文献名1幼ながたり
文献名2思い出の記よみ(新仮名遣い)
文献名35 夫婦らしい暮しの日よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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人の一生というものは、それぞれ、みんな苦労の多いことですが、先生と私との一生も、苦労続きでありました。わたくしたち夫婦は世間で言うところの、夫婦で芝居を観にいって楽しむという、そういう悦びを長い一生の間にも味わうことが出来ませんでした。
私が先生と結婚しましたのは明治三十三年で、私は十八、そのころはこの道の役員には物分かりの悪い人が多く、先生に悪神がついていると言うて、先生のすること為すことを攻撃して、お道の宣伝に行けば邪魔をする、家に居れば居るで四ツ足み魂だと言うて、家に居ることもできないという有様で、その念のいった困らせかたは、先生も私も本当に悩ませられたものです。そういう或る日、先生が「おすみや、薪刈りに行こうかい」と言って、私たち二人は質山へ薪刈りに出かけました。今から思い返してみますと、私たちの一代で、夫婦としていちばん楽しい思い出となっていますのは、そのころ質山で先生と薪刈りをして働いたことであります。
そのころはもう直日が生まれていて、二つぐらいの赤ん坊でした。私は朝の仕度を早くすますと、直日を背におんぶして、先生は車力を引っぱって陽の上るなかを出掛けました。質山の下の新道のところに車をおいて、車の蔭にムシロを敷いてその上に直日を寝かせました。陽があたるので、持ってきたオシメを車にかけてやりました。それから山に上って薪刈りをするのですが、先生という人は草を刈っても、魚を捕らしても、ああいう人はちょっと聞いたこともありませんが、薪刈りもそれは上手でした。一束ぐらいの薪を刈るのは朝飯前という言葉がある通りです。
教祖さまのお筆先を取違いし、それでいて熱心な人々に取巻かれて、理のわからんことで責められていた先生は、そこから逃れて、私と山の中でこつこつと働いていることは、先生にとってこの上もない安息でありました。山の真上にお日さまが上ると、お昼になったと先生は谷川に下りて水を汲んでくれました。二人は直日の寝かせてある車力の傍で私のこしらえてきた貧しい弁当を頂きましたが、その時の楽しさは今も新しくそのままに思い出せます。こういうことが一生許されて暮らされたのでしたら、私たちはどんなに安らかな楽しい一生をすごせたことだろうと思います。私たち程いろいろの目にあったものは世界中でも珍しいものではないかと思いますが、私達の行く先には神界からの御用が待っていました。先生のミタマは筆先にもありますように、世の中の罪や穢れを一身に引きうけて千座の置戸をおうてそれを救われるお役でしたので、先生の一代の苦労というものは、つれそうてきた私でなければ分からない大変なものでありました。このお道を広めるために先生が尽くされた努力というものが、また大変なものでした。一文もないところから借金をして手刷りの印刷機械を買われて、原稿を書かれるのも一人なら、活字を拾うて版を組むのも殆んど一人でした。それを夜もろくろくに寝られることなく一枚一枚手でおして刷ったのでありまして、先生の努力というものは、先生の熱心というものは、何をされても一心を打ち込んでやられたということは、そうして、一生どんな非難攻撃の中ででも誠でつらぬき通されたということは、これほどに尊いものはないやろうと思うのであります。