文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名324 ねぐらよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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十六になって私にも帰ってゆく家が出来ました。教祖さまにお蔭をいただいた人達の手で倉を手入れした、ささやかなお住まいが出来ていました。
家がなくなったのは確か九ツの時でありますから、七年もの間、私達母子が一緒に暮らすことはなかったわけです。私は教祖さまと、このままズッと一緒に暮らせたら、どんなに幸せだろうと、どれほど念じたかわかりません。しかし私の私市での患いもあっけなく癒り、再び奉公先に帰って行きました。
すると、今度はへンナイという病気をわずらい、また綾部に帰って来ました。そしてこの時は西町の鹿造のところで治療しました。病がいえて、もう一度私市で働きました、その間、私市でこんなことがありました。
私は昼間の労働につかれ果て、灯のない真っ暗な部屋で、グッスリ寝込んでいました。ふと、人の気配を感じて眼をさましますと、驚いたことには、枕元にうずくまってる人がいます。何か私を、うかがっている様子です。私は大声で怒鳴りつけ、その男をひどい勢いで、なぐり倒してやりました。男はぎょう天して、腰でも抜かしたのか、足が立たなくなったのか、ごそごそと這いながら逃げてゆきました。これは、一緒に働いている、男衆のリキさんという人でした。リキさんは平素は極く真面目な働きものでありまして、とてもそんなことをするような人柄には思われませんので意外に思っていましたが、当時、丹波には夜這いという悪習があたりまえのことのように行われたらしいです。
山へ草刈りに行っておりますと、村の若い者が、やって来て、
「ワシが草を刈ってやるからワシのいうことを聞いてくれ」というのですが「何いうとるのやろ」と思っていただけでした。
夜になりますと、村の若い者が五、六人毎晩のように、私の家の前にやって来て、何だか唄ったりオカシナ声を出して、おそくまで騒いでいました。それもなんのことか分からずにおりましたが。
私市からすっかり暇をもらい帰って来たのは、たしか十七の時でした。それからの私は頼まれるままに、西町で髪結いをしていた、おしもさんの手伝いや、綾部から二里程ある大原でお茶よりの仕事というように、あちらの家、こちらの家へ、四、五日のちょっとした手伝いから、二、三カ月から半年ぐらいずつ、年期奉公でなく、割りに気軽く手伝いに廻っておりました。
その頃、教祖さまは裏町の倉の家におられました。私が手伝いに行ってる先から時々帰って来たおりなど、教祖さまはよく、金神様を祀られた御神前に向かい、
「神様、あなた様は、私に“その方の力になる者は、神が用意している”と、おっしゃります故、そのかたがみえる時まで、あなた様と二人で此処に、こうしておりましょう」
といって、神様と問答されていたり、あるいはせっせと、お筆先を書いたりしておられました。そうしておられるうちに、この裏町の倉にお祀りしてある金神様にお参りに来る人が、ボツボツと出来て来たようです。私のおぼえている人達でも、位田からは、おすみさんに、田中善一郎、村上清次郎、西原からは、文衛門に西原正太郎、鷹ノ栖からは、四方平蔵、祐助、与平次、上谷からは四方春一、喜久衛門、おくまさん、村の名は忘れましたが弥仙山に参る道筋に当る方角から木下慶太郎、地元の綾部の人では中村竹蔵、塩見じゅん、という人達がお参りに来ていました。
中でも木下慶太郎という人は、教祖さまが殊の外お気に入りで、後におりょうさんのお婿さんになり、出口姓を名乗りました。
一方新宮の金光教の大広間は、信者が寄らなくなり、とうとう一人もなくなって、足立さんは暮らしにも困りだし、弱々しげにときどき教祖さまのところに無心に来ていました。そのたびに教祖さまは快よくお米とか小遣いをあげておられたものでした。神様のお気に入らず別れられた人でありますが、教祖さまが世話をしてあげられねば、誰もしてくれる人とてなかったものですから、可哀想に思われたのであります。