王仁DBβ版 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト 文献検索 画像検索 単語検索 メニュー開く
サイトの全面改修に伴いサブスク化します。詳しくはこちらをどうぞ。(2023/12/19)

文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >4 維新時世と生活苦よみ(新仮名遣い)
文献名3維新よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ57 目次メモ
OBC B195401c1141
本文のヒット件数全 104 件/ノ=104
本文の文字数2105
これ以外の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい 霊界物語ネット
本文  明治維新変革は、農民一揆大波と、これにつづく、漠然とした世直し期待をこめた「ええじゃないか」狂騒的な流行を背景に、下級武士と、土着産業資本家性格をもつ地主指導によって実現した。倒幕・王政復古をかかげる新政権は、一年半余、はげしい内戦をへて、日本全土新たな支配者となった。こ変革は、まだ丹波、こ地方民衆実生活を大きく変えるもではなかったが、廃藩置県が断行され、土地売買自由や職業自由が公認されると、巨大な社会変革波が民衆生活をまきこむことになった。変革おもなもは、一八七三年にはじまる地租改正、こ地租改正によって取りたてられる金納地租を積極的に投入した近代化・資本主義化ため諸政策、国民皆兵原則に立つ徴兵制、義務教育制採用などであった。これら諸政策は、数百年来続けられてきた民衆生活や習慣を根本から変革しようとするもであり、しかもそうした変革を、天皇古代的な宗教的権威を擁する、強大な中央集権的統一勢力による民衆へ威圧と教化をつうじて、一挙に実現しようとするもであった。
 こういう動向は同時に、幕末動乱期に、民衆生活に根ざして成立した一連民衆宗教にたいする、政府、啓蒙的・文明開化的な理由をかかげて干渉・圧迫をもたらすこととなった。天皇制政府禁圧にたいして、ちょうどこ時期に、河内から大阪へと発展しつつあった天理教は、根づよい抵抗をつづけ政府をきびしく批判した。天理教『おふでさき』には「高山しんはしらハとふじん(唐人)や、これが大(第)一神りいふく(立腹)」(三五七、明治七年)「これまでハよろづせかいハ上まま、もふこれからハもんくかハるぞ」(三一二二、同)という権力批判言葉がべられている。天理教は大和盆地先進的な農村において、急速に没落していった地主主婦中山みきによってはじめられた民衆宗教であったが、現世利益を中心として、近代社会形成に際してそ犠牲となった貧民を、救済しようとする強い志向をもっていた。また、中山家が所在した丹波市は「おかげまいり」群衆が通る街道筋にあたっており、みきは一八三〇年「おかげまいり」と一八六七年「ええじゃないか」を身近かに体験した。天理教「陽気づとめ」は「ええじゃないか」における民衆宗教的高揚を直接背景としたもであり、そ教義基礎もこ時期に形成された。
 明治維新は、二本近代化出発点であったが、しかし、それは神武創業昔にかえる「王政復古」を中核的なイデオロギーとして遂行された。神仏分離と廃仏毀釈、さらに神道国教化政策は、幕末維新政治運動を支えた主導的なイデオロギーであった尊王思想や、神国思想を現実化し、国民生活原理にまで徹底化しようとするもであった。廃仏毀釈は、各地で寺院や仏像激しい破却を伴い、北陸・三河など浄土真宗地帯では、それに反対する農民護法一揆がおこった。こうして長い間、封建支配一環として民衆信仰を支えてきた仏教は急速に権威を失い、神道が国家主義や天皇崇拝と結合して、強い支配力をもつことになった。神道思想は、一面では民衆なかに深く根をおろしたもであったから、神道意識発展は、ある意味では民衆社会的自覚宗教形態であり、「ええじゃないか」や天理教・金光教は、そういう立場からする支配階級へ批判をふくんでいた。だが、天皇崇拝と直結した復古神道イデオロギーは、天皇制思想的中核として位置づけられ、国民にたいするむきだし支配原理ともなった。神祇官や大教院実権を握り、神仏分離や神道国教化をおしすすめた平田派国学者・神道家は、明治政府開明政策にもはげしく対立する反動的支配を唱えた。ちに大本思想に重大な影響を与えた大石凝真素美と本田親徳は、どんなにささいな開明化=西欧化も拒否して、純粋な「王政復古」・神道政治を実現しようとする急進的な神道家であり、大石凝は廃仏毀釈に積極的に参加した。
 「御一新」は、「天朝様御親政」ありがたい時世到来として、大々的に宣伝されたが、こ変革は、丹波小藩綾部と、さらには、そ城下町はずれに住む政五郎・なお夫婦に、どういう変化をもたらしたであろうか。
 明治維新にさいし、綾部藩は一八六九(明治二)年二月六日藩籍を奉還し、藩主九鬼隆備は綾部藩知事となり、一八七一(明治四)年七月綾部県となったが、一一月県を廃し京都府何鹿郡に編入された。一八七三(明治六)年におこった綾部地方新政反対一揆(明六一揆)は、さきにべたような新政府諸政策に反対した民衆が、徴兵免除・裸体許可・社倉米を村々で積みたてる許可・学校入用金免除などをもとめて蜂起したもであった。星原・里・小呂・有岡・上原・下八田・広瀬そ地域農民約二〇〇〇人が熊野神社・鳥ヶ坪・里河原などに集まって右要求を志太。これは綾部地方における最大一揆であった。

〔写真〕
○王政復古(大総督有栖川宮熾仁親王京都進発) p58
○1887(明治21)年ころ天理教本部 p59
○大石凝真素美 p60
霊界物語ネットで読む 霊界物語ネット
オニド関係の更新情報は「オニド関係全サイトの更新情報」を見れば全て分かります!
王仁DB (王仁三郎データベース)は飯塚弘明が運営しています。 /出口王仁三郎の著作物を始め、当サイト内にあるデータは基本的にすべて、著作権保護期間が過ぎていますので、どうぞご自由にお使いください。また保護期間内にあるものは、著作権法に触れない範囲で使用しています。それに関しては自己責任でお使いください。/出口王仁三郎の著作物は明治~昭和初期に書かれたものです。現代においては差別用語と見なされる言葉もありますが、当時の時代背景を鑑みてそのままにしてあります。/ 本サイトのデータは「霊界物語ネット」掲載のデータと同じものです。著作権凡例 /データに誤り等を発見したら教えてくれると嬉しいです。
連絡先:【メールアドレス(飯塚弘明)
プライバシーポリシー
(C) 2016-2024 Iizuka Hiroaki