っていた辺り竹薮から拾って来た竹皮を売って、そお金で教祖さまお筆先を書かれる紙を買うといったように、おりょうさんという人は大変教祖さまに尽くされた人でした。
 最近霊界おりょうさんに会いましたが、神界で大変に活動をされていて「忙がしい忙がしい」と言っておられました。肉体を持っている時分からずっと引き続き、神界に入られてからもおりようさんは教祖さまお側で、えらい御用をされています。
 しかし、そ当時私としては、毎日毎日田圃に出て、百姓仕事をしたり、山へ牛をつれて行って草を刈ったり、つらいことばかりですで、福知山町家で奉公しているおりょう姉さんことが、うらやましくてうらやましくてなりませんでした。そして私もおりょうさんように、町家奉公がしたいとつくずく思うことがありました。しかし帰ってみたところで、教祖さまが何処におられるかも判りませんし、どうしたもかと思い悩んで、淋しさに襲われることが度々ありました。
 秋が深み、稲が黄金波をうちはじめると、私は稲刈りに田圃へ出て行きます。刈った稲を肩に荷負うて、遠い田圃から、家納屋まで運びました。肩が痛うて痛うて、私にはどうにも堪えられませんでした。ある日、稲を荷負うて運んでいるところを、村人がながめていたらしく、
「万右衛門さんところおすみさんが、泣きもって稲をかついどってやった」
と話していたそうです。そ噂が主人耳に這入って、それからはそ稲を運ぶ仕事だけは止めさせてくれました。
 そ百姓奉公というもは大変つらいもでありました。屋敷内に柿木がありましても奉公人には、見て楽しむだけことでした。私は今でも果物中で柿ほど好きなもはないです。まして子供心に、枝もたわわに赤く熟れた柿実は何にもまして大きな魅力を感じたもです。しかしそれをモイで食べでもしようもなら、それこそ大変なことになってしまいます。せめて熟して落ちているでもと思って、拾ったりしますと、万右衛門さん娘で私と同じ年頃子が何処からかちゃんと見ていて、
「おすみさん、柿が落ちとったら、こっちへ持って来ておくれ」
と声をかけ、取り上げてしまうです。
 今でこそみんなぜいたくになって、何処家でもおさんじ(三時)などありますが、昔はひどいもでした。野良仕事おりは数こそ一日五回ぐらい食べさしてもらえるですが、それも昼食と夕食と間に食べるは、サツマイモとか、申しわけばかりくず米と麦に大根をドッサリ入れた雑炊みたいなもを一碗ぐらいがせいぜいでして、煎豆一つ、柿一つ食べさしてもらうようなことは全くありませんでした。
 そうしたある日ことでした。家人や男衆たちに混じって私も一生懸命稲刈りをやっていました。ザクザクと音を立てて白く光る鎌先が稲株一ツ一ツに快よく喰い込んでゆきます。夢中で刈りつづけて行く中に体中が何時かほんり汗ばんでくるを覚えます。フト目前三、四尺ところに稲株をすけて盛り上がっている赤いかたまりがあることに気づきました。「何だろう」と思って稲を押し分けてぞきますと、三、四十もあると思われるクボ柿が、うず高く積んであるです。頭シン迄じィーんとするようなこ驚きは、今でも忘れることは出来ません。どうしてこんな処にと、不審に思いながら一ツを手に取ってみますと、棒切れで突いたようなキズが付いています。ニツ三ツ、やっとクチバシ跡であることに気付きました。烏が運んで来て、コッソリ稲株中に隠しておいたもらしいです。そ気持ちを何と言い表わしたらよいでしょう。それはそれはもう夢を見ているような気持ちでありました。私は早速一ツを食べて見ました。丁度やわらかくなりかける頃甘さに満ち溢れ舌がトロケてしまいそうでした。残り柿は、刈り取った藁下に隠し、いくらかを帰るおりコッソリ持ち帰って夜になって思うままに柿実を食べました。誰にもやらず独りで食べてしまったは勿論です。私はそ時、キット神様が私にお恵みになって下さったに違いないと思いました。今から思ってもそれは、あまり可哀そうにおぼしめされた神様、お恵みとしか思われません。
 こような思いがけぬ嬉しいことがあって、そ日々が一そう苦しく感じられ出した故か、またまた、福知山町家に奉公しているおりょう姉さんがしきりに羨やましくなり出しました。
「こんなえらいひどいところ、かなわんなァ、何とかして町家に奉公したいなア」と、来る日も来る日も思っていました。ある日、突然、明治二十九年に起きた福知山、大洪水報せが入って来ました。噂を聞いていますと、福知山町では大水ため、流れ死んだ人が何千とあり、そため町家では女中など置けるような家は一軒もなくなったということです。それを聞いて私はびっくりしてしまいました。思い余って万右衛門家を飛び出そうかとまで思いつめていた時でありましたで、ヤレヤレ早まったことをせずに良かったと思うと同時に、もうどんな辛い目にあっても、こ家を去んでは、私いる家もなく、ろとうに迷わなくてはならないと思い、それ以来私はしがみつくような気持ちで、万右衛門家に日を送りました。
霊界物語ネットで読む 霊界物語ネット
オニド関係の更新情報は「オニド関係全サイトの更新情報」を見れば全て分かります!
王仁DB (王仁三郎データベース)は飯塚弘明が運営しています。 /出口王仁三郎の著作物を始め、当サイト内にあるデータは基本的にすべて、著作権保護期間が過ぎていますので、どうぞご自由にお使いください。また保護期間内にあるものは、著作権法に触れない範囲で使用しています。それに関しては自己責任でお使いください。/出口王仁三郎の著作物は明治~昭和初期に書かれたものです。現代においては差別用語と見なされる言葉もありますが、当時の時代背景を鑑みてそのままにしてあります。/ 本サイトのデータは「霊界物語ネット」掲載のデータと同じものです。著作権凡例 /データに誤り等を発見したら教えてくれると嬉しいです。
連絡先:【メールアドレス(飯塚弘明)
プライバシーポリシー
(C) 2016-2024 Iizuka Hiroaki