王仁DBβ版 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト 文献検索 画像検索 単語検索 メニュー開く
サイトの全面改修に伴いサブスク化します。詳しくはこちらをどうぞ。(2023/12/19)

文献名1出口王仁三郎著作集 第5巻 人間王仁三郎
文献名2第1部 自叙 野に生きる >梅花ひらくよみ(新仮名遣い)
文献名3開教四十周年よみ(新仮名遣い)
著者
概要
備考昭和7年(1932年)2月6日(旧元旦)前日に王仁三郎が大本瑞祥会第5回総会で行った講話。
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-10-07 00:12:48
ページ210 目次メモ
OBC B195305c120
本文のヒット件数全 261 件/ノ=261
本文の文字数5435
これ以外の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい 霊界物語ネット
本文  昔から十年一昔と云う事を申します。十年歳月と云うもは、待って居りますと中々来ないもでありますが、それが一年々々と過ごして四十年を経過してしまったであります。併しながら振りかえって、あとを見ますと、つい此様な感じがするであります。待つと云う事は永く感じ、又過ごして来た事は非常に短く感ずるでありまして、之は人間特質であります。
 教祖が明治二十五年に始めて神霊感応を御受けになって、三千世界大獅子吼をされた時から八年目に、私は此綾部土地へ、神様御指図によって参ったであります。そ大本は非常に微々たるもでありました。私が郷里を立って此処へ来た時には、本当に着み着ままで、只鞄一つ下げて来た丈であります。そして教祖は裏町倉をお借りになって、八畳位部屋に神様を祭って居られた。けれども一方には又教祖御神徳によって、四方八方から沢山信者が来るで、之を利用しようとして、金光教会が出て来ていました。金光教会と云うもは元から金神教えであった。こちらも艮金神として現われたであるから、金光教会ならばいいだろうと云うで、教祖は金光教会布教師にたよって居られたであります。金光教会方では到底此神様本当事はわからない、又わかる力がない。まして出張所へ出て来る様な教師にわかろう筈がない。それが為にお婆さんをたらかして置いて、信者さえ寄せればよいと云う考えで金光教会を建てて居った。けれども其事を神様がおわかりになったから、教祖は教会とわかれて、裏町倉に一人居られたであります。
 私は明治三十一年二月九日晩から、神霊導きによって、高熊山へ修行に行き、そして「自分故郷より西北に当たって、野に叫ぶ所神人がある。其神人を扶けて、神様目的をたてよ」と神示を受けて居りました。けれども西北と云うても何処ことかわからない。かねて第二故郷、園部に永らく居った事がありましたで、多分園部であろうと思って居りました。
 穴太を出まして八木村へ来た時に、八木虎天と云う所に茶店が一軒あって、其処で休んだ。其処に教祖娘さん、おひささんと云うが居った。其処で始めて御筆先事を聞き、二、三御筆先を見せて頂いたでありますが、私が高熊山に於て承った御神示と同じであるから吃驚して、自分行く所は此処に違いないと思って、綾部に来たであります。其処で金光教会では非常に驚き、全信者を使嗾して反対を試みたで、一先ず時機を待つ事として、明治三十一年故郷へ引き返したであります。翌三十二年になって、教祖信者たる四方平蔵氏が、はた信者に内証で、教祖命を受けて私を呼びに来ましたで、兎に角綾部へ来たであります。そして非常な反対と妨害を受けつつ三十三か年を経過して、今日になったであります。
 何事も始まりと云うもは妙なもで、今日様な知識階級方は一人も見えて居られなかった。僅か百姓婆媽がよって来て、そして何がなしに有り難いと云って拝んで居る様な連中ばっかりで、金儲けが仕度いとか、病気を癒してほしいとか、そういう連中がよって居ったであります。其処へ神様が高速なる理想を御説きになっても、誰もわかる者が無い。又私もどうかして、一日も早く神様御教えを明らかに天下に顕わしたいと思っても、二、三信者中に頑迷固陋なる役員が居って、非常にそれを妨げる。私はそれが為に四、五回生命危い事があった。暗殺隊に出会った事も度々ありました。けれども其都度神様から知らされて、何時も無事に勝利を得、そういう連中も直ちに帰順して御神業に仕える様になり、それら人が何十年間奉仕して来た位で、非常に天祐を受けて来たであります。
 併しながら其時代には、「三千世界一度に開く梅花」であるとか、「神が表に現われて天地がひっくりかえる、神様を信仰してさえ居れば、どんな事でもさしてやる」、こういう事ばかり云うて、新しく信者が出来ても、株を取られたらいかんと云うような考えで、誰も近くへよせない。そして垣を作って、私が一人でも信者を作って来ると、それを去なすという役員ばかり居った。殆どそれが一年間程続いた。此苦心と云うもは一通りではなかった。教祖及び神様が私底を知って居られたばかりで、耐え忍んで行きました。けれどもあらゆる侮辱と有謂妨害は、口で云えない様な事が幾らあったか知れないであります。
 又一方には教祖御筆先に、「此神は人教会後へは行かん。又立替立直しをする活神であるから、許可を受けたりする神ではない、一本立ち神である」。こういわれるし、一方からは又官憲が「願い出ねばいかん」というて始終やって来る。自分は其真ん中に板ばさみとなって、何処迄も、「認可を受けずとも、信教自由によって信仰は自由である。教会を建てようが、宮を建てようが自由である」と云う考えを持って居たから、届け出なかった。其憲法学者や官吏は、法律信教自由意義を極狭く解し、「官憲許可がなくては出来んもである」と云う考えを持って居ったから、非常な圧迫も受け、困難な事が沢山あったであります。
 けれども信教と云う事は信ずるも信ぜないも、教えるも教えないも自由である。信ずるもに教えるには教会も必要である。或は殿堂も必要である。こう云う見地から勝手に宣伝使を任命し、勝手に支部をこしらえ、どんどんやった。それが殆ど三十年間、三十年間と云うもは次々と支部をこしらえる。支部長が警察に引っぱられる、「斯う斯うじゃ」と云うて来る、又私が行く。毎日々々警察へ行って居った。けれども神様御神徳及び明治天皇から賜わった信教自由権と云うもが、本当に認められる時機が来て、愈々大本独特団体を今日迄操縦して来る事が出来たであります。
 明治四十年頃迄、私が参りまして殆ど十年間は、十二人役員がありましたが、本当神様御心わかるもは一人も居らない。みな四角ばって了って、私が洋服を着てさえ、色々事を云って非常に妨害をした。自分が他地方へ出て苦労艱難して信者をつくっていると、其処へ蓑笠を着て、まるで百姓一揆様な恰好して又妨害する。どうにもこうにも仕方がないから、暫く京都皇典講究所へ入った。そして神職会雑誌を拵えたり、斯指導に関する雑誌を拵えて出して居りました。翌年皇典講究所を最高点で卒業しまして、しばらく建勲神社人になって諸国を廻って居りました。
 そうしてる中に愈々時機が来て、四十二年にこちらへ帰り、其年に先ず第一に人入るところを拵えねばならぬと云うで、教会を建築する事を始めました。自分等が愈々やると云うで、当時散って仕舞っていた信者を合わせて四十九人、四十九では数が悪いから五十人にと思ったが、もう他に一人もない。これは自分と教祖をよせて四十九人、それから愈々教会を建てる事にしました。
 だんだんとやって来まして十年間過ぎ、大正五年冬から知識階級人たちが来るようになり、そうち浅野和三郎氏が入って来てやり出した。浅野さんは英語学者であるから、今迄時機を知らない頑冥不霊人を改めさして、之から新しい空気を注入して呉れるだろうと期待して居りましたところ、自分が真っ先先に長髪になり、『英和辞典』も人にやってしまい、非常にかんかんになってしまった。そしても一つ仕事も悪くなった。どうしても此儘では、大本は潰れてしまう、之は一辺自分から潰して了おう、そうでなければ潰れる時機が来る。そこで愈々「大正日日新聞」を拵え、八月一日から、今日迄浅野氏其著述は、歴史はいいが、教理は全部間違って居るという事を書いた。そして『大正維新真相』と云う本は一冊も無くして、読ませない様にして仕舞ったで、浅野氏等から反感を買うたであります。自分は自分一人で、本当教えが作り度いと云う決心を持って居った。そして其頃蒙古へ行こうと思っていた。蒙古を独立させ、やがて日蒙併合でもやって置かんと、国生命線を切られてしまう。
 こういう考えから、先ず大本を潰して置いて新しく建てねばいかんと思って居った。
 そうちあ大本事件が、十二日に起こって来たである。自分等手をからずとも官憲手を借って、色々誤った思想・誤った人信仰状態をすっくり一新して、明らかな本当神様御教えを開く事が出来たであります。それから私は丁度七年間、大本事件に連座して囹圄身となって居りましたで、其間はそこらへ行って大きな活動が出来ないで、其間を利用して、『霊界物語』口述を始め、『霊界物語』によって御筆先真相なり霊界一部なりを現わす事が出来て、始めて更生大本が出来たであります。
 其後彼十年事件に不屈不撓精神を持って今日迄持ち応えて来たが、今幹部なり、各地旧役員であります。其後今日本当神様御意思を開く事が出来る様になりまして、順次知識階級方も参加される様になって、今日大本隆盛を来たしたであります。
 大本教理は、霊力体三位一体を説いてあるであります。今日人たちは唯物論に堕したり、或は霊力論に堕したりして、みんな一方に偏して居るようでありますが、科学と宗教は相並行して行くべきもであります。
 神様霊と力と体、即ち霊は人間心、神様は神霊、力は神様働きである。凡て物質は、凡て神様体で、みな神様である。霊と物質中から力が出て来る。此断案は私が高熊山に修行中、素盞嗚尊御命令によって、小松林と云う神使が私に御伝えになったであります。「神は万物普遍霊にして人は天地経綸司宰者なり」。吾々は小学校などで、「神は天地司宰にして、人は万物霊長なり」と教えられたでありまするが、神様は無限霊であり、人間が天地司宰者なであって、今日迄此点が誤って居ったであります。之を教えとして宣言するにも、随分永い間、私は迫害を受けて来たもであります。
 霊力体三つを基礎にして、神様は万物普遍霊体であって、マルクスも、如何なるもも、之に勝つ事が出来ない。之が三千年昔から神様が御仕組みになった本当教えであって、物質から云っても、神霊方から云っても、どちらから云っても、大本より外には断じて無いであります。
 今迄既成宗教どれを見ましでも、神に偏し、仏に偏し、或は物質を軽視し、又霊界を軽んじたり、神霊世界みを重んじたり、或は自己世界を無視して居るとか、現界を此上もなく重んじる等、色々宗教・学説がありまするが、大本は現幽一致・霊力体一致である。所謂神様から開かれた天帝教えであるが故に、人間教えではない。人間今日学問として、どうしても此教えを破る事が出来ない。こういう教えを吾々は奉じている以上は、天下に何物も恐るるもあらんやであります。どうぞ此四十周年を記念としまして、此霊力体三大元説と、神典古事記説、人は天地経綸司宰者也。之を真っ向うに振りかざして、益々此神国成就に奮励努力されん事を望む次第であります。
 私も今日迄は歌を書いたり、或は一寸文章を書いたり、『霊界物語』をやるばかりで、演壇に立って御話しする事はめったにしなかったでありまするが、愈々更生して青年になってしもうたから、何処へでも行って、喋る覚悟をしたであります。それは何故覚悟したかと云うと、到る処で講師話を聞き、宣伝使説教を聞いて調べて見るに、肝腎神様話になると、ぼーとして向こうを見る感じがしてならない。或は時機しからしむる所によって、はっきりと云えない話もありますが、云って差し支えない事もある。それで今後は時々講演会にも、講習会にも顔を出す考えであります。
 今日四十周年に際しまして、今迄にあり来たった事あらましを述べ、之を更にこまかく云えば、三日や四日かからねば云えない。本当あらましを申し上げて、今後は皆様と一心同体となって、神国成就ため活動したいと存じます。今日は容易ならざる時機になったであります。日本人としても、世界各国人みんな色々思想困難・経済国難に悩んで居りまするが、一番困るが今日日本人であります。御筆先にある通り時機が来た。大峠は今来たらんとして居るであります。大峠麓にかかって居るであります。だんだん息が苦しゅうなって来たり、足がだるくなったりするに違いないであります。峠へ登ってしまえば、もう下り坂である。此大峠を御神徳によってしぎ、神政成就・弥勒実現に共々に尽くさねばならぬ時機であります。之が日本人雙肩にかかったる責任であります。
 まして神様が因縁によりお引きよせになった皆様方は、最も責任重い因縁があって御出でになったであって、此際は只今迄とは違って、めいめいに鉢巻を締め、褌を締めて、そしてせかず、あわてず、時推移に従って、少しずつ早く、時代よりも早く活動する様に、九月八日晩より、即ち九日より一日前であり、凡て大本は世界から出て来るもより早く出て来るですから、此考えで世中より遅れない様に、御一同に御活動あらん事を希望する次第であります。
(『真如光』 昭和七年二月十五日号)
霊界物語ネットで読む 霊界物語ネット
オニド関係の更新情報は「オニド関係全サイトの更新情報」を見れば全て分かります!
王仁DB (王仁三郎データベース)は飯塚弘明が運営しています。 /出口王仁三郎の著作物を始め、当サイト内にあるデータは基本的にすべて、著作権保護期間が過ぎていますので、どうぞご自由にお使いください。また保護期間内にあるものは、著作権法に触れない範囲で使用しています。それに関しては自己責任でお使いください。/出口王仁三郎の著作物は明治~昭和初期に書かれたものです。現代においては差別用語と見なされる言葉もありますが、当時の時代背景を鑑みてそのままにしてあります。/ 本サイトのデータは「霊界物語ネット」掲載のデータと同じものです。著作権凡例 /データに誤り等を発見したら教えてくれると嬉しいです。
連絡先:【メールアドレス(飯塚弘明)
プライバシーポリシー
(C) 2016-2024 Iizuka Hiroaki