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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >1 出口なお出生よみ(新仮名遣い)
文献名3身魂因縁よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-09-25 15:42:15
ページ27 目次メモ
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本文  山陰道は丹波から始まる。老坂峠(大枝山)をこえて、亀山(現在亀岡)へ、そして園部・須知・桧山・菟原から、長田野をへて、二〇余里で福知山に入る。すなわち、江戸時代においては、亀山藩五万石、園部藩二万七千石が並ぶ亀岡盆地から、低い山々をこえて福知山盆地に入ったである。福知山盆地には、東寄りに山家藩一万石と綾部藩二万石城下町があり、西端には、盆地要地福知山があった。大本開祖出口なおは一八三七年一月二二日(旧暦・天保七年一二月一六日)、こ福知山地で生まれた。
 当時福知山は、一六六九(寛文九)年いらい、朽木氏城下町で、由良川と土師川が合流する地点丘陵には、平山城福知山城があった。朽木氏は石高三万二千石、大藩ない丹波・丹後では、譜代有力な大名として聞こえていた。
 福知山は、由良川水運を利用した交易一中心地でもあった。こ交易路は、丹後由良から西廻り航路によって上方に通じ、福知山船持商人が独占権をもっていて、茶・綿・漆・米穀・油実類などを積み出し、酒・油粕・干鰯・塩などを搬入して繁栄していた。大阪から陸路も、西宮・柏原をへて山陰道に出る山路がひらけていた。
 丹波地方で有力な大名城下町であり、商取引きも活発であった福知山は、同時に文化面でも、こ地方中心をなしていた。一七八八(天明八)年記録によれば、当時福知山町家数は九一五、人口三三〇三人、石高七三四石余で「福知千石」といわれて幕末までほぼ一定していた。ほかに三〇〇軒あまり藩士がおり、一〇〇〇軒前後町屋はほとんどが商工を生業としていた。
 天保期福知山藩は、極度財政難で約一〇万両を大阪そ商人から借り入れ、そ危機を切りぬけるために民衆にたいする圧迫を強化していた。天保という時期は全国的にみても、江戸時代をつうじて百姓一揆がもっとも多く、幕府や藩財政危機は、救いようない深刻な様相を示すようになった時期であり、幕府および各藩による支配体制危機が強く人々心に感じられるようになった時期であった。こうした危機にたいして、支配者側は一八三八(天保九)年幕府倹約令にはじまる改革をおこなった。福知山藩でも一八四二(天保一三)年には幕府倹約令をまねた禁令をしき、藩政大改革に着手している。福知山藩では、こ藩政改革ために、藩権力と福知山有力商人が結託して商業統制や厳しい倹約強制をなし、他に類をみないほど苛斂誅求を実行したために、やがて一八六〇(万延元)年福知山領全六三ヵ村におよぶ大一揆をみるにいたった。なおが生まれた一八三七年前後は、こうした民衆反抗がこれまでにないほど激発した年であった。ちなみに全国一揆件数は一八三六年で三九、一八三七年で二八におよぶ。一八三七年にはいるや、大阪で町奉行所元与力で陽明学者であった大塩平八郎が、苛酷で無能な役人およびこれと結託して暴利をむさぼる大商人を非難し、打ちこわしによって奪った金や米を貧しい人々に分配し、村々では村役人もとにある土地や年貢帳面類を焼きすてるように、「村々小前者に至る迄」うったえて挙兵した。大塩は、こうした打ちこわしによって「神代」に「復古」させようとしたであって、こ反乱は「徳政大塩味方」などと称する一連反乱を各地にひきおこし、そなかには明らかに反幕府的な行動もふくまれていた。こ乱そは、結局簡単に敗北してしまったけれども、大塩が各地に潜入し、やがて大反乱がおこるという噂がたえなかった。福知山藩はこ報に接するや、ただちに塩津峠に出兵して警戒をつづけている。天保期に、こういう動乱がことにはげしくなった直接原因は、天明大飢饉とともに、天保大飢饉が、民衆を苦しめていたからである。一八三六(天保七)年は春から雨天つづきで気温が低く、飢饉は全国に及んでいたが、奥羽諸国はことにはげしく数十万人死者をだしたという。綾部地方を中心に福知山盆地、近世中期から明治初期にかけて状況をつたえている『珍事掃集記』を主として、こ地方状況をみると、だいたい次ようであった。一八三三(天保四)年は春から冬まで雨がふりつづいて不作であり、綾部蔵米値段は、一八三〇年一石六五匁、一八三三年には八七匁にはねあがった。一八三四年は小康を得たが、一八三五年は大雪ためこ地方では麦が不作だった。こうした不作続きなかで、本格的な大凶年一八三六年をむかえる。こ年は四月から九月まで土用に五日間日が照っただけで雨が降りつづき、真夏に重ね着するほど涼しかった。しかも福知山ではそ前年、綾部ではそ年に大洪水があり、米と麦は雨天と低温ために成育がわるく、木綿は育ちはわるくなかったが実がならず、種子をとることもできなかった。こうして米価は一八三六年秋から翌年にかけて急騰し、一八三六年冬には玄米一石が綾部で一四〇匁位、翌年三月には一九〇匁から二〇〇匁となり、田辺(現在舞鶴)では二五〇匁にもおよび、麦も八〇匁から一二〇匁となった。福知山では一八三六年末に米一石が二〇〇匁、翌年三月には二八〇匁にもたっした。米麦だけでなくすべて不作だったから、人々は山野に自生する草木をたべた。一八三六年冬には山々葛を掘って食用としたが、春には掘りつくされてなくなった。こ葛からつくる「葛よね」が一斗三分から四分で売買された。そ他、よめな・れんげ・りょうぶ・よもぎ・ふき・えき・やまなし・ぶどう葉も食用とし、これら葉を売り歩く者もいた。松皮(内皮)さえ食べたという。そして乞食が多くなり、綾部・福知山城下へはそれぞれ毎日数十人ずつおしかけてきた。福知山藩では、広小路御霊神社前で貧民に粥施行をしている(「珍事掃集記」「天田郡志資料」)。
 大本開祖出口なおが生まれたは、こような年一八三六(天保七)年も暮れて、飢えと寒さにおきながら新年を迎えようとしている旧一二月一六日ことであった。母そよは最初、なおを減児(堕胎)するつもりであったを、姑が反対したで、なおを生んだという。堕胎はふつう間引きとよばれ、江戸時代農民生活では、なかば常識化していた。ことに江戸時代後期には、困窮した民衆堕胎があまり広範におこなわれたため、人口減少がみられるほどになり、支配者は生産人口を確保するために、間引き防止教育を強化しているくらいである。母そよが堕胎を計画した理由は、なによりもまず、こ飢饉ためであった。
 なおが後年記した「経歴神諭」には、当時事情について「なお誕生年は天保七年一二月一六日、福知山一宮神社氏子なり、申年大飢饉年、そ年には昼夜降り通しにて作物はとれぬ故翌天保八年には金を枕にして国替え(死亡)いたしたもがたっぴつありたぞよ。因縁身魂は生まるる年より、そういう不幸年に生まれたである」(明治35・9・26)とべている。こ神諭では、こ年がおそるべき凶作年であったという事実が、身魂因縁としてとらえられており、最下層民衆苦難なかから、そ救済者としてたちあらわれる大本運命的な出発点が意味づけられている。たしかにこ生誕は、なお苦難歴史にはもっともふさわしい出発点であった。

〔写真〕
○開祖使用された石臼 p27
○福知山城址一廓 p28
○打ちこわし(1866-慶応2年 江戸) p29
○開祖産湯井戸(福知山市上紺屋町) p31
○なお出生に関する筆先 p32
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