文献名1出口王仁三郎著作集 第5巻 人間王仁三郎
文献名2第1部 自叙 野に生きる >梅花ひらくよみ(新仮名遣い)
文献名3開教四十周年よみ(新仮名遣い)
著者
概要
備考昭和7年(1932年)2月6日(旧元旦)の前日に王仁三郎が大本瑞祥会第5回総会で行った講話。
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データ最終更新日2021-10-07 00:12:48
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昔から十年一昔と云う事を申します。十年の歳月と云うものは、待って居りますと中々来ないものでありますが、それが一年々々と過ごして四十年を経過してしまったのであります。併しながら振りかえって、あとを見ますと、つい此の間の様な感じがするのであります。待つと云う事は永く感じ、又過ごして来た事は非常に短く感ずるのでありまして、之は人間の魂の特質であります。
教祖が明治二十五年に始めて神霊の感応を御受けになって、三千世界の大獅子吼をされた時から八年目に、私は此の綾部の土地へ、神様の御指図によって参ったのであります。その時の大本は非常に微々たるものでありました。私が郷里を立って此処へ来た時には、本当に着のみ着のままで、只鞄一つ下げて来た丈であります。そして教祖は裏町の倉をお借りになって、八畳位の部屋に神様を祭って居られた。けれども一方には又教祖の御神徳によって、四方八方から沢山の信者が来るので、之を利用しようとして、金光教会が出て来ていました。金光教会と云うものは元から金神の教えであった。こちらも艮の金神として現われたのであるから、金光教会ならばいいだろうと云うので、教祖は金光教会の布教師にたよって居られたのであります。金光教会の方では到底此の神様の本当の事はわからない、又わかる力がない。まして出張所へ出て来る様な教師にわかろう筈がない。それが為にお婆さんをたらかして置いて、信者さえ寄せればよいと云う考えで金光教会を建てて居った。けれども其の事を神様がおわかりになったから、教祖は教会とわかれて、裏町の倉に一人居られたのであります。
私は明治三十一年の二月九日の晩から、神霊の導きによって、高熊山へ修行に行き、そして「自分の故郷より西北に当たって、野に叫ぶ所の神人がある。其の神人を扶けて、神様の目的をたてよ」との神示を受けて居りました。けれども西北と云うても何処のことかわからない。かねて第二の故郷、園部に永らく居った事がありましたので、多分園部であろうと思って居りました。
穴太を出まして八木村へ来た時に、八木の虎天と云う所に茶店が一軒あって、其処で休んだ。其処に教祖の娘さんの、おひささんと云うのが居った。其処で始めて御筆先の事を聞き、二、三御筆先を見せて頂いたのでありますが、私が高熊山に於て承った御神示と同じであるから吃驚して、自分の行く所は此処に違いないと思って、綾部に来たのであります。其処で金光教会では非常に驚き、全信者を使嗾して反対を試みたので、一先ず時機を待つ事として、明治三十一年故郷へ引き返したのであります。翌三十二年になって、教祖の信者たる四方平蔵氏が、はたの信者に内証で、教祖の命を受けて私を呼びに来ましたので、兎に角綾部へ来たのであります。そして非常な反対と妨害を受けつつ三十三か年を経過して、今日になったのであります。
何事も始まりと云うものは妙なもので、今日の様な知識階級の方は一人も見えて居られなかった。僅かの百姓の婆媽がよって来て、そして何がなしに有り難いと云って拝んで居る様な連中ばっかりで、金儲けが仕度いとか、病気を癒してほしいとか、そういう連中がよって居ったのであります。其処へ神様が高速なる理想を御説きになっても、誰もわかる者が無い。又私もどうかして、一日も早く神様の御教えを明らかに天下に顕わしたいと思っても、二、三信者の中に頑迷固陋なる役員が居って、非常にそれを妨げる。私はそれが為に四、五回生命の危い事があった。暗殺隊に出会った事も度々ありました。けれども其の都度神様から知らされて、何時も無事に勝利を得、そういう連中も直ちに帰順して御神業に仕える様になり、それらの人が何十年間奉仕して来た位で、非常に天祐を受けて来たのであります。
併しながら其の時代には、「三千世界一度に開く梅の花」であるとか、「神が表に現われて天地がひっくりかえる、神様を信仰してさえ居れば、どんな事でもさしてやる」、こういう事ばかり云うて、新しく信者が出来ても、株を取られたらいかんと云うような考えで、誰も近くへよせない。そして垣を作って、私が一人でも信者を作って来ると、それを去なすという役員ばかり居った。殆どそれが一年間程続いた。此の時の苦心と云うものは一通りではなかった。教祖及び神様が私の腹の底を知って居られたばかりで、耐え忍んで行きました。けれどもあらゆる侮辱と有謂妨害は、口で云えない様な事が幾らあったか知れないのであります。
又一方には教祖の御筆先に、「此の神は人の教会の後へは行かん。又立替立直しをする活神であるから、許可を受けたりする神ではない、一本立ちの神である」。こういわれるし、一方からは又官憲が「願い出ねばいかん」というて始終やって来る。自分は其の真ん中に板ばさみとなって、何処迄も、「認可を受けずとも、信教の自由によって信仰は自由である。教会を建てようが、宮を建てようが自由である」と云う考えを持って居たから、届け出なかった。其の頃の憲法学者や官吏は、法律の信教自由の意義を極狭く解し、「官憲の許可がなくては出来んものである」と云う考えを持って居ったから、非常な圧迫も受け、困難な事が沢山あったのであります。
けれども信教と云う事は信ずるも信ぜないも、教えるも教えないも自由である。信ずるものに教えるには教会も必要である。或は殿堂も必要である。こう云う見地から勝手に宣伝使を任命し、勝手に支部をこしらえ、どんどんやった。それが殆ど三十年間、三十年間と云うものは次々と支部をこしらえる。支部長が警察に引っぱられる、「斯う斯うじゃ」と云うて来る、又私が行く。毎日々々警察へ行って居った。けれども神様の御神徳及び明治天皇から賜わった信教の自由権と云うものが、本当に認められる時機が来て、愈々大本独特の団体を今日迄操縦して来る事が出来たのであります。
明治四十年の頃迄、私が参りまして殆ど十年間は、十二人の役員がありましたが、本当の神様の御心のわかるものは一人も居らない。みな四角ばって了って、私が洋服を着てさえ、色々の事を云って非常に妨害をした。自分が他の地方へ出て苦労艱難して信者をつくっていると、其処へ蓑笠を着て、まるで百姓一揆の様な恰好して又妨害する。どうにもこうにも仕方がないから、暫く京都の皇典講究所へ入った。そして神職会の雑誌を拵えたり、斯の道の指導に関する雑誌を拵えて出して居りました。翌年皇典講究所を最高点で卒業しまして、しばらく建勲神社の人になって諸国を廻って居りました。
そうしてる中に愈々時機が来て、四十二年にこちらへ帰り、其の年に先ず第一に人の入るところを拵えねばならぬと云うので、教会を建築する事を始めました。自分等が愈々やると云うので、当時散って仕舞っていた信者を合わせて四十九人、四十九では数が悪いから五十人にと思ったが、もう他に一人もない。これは自分と教祖をよせて四十九人、それから愈々教会を建てる事にしました。
だんだんとやって来まして十年間過ぎ、大正五年の冬から知識階級の人たちが来るようになり、そのうち浅野和三郎氏が入って来てやり出した。浅野さんは英語の学者であるから、今迄の時機を知らない頑冥不霊の人を改めさして、之から新しい空気を注入して呉れるだろうと期待して居りましたところ、自分が真っ先先に長髪になり、『英和辞典』も人にやってしまい、非常にかんかんになってしまった。そしても一つ仕事も悪くなった。どうしても此の儘では、大本は潰れてしまう、之は一辺自分から潰して了おう、そうでなければ潰れる時機が来る。そこで愈々「大正日日新聞」を拵え、八月一日から、今日迄の浅野氏其の外の著述は、歴史のものはいいが、教理のものは全部間違って居るという事を書いた。そして『大正維新の真相』と云う本は一冊も無くして、読ませない様にして仕舞ったので、浅野氏等から反感を買うたのであります。自分は自分一人で、本当の教えが作り度いと云う決心を持って居った。そして其の頃蒙古へ行こうと思っていた。蒙古を独立させ、やがて日蒙併合でもやって置かんと、国の生命線を切られてしまう。
こういう考えから、先ず大本を潰して置いて新しく建てねばいかんと思って居った。
そのうちあの大本事件が、十二日に起こって来たのである。自分等の手をからずとも官憲の手を借って、色々誤った思想・誤った人の信仰状態をすっくり一新して、明らかな本当の神様の御教えを開く事が出来たのであります。それから私は丁度七年間、大本事件に連座して囹圄の身となって居りましたので、其の間はそこらへ行って大きな活動が出来ないので、其の間を利用して、『霊界物語』の口述を始め、『霊界物語』によって御筆先の真相なり霊界の一部なりを現わす事が出来て、始めて更生の大本が出来たのであります。
其の後彼の十年事件に不屈不撓の精神を持って今日迄持ち応えて来たのが、今の幹部なり、各地の旧役員であります。其の後今日の本当の神様の御意思を開く事が出来る様になりまして、順次知識階級の方も参加される様になって、今日の大本の隆盛を来たしたのであります。
大本の教理は、霊力体三位一体を説いてあるのであります。今日の人たちは唯物論に堕したり、或は霊力論に堕したりして、みんな一方に偏して居るようでありますが、科学と宗教は相並行して行くべきものであります。
神様の霊と力と体、即ち霊は人間の心、神様は神霊、力は神様の働きである。凡ての物質は、凡て神様の体で、みな神様のものである。霊と物質の中から力が出て来る。此の断案は私が高熊山に修行中、素盞嗚尊の御命令によって、小松林と云う神使が私に御伝えになったのであります。「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり」。吾々は小学校などで、「神は天地の司宰にして、人は万物の霊長なり」と教えられたのでありまするが、神様は無限の霊であり、人間が天地の司宰者なのであって、今日迄此の点が誤って居ったのであります。之を教えとして宣言するにも、随分永い間、私は迫害を受けて来たものであります。
霊力体の三つを基礎にして、神様は万物普遍の霊体であって、マルクスも、如何なるものも、之に勝つ事が出来ない。之が三千年昔から神様が御仕組みになった本当の教えであって、物質から云っても、神霊の方から云っても、どちらから云っても、大本より外には断じて無いのであります。
今迄の既成宗教のどれを見ましでも、神に偏し、仏に偏し、或は物質を軽視し、又霊界を軽んじたり、神霊の世界のみを重んじたり、或は自己の世界を無視して居るとか、現界を此の上もなく重んじる等、色々の宗教・学説がありまするが、大本は現幽一致・霊力体一致である。所謂神様から開かれた天帝の教えであるが故に、人間の教えではない。人間の今日の学問として、どうしても此の教えを破る事が出来ない。こういう教えを吾々は奉じている以上は、天下に何物も恐るるものあらんやであります。どうぞ此の四十周年を記念としまして、此の霊力体三大元説と、神典古事記説、人は天地経綸の司宰者也。之を真っ向うに振りかざして、益々此の神国成就に奮励努力されん事を望む次第であります。
私も今日迄は歌を書いたり、或は一寸文章を書いたり、『霊界物語』をやるばかりで、演壇に立って御話しする事はめったにしなかったのでありまするが、愈々更生して青年になってしもうたから、何処へでも行って、喋る覚悟をしたのであります。それは何故覚悟したかと云うと、到る処で講師の話を聞き、宣伝使の説教を聞いて調べて見るに、肝腎の神様の話になると、ぼーとして向こうを見る感じがしてならない。或は時機のしからしむる所によって、はっきりと云えない話もありますが、云って差し支えない事もある。それで今後は時々講演会にも、講習会にも顔を出す考えであります。
今日四十周年に際しまして、今迄にあり来たった事のあらましを述べ、之を更にこまかく云えば、三日や四日かからねば云えない。本当のあらましを申し上げて、今後は皆様と一心同体となって、神国成就のため活動したいと存じます。今日は容易ならざる時機になったのであります。日本人としても、世界各国人みんな色々の思想困難・経済国難に悩んで居りまするが、一番困るのが今日の日本人であります。御筆先にある通りの時機が来た。大峠は今来たらんとして居るのであります。大峠の麓にかかって居るのであります。だんだん息が苦しゅうなって来たり、足がだるくなったりするに違いないのであります。峠へ登ってしまえば、もう下り坂である。此の大峠を御神徳によってしのぎ、神政成就・弥勒実現に共々に尽くさねばならぬ時機であります。之が日本人の雙肩にかかったる責任であります。
まして神様が因縁によりお引きよせになった皆様方は、最も責任の重い因縁があって御出でになったのであって、此の際は只今迄とは違って、めいめいに鉢巻を締め、褌を締めて、そしてせかず、あわてず、時の推移に従って、少しずつ早く、時代よりも早く活動する様に、九月八日の晩より、即ち九日より一日前であり、凡て大本は世界から出て来るものより早く出て来るのですから、此の考えで世の中より遅れない様に、御一同に御活動あらん事を希望する次第であります。
(『真如の光』 昭和七年二月十五日号)