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文献名1幼ながたり
文献名2獄中記よみ(新仮名遣い)
文献名3ぼっかぶり夫婦よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c41
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本文の文字数4272
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本文  未決では洗面も排便も監房中ですますことになっています。
 狭い監房部屋すみに水道センをひねって水を出し、暗い光中で朝顔を洗うです。
 それは、しばらく経ってからある朝、顔を洗うところに、黒いもがチョロチョロと動いているに気がつきました。黒い虫が二匹遊んでいるであります。
「まあ、有りがたい、虫がいるわ」と思って近よると二匹“ぼっかぶり”でした。
「まあ、お前どこから来たんじゃ、こんなところへ。ここはな、虫一匹来るところじゃないに……お前何しに来たんじゃ」
 私は喜びあまり思わず、大きな声で話しかけますと、ボッカブリは両手をひざ上に置くような格好をして、首を傾けて、私顔をじっと見ていました。
 それから決って朝八時になると、毎日洗面ところに来てチョロチョロと遊んでゆきました。それで私も毎日々々弁当ご馳走をとっておき、ボッカブリにもやることにしました。ボッカブリは私やるご馳走を嬉しそうに二匹並んで食べてゆきました。初めうちは、はにかんでいましたが、だんだん私に馴れなじんで、ご馳走がすんでも私坐っている周囲をぐるぐる廻ったり、膝上に上ってきたりしました。ボッカブリは大へん行儀作法よいもで、私がポッカプリに話しかけると、いつもきちんと前足をそろえて、首をちょっとかたむけて、私話を聞きます。ボッカブリ格好はいまだに忘れることできん印象深い懐かしいもです。今でも時々思い出しては、あボッカブリはどうしているやろう、いちど訪ねてみたいもだと思うです。
 ボッカブリは又、頭上に登ったりします。壁を自由自在に走り歩き天井をはいまわり、時には空中で遊んだり自由自在虫です。私は毎日ボッカブリと遊んでいるうちにボッカブリうまさに感心させられました。ボッカブリは得意になって演じてくれるで、
「おゝ、お前はえらいう、そんなことも出来るか」と賞めてやると、意気ようようと、また私上に来て、二人で一服しています。しばらくすると又、変わった曲芸をして見せてくれます。
 虫も人も心通じ合うことでは同じです。ある時、私は二人ボッカブリが夫婦であることを知りました。二匹は天井に上って交わっていました。それが長い時間でありました。二十分間もつるんでいたと思います。私はちょっと見た時つるんでいるで、待っていてやりましたが、いつまでも上を見るたび同じところにじっとしていました。しばらくして二匹が酔うたようになって、ぽろりんと落ちてきて、まだ酔うたようになって、落ちたまま動きもしません。しんどうてかなわんようにじっとしています。それは面白いもです。
 初め、顔を洗うところ水溜りに遊んでいるを私が、
「こっちへ来い、こっちへ来て遊べ」と頭をなぜてやったで、ちょいちょいと近寄って来たボッカブリは今はすっかり馴れて、私部屋に私同居人ようでありました。ボッカブリはことさらに果物が好きで、私も、果物をご馳走して話をするが楽しみでした。私が、
「ボッカブリ、ボッカブリ」と呼ぶと、いつでも私顔をぞきに来ました。私はボッカブリに唄を歌ってきかせました。歌を唄ってやると、ボッカブリは何時でもキチンと両手をそろえて、つつましげに、いっかどスマシこんで聴いてくれました。そ生真面目な様子がおかしくて、私は笑いこけたことがあります。ボッカブリは行儀よいもでした。規則正しく、毎日やって来る時間もきまっていました。
「人間はなあ、お前たちを馬鹿にしているが、お前はなかなか偉いう」といってやると、ちょっと恥ずかしげにうつむいていましたが、また得意になって、元気よう部屋中を走りまわって遊びました。感心なことに、まことに夫婦仲よいもで、いつも一しょにつれだっています。食べもなども、競り合って食べることがなく、いつも上品に楽しんで食べているは、見ていて気持ちよいもでありました。
 ところが或る日、いつも夫婦で元気よくでかけてくるに、一匹だけ来て、いかにもションボリとしています。いっこう後一匹が来る様子がありません。どこを探がしてもおりません。私は、
「お前は、今日は一匹だけか、どうかしたか、えらい元気がないやないか」と言うと、ちょろちょろと私前に歩みよって来ました。見ると婿さんボッカブリです。
「お前嫁さんは今日はどうしたや」と聞いてみましたが、しょぼしょぼとしているばかりです。いつも二匹で遊びに来ていたで、後一匹を連れずに一匹だけが、しょぼしょぼとしているを見ると、私も淋しくてなりません。それにボッカブリにとっては嫁さんことですから、私は心配になりました。
「どうしたんやいな、ほんまに」と、いくら尋ねてみても、こういう時には不自由なもでハッキリしたことは分かりません。また次日もボッカブリは一匹だけで、元気なげにやってきました。これは今でも目に浮かびますが、見ておられるもではありません。二、三日して担当看守が廻ってきました時、
「担当さん、おかしいこと言いますがよう、もうずっと、私ところへ二匹虫が遊びにきますやが、こ二、三日はどうしたわけか、一匹より来まへんが、あんたご存じやありまへんか」と聞いてみました。看守は私質問にびっくりした顔付きでいましたが、
「虫ってどんな虫ですか」
「黒い虫ですがな、綾部方では“ぼっかぶり”といっていますが、こ辺ではなんと言います。黒い小さいこがね虫ようなです」というと担当は、
「なんという虫か知りませんが、二、三日前黒い小さい虫がこ部屋前を二匹通るを、一匹私が知らずに靴先で踏み殺してしまいました」といいました。仕方ありません。交通事故で亡くしたことが判りました。一匹ヤモメボッカブリは、毎日訪ねてきました。相変わらずションボリとしています。こういう虫でも夫婦情というもは変わらないようです。
「ボッカブリ、お前嫁さんは、人間靴で踏まれて死んだというが、かわいそうなことやった。嫁さんに死なれて淋しいことやろう。しかし、お前は虫やでな、ちょっとも遠慮はいらんで、早う後添えをもろうて連れてきて見せてくれ」と言うてやりました。
 ところが、次日も次日もボッカブリは一匹でやって来ました。私は、これは私いうことが聞こえて居らんだろうと思って、同じことをくり返しいってすすめてやりましたが、どう言うても、一匹で訪ねてきて、私廻りを歩いたり、膝上に登ってきたりして遊んでゆきました。私もそれ以上は無理にすすめませんでした。そうして、こういう淋しいボッカブリと交遊は八カ月以上も続きました。あるいは九カ月か、十カ月も続いたかも知れません。
 そ或る日、いつも来る時刻になってもボッカブリは現われません。もう来るか、もう来るかと思って待っていると、しゅっしゅっと、いつにない威勢よい歩きぶりでボッカブリが現われました。ああ来た来たと思ってみると、どうです、嫁さんを連れて来ています。ボッカブリが嫁さんをつれて威張って来ています。私方を見上げて、──嫁さんをもらいました──というような顔で、そうして側嫁さんをちょっと見よがしに首を動かしてみせます。
「お前さんカカアもらったかい、よかったなあ、ハハハハ」とお祝いをいうてやりましたが、私はそ時ボッカブリに感心してしまいました。
「お前はえらいう、……人間はう、万物霊長とかいうて、口先きでは偉そうにいうておるけれども、嫁はんに死なれたら一人でよう居らん。嫁はんが死んだ時はわしは一生、一人で暮らすというているが、言うている舌かわかぬうちに直ぐに他女を入れるが、お前は人間から、虫けら、虫けらとさげすまれていてもお前方がよっぽど立派やう。今日までよう辛棒して来たな」というと、婿ボッカブリだけは前ように、私体に登ったりして遊ぶが、一匹はちょんとしたような顔をして、こちらを見ているばかりではにかんでいます。私が、
「お前さん、よう来てくれたな、仲よう遊びなよ、早うこっちへおいで」といって呼んでやると、だんだん私方に近づいてきて婿さんと同じように、私まわりでちょろちょろと遊びはじめました。
 ボッカブリは、朝八時に来て、昼間を遊んで、夕暮れ早いうちに、どこかへ帰ってゆきましたに、夜になっても帰ろうとせず、夜通し遊びました。私が寝てしまうと夜具中にもぐりこんで来たりするようになりました。ボッカブリに、こういう変化が来たは私に近く、ここを出ることが起こっているではないかと想われてなりませんでした。いつも夕暮れには──さよなら──をして帰ってゆくボッカブリが夜になっても私そばを離れません。私は、
「お前も、夜はねるやろう。わしと一しょに寝てもよいけど、わしが夜中に寝返りして、お前を圧し殺すとこまるから、お前は、わしが睡ったら、どっか、あっち方に離れておれよ」と言うてやりましたが、終日、どこもゆかず、私部屋中で暮らしておりました。
 ボッカブリには私と離れともない心がありましたで、夜も私ところに来て、別れを惜しんでくれました。
 私はボッカブリ予想通り、しばらくして弁護士が来てくれました。
「あなたは保釈で、出ることになりました」
「ああ、嬉しいことじゃ」私はそう思った次しゅんかん、こ虫を置いて出てゆくはカナワンことやと思いました。そこでボッカブリにいいました。
「お前ら、こうして永う仲よく遊んで一しょに暮してきたけれど、わしは二、三日うちに帰るさかい、わしがここを出ると、また別人が来るやろうし、どんな人が来るか知らんが、後から来る人にも可愛がってもらいなよ」
 しかし保釈は、ある事情で、急に取り止めということに変わってしまいました。私は再び同じ監房に戻ってきて、ボッカブリとずっと暮らすことになりました。
 こうして京都では四年も監房生活間、ボッカブリと私は非常に因縁深いもがありました。これは神様が私を慰めて下さるために遣わされたもと今でも思って居ります。私は今でも一度、ボッカブリを訪ねて、懐かしい当時思い出ばなしを交わしたいもとよく思うであります。
  四年を馴れなじんざるぼっかぶり
  妻はまめなか子等は増えたか
 別れてから十年も経って、こ間もこういう歌を詠んで、獄中友、ぼっかぶりを懐かしんだであります。
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