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文献名1幼ながたり
文献名2思い出よみ(新仮名遣い)
文献名35 夫婦らしい暮しよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c33
本文のヒット件数全 72 件/ノ=72
本文の文字数1354
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本文  人一生というもは、それぞれ、みんな苦労多いことですが、先生と私と一生も、苦労続きでありました。わたくしたち夫婦は世間で言うところ、夫婦で芝居を観にいって楽しむという、そういう悦びを長い一生間にも味わうことが出来ませんでした。
 私が先生と結婚しましたは明治三十三年で、私は十八、そころはこ役員には物分かり悪い人が多く、先生に悪神がついていると言うて、先生すること為すことを攻撃して、お道宣伝に行けば邪魔をする、家に居れば居るで四ツ足み魂だと言うて、家に居ることもできないという有様で、そいった困らせかたは、先生も私も本当に悩ませられたもです。そういう或る日、先生が「おすみや、薪刈りに行こうかい」と言って、私たち二人は質山へ薪刈りに出かけました。今から思い返してみますと、私たち一代で、夫婦としていちばん楽しい思い出となっていますは、そころ質山で先生と薪刈りをして働いたことであります。
 そころはもう直日が生まれていて、二つぐらい赤ん坊でした。私は朝仕度を早くすますと、直日を背におんぶして、先生は車力を引っぱって陽上るなかを出掛けました。質山新道ところに車をおいて、車蔭にムシロを敷いてそ上に直日を寝かせました。陽があたるで、持ってきたオシメを車にかけてやりました。それから山に上って薪刈りをするですが、先生という人は草を刈っても、魚を捕らしても、ああいう人はちょっと聞いたこともありませんが、薪刈りもそれは上手でした。一束ぐらい薪を刈るは朝飯前という言葉がある通りです。
 教祖さまお筆先を取違いし、それでいて熱心な人々に取巻かれて、理わからんことで責められていた先生は、そこから逃れて、私と山中でこつこつと働いていることは、先生にとってこ上もない安息でありました。山真上にお日さまが上ると、お昼になったと先生は谷川に下りて水を汲んでくれました。二人は直日寝かせてある車力傍で私こしらえてきた貧しい弁当を頂きましたが、そ楽しさは今も新しくそままに思い出せます。こういうことが一生許されて暮らされたでしたら、私たちはどんなに安らかな楽しい一生をすごせたことだろうと思います。私たち程いろいろ目にあったもは世界中でも珍しいもではないかと思いますが、私達行く先には神界から御用が待っていました。先生ミタマは筆先にもありますように、世罪や穢れを一身に引きうけて千座置戸をおうてそれを救われるお役でしたで、先生一代苦労というもは、つれそうてきた私でなければ分からない大変なもでありました。こお道を広めるために先生が尽くされた努力というもが、また大変なもでした。一文もないところから借金をして手刷り印刷機械を買われて、原稿を書かれるも一人なら、活字を拾うて版を組むも殆んど一人でした。それを夜もろくろくに寝られることなく一枚一枚手でおして刷ったでありまして、先生努力というもは、先生熱心というもは、何をされても一心を打ち込んでやられたということは、そうして、一生どんな非難攻撃中ででも誠でつらぬき通されたということは、これほどに尊いもはないやろうと思うであります。
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