文献名1出口王仁三郎著作集 第5巻 人間王仁三郎
文献名2第2部 心境を語るよみ(新仮名遣い)
文献名3時代に生きてはたらけよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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ページ297
目次メモ
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本文
此の地上一切の何れの宗教に於ても、布教師とか宣教師とか或は教師とか云うて居りますが、大本が初めて宣伝使と之を唱えたのであります。霊界に於ては総てエンゼルと称えられ、又宣伝使といわれて居る。それを地上に写して宣伝使と名を附けたのでありますが、此の頃は曰く防火宣伝、曰く交通宣伝、曰く何、曰く何等々盛んに用いられて居る。
大本が尖端を切った後を皆、総てが使うて居る。そういう工合で総て大本は、宣伝使という名からしの権威がなければ、神の道を説くことは出来ない。よく今まで政治家が順応ということを言って居たが、順応とは世の中に順じ応ずるというのであるから、之は矢張り後端を行くのであります。大本は順応指導するのであります。世の中の形勢を考えて、それに対して指導して行くのであります。
この大本ということは一切の大本ということであって、「世の大本」と筆先に出て居ります。「世」ということは、世の中の一切のあらゆる事を約めて居る言葉であります。故に政治にしても、教育にしても、宗教にしても、芸術にしても、その他天文・地文一切の事、その他現代の学者が何程気張って鯱鋒立ちになっても解らん事を、大本は簡単な言葉で知らして居ります。それで宣伝使のお方は、政治家の考えも無ければならず、又宗教家の考えも必要である。教育家の考えも必要である。芸術家の考えも必要である。時に依っては、「日に日に変る大本、月の象の簾の中」ということが書いてある。
私はよく新聞や何彼に「大化物」と書かれて居りますが、自然に化け物にならねば仕方がない。神様の命令に依り、時代に順応して指導する使命を受けて居るのであります。それで時に依れば、神教を伝達すること、宗教を宣布することが主になったり、或は又政治が主になったり、色々と変わって来るということはよく考えて貰わねばならない。故に宣伝使たる人は信者の手引きをする人達でありますが、矢張り政治方面の方へも注意を払って貰い度い。又芸術の方面・教育の方面、一切の方面へ注意を払って、何でも一切、浅くとも広く之を知って居らねば、段々むつかしくなって勤まらぬようになって来ます。
今までの初まりの大本の時代であれば、只神様を祭祀し教理のみを説いて居れば良かったけれども、今日はそういうわけにはゆかない。豹変するのか何か知らんが、我々のやって居る事は世間から見たら一寸も捕まえどころがない。何をして居るのかわからんようになりますが、約り碁盤の上で捨て石を打って居るようなものである。この石は何うなって何う利くかという事は誰にもわからない。人にわかったらこちらが負けるのでありますから、兎も角大本の教えを十分に研究して貰って、その中には表面上書いてのうても、政治の事もある、教育のこともある、或は芸術のこともある。神様の方面のみならず、総て一切が神の仕事でありまして、完全なみろくの世を実現させるには一切の物が必要である。
又今日の進歩した科学も必要である。之は神様が世界を一つにする為に、通信なり新聞なり交通機関なりも出来たのであって、三千年苦労なされたが、時節が到来して今日の物質文明の世が出来たのであります。教祖が明治二十五年に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。須弥仙山に腰を掛け鬼門の金神守るぞよ」。こう言われた言葉は、今日の物質文明と大本の精神文明との準備がととのうたという事になって居るのであります。「三千世界一度に開く」というのは縦ばかりでない。縦から横から全部一切、地にある物、天にある物一切を指して、それが一度に開くというのである。今までに蘊蓄してあった総ての経綸が先ず形の上から現われて来るのであります。
大本が之丈神様のお道を伝えるのに便宜を得たのも、物質文明のおかげである。之がなければ、台湾や北海道・海外諸国などへは一代かかっても行けるか行けないかわからぬ。けれどもこうして、千里も距たった人と一堂に会することが出来るのは物質文明の賜である。昔のようであったならば、何程神様が三千世界を統一すると言われても、百年河清を待つより難しい。今日のアメリカの出来事を今日聞けるようになったのも、高皇産霊系統の神の活動であります。まだ神皇産霊系統の活動は、之は女性的の活動でありますから、はっきり表には現われて居りませんが、矢張り並行して現われて居る。思想の洪水が氾乱するのも神の道が発展した証拠であります。一方には思想の洪水があって国を危うくする者がないと、真剣に国を護る者が出ない。皆神の方から見れば、総てが経綸ならざるはないのであって、一瀉千里の勢いで進展して居るのであります。
それで宣伝使の方は大本にとっては一番大事な人でありますから、よく此の考えを持って貰って、必要の時に停車場へ行って汽車に乗り遅れてはいかぬと云うような考えで、時間に遅れないように、銘々に注意を払っていただき度いのであります。
宣伝使会に於けるお話、昭和六年二月六日、亀岡・大祥殿にて
(「真如の光」昭和六年二月十五日号)